遁走
「来るわよ! 伏せて!!」
直後、槍が弾かれる。そこからは一瞬だった。何かが顔の横を通り過ぎるのを感じた後、頬骨の辺りに鋭い痛みが走る。自分の頬が数ミリ抉れていることを知った。
事ここに至って、脳天を突き上げるような恐怖がイヌガミを襲う。
「はあ……ハ……ハッ……あ……あ、あああ……ああああッ!!」
悲鳴は遅れて出た。今の一瞬で二度も命を失いかけたことを、時間差で理解する。
「あの……っ!! あの神父はッ!? 今、どうしてるッ!?」
絶叫する。分かりきったことを。あれだけ待って出てきたのがこの女なのだ。
あの神父はクロだった。芝居も全てバレていた。考え得る限り最悪な状況。
後悔と絶望が頭の中でぐるぐる回っていた。今、自分がまともに立っているのかも怪しい。恐怖に起因する背筋の寒気は許容値を超え、次の瞬間には正気を失っている気がした。
そして、そんなイヌガミの内心などお構いなしに、女がまた髪を抜く。
「……ひ!!」
間もなく生成された槍が射出された。死が再び輪郭を見せ始める。
ピシリッ、と。瞬間、目の前に巨大な窓ガラスのような半透明の壁が現れた。イヌガミに襲い掛かった槍は、これにより進行を防がれ、突き刺さったまま静止する。
「……ちゃんと避けなさいよ」
明の声が聞こえて、この防護壁が彼女によるものだと悟る。同時、背後から何かが飛んだ。
長さ数センチの白色の刃。明から放たれたそれを、槍女が身を翻して避ける。続けざまに二発三発と刃が放たれたが、槍女はその長身からは考えられない身軽な動きで三つとも躱した。
明は射出した刃がことごとく外れたことに苦い顔をしつつ、槍女の前に進み出る。額に汗する彼女の周りには、先ほど飛ばした白い刃が無数に漂っていた。
「──! 早乙女、お前……背中」
しかし、気づく。明の服が、薄闇の中でも分かるほどに赤く染まっていることに。
「ああ、ちょっと擦っちゃった」
血だ。初めの攻撃の時、明は覆いかぶさる形でイヌガミを庇った。その時に傷を受けたのだ。
「教えろ! 早乙女!!」
どう見ても擦ったというレベルではない。相当量の血液を失っているはずだ。それは、明の足が小刻みに震えていることからも明らかだった。
「俺はっ! 俺はどうすれば良いっ!?」
発狂寸前の頭を抑え込み、何とか訊ねる。自分を庇って血を流している女の子に対して指示を仰ぐ情けなさなど、最早気にならなかった。そして、返ってくる。明の返答は。
「……ここは私に任せて、逃げて」
明が何を言ったのかを理解するまで数秒かかった。湧き出すのは、相反する二つの感情。
罪悪感と、安堵。
「……出来ねえよ!」
一拍遅れて、イヌガミが叫んでいた。しかし叫んだあと、鋭い後悔が後頭部を刺す。
逃げろ。吐き気とともに込み上げてくるその三文字が、イヌガミの脳幹を必死に叩いていた。
「良いから」と、そんなイヌガミの迷いを察したのか、明の口調はあまりにも優しい。
「私があんたを一方的に巻き込んだんだから、ここは私が責任を取る」
明は魔術師だ。もはや間違いない。それなら、彼女の言う通り全部任せてしまった方がいいのではないか。勝算はあるのだろう。それならもう、自分はお荷物なのではないか。
思い出されるのは、栄弥荘の面々。十国、スイに、坤堂。いつもの日常。そして──。
『命大事にね』
気丈な声で、記憶の中の彼女が告げる。
「もう、逃げて良いから、ありがとね」
そう言った、彼女の表情は見えなかったが、優しく微笑んでいるのを脳内で補完していた。
────……。
逃げていた。無我夢中で、イヌガミはその場から逃げ出した。
丘を下りて、教会もとうに見えなくなったのを確認して、道端に座り込む。
座り込んで、肩を揺らす。帰って来れた。その事実に、どうしようもなく安堵している自分がいた。少女を一人置き去りにした罪悪感など、それに比べれば小さなものだった。
ふと、右手首に痛みを覚える。見ると、スイの為に買った花火の入ったビニール袋の持ち手が手首に食い込んでいた。持つのが面倒になって手首に引っ掛けたのをすっかり忘れていた。
「最悪だな……俺」
ビニール袋を見ながら、口を突いてそんな言葉が出て来た。手首の痛みは袋を外してもなかなか引かず、今自分がしたことを戒めてきているかのようだった。
「イヌガミくぅ~ん! 花火要らないのかーい!」
「!!」
弾かれたように振り返る。背後から追ってくるカルロスが見えた。
歯を食いしばる。カルロスは、背後にさっきの槍女とは別の誰かを引き連れていた。
「ッ……クソォ!!」
走り出す。背を向けて逃げ出すイヌガミを見て、カルロスが「おや」と呟いた。
人影一つ見られない夜の街路を、全速力で駆ける。激しい吐息と足音だけが脳内で響いた。追手の二人が走っている気配はなかったが、何度振り返っても距離が離れることはなかった。
一〇分ほど、悪夢のような追走劇を続け、とうとうイヌガミの方のスタミナが切れ始める。頭に空気が回らなくなり、視界が狭まる。このままでは追いつかれるのは時間の問題だった。
ふと、ある建物が目に止まった。イヌガミの通う高校だ。こんなところまで来ていたのかと、蕩け切った脳みそで考える。無感情に、そのクリーム色の外壁を眺めていた。
不意に、その建物の方に足先を向けた。何故そうしたのか、自分でもよく分かっていない。




