歳を取ること
皆さんは、歳を取るということをどう考えるでしょうか?
私は、十五かな? それに本日なります。
しかしだねぇ、この歳で言うべきではないのかも知れませんが、何とも嫌な話であります。
私自身は、きっと一秒ごと、少しずつ成長をしていることでしょう。
けれども、誕生日というのはそれをよく自覚する機会だからこそ、私は酷く嫌いなのです。
それも、私はこの成長を喜ばしく思っていないことに起因するのでしょう。
普通ならば、二十歳かな? それくらいまでは、嬉しい物なのかも知れない。
ですが、私自身はこの成長を退化の裏返しだと思うのです。
例えば、成長というのは幼さの喪失、老成になるでしょう。
私はこの喪失が酷く嫌いなのです。
子供らしいというのは、何とも嫌うべきなのかも知れない。
けれど、それは感性が弱くなっていくことだと思うのです。
私が私なりの哲学を持っているかも知れないのですが、やっぱり自身の能力を喪失するのは、物悲しいのでしょう。
きっとこれから更に思案を重ねることで、今美しいと感じる物が何時かはその美しさを見れなくなることになると思うのです。
単なる世俗嫌いを吐露するだけとなりますが、真面目に書いていきましょう。
私自身はこの成長、老成を幼さの喪失と考えると、先程にも言いました。しかし、同時に先鋭化なのかなとも捉えます。
私はこの先鋭化が酷く嫌いです。
何だか先細りして、消えてしまうような気もします。
けれど、本気で嫌いな理由としては、日和見をしていくからでしょう。
大人達というのが、そういう物で何をするにしても中途半端だと思うのです。
それを無鉄砲さがなくなる良いことと、と言えるのかも知れない。けれどもね。結局、日和見を重ねていければ、その先にあるのは妥協だけしかなくなってしまう。そうであるのならば、日和ばかりではいけないと私は思う。
私は酷くそれを恐れている。
私の書く文学とも言えぬ文章、それが妥協を重ねたらそれに何が残るだろうか。それはもはや文章という形態に残す必要がないのだし、実態が伴わなくなる。であるのならば、それはクソほどの意義がないゴミだろう。
結局の所、私自身は行為の無意義さを嫌っているだけなのかも知れない。
けれども、その無意義の行為を日和見によって生み出すのだとしたら、それは何とも馬鹿らしいことだ。
であるのだから、私は老成に辟易とする。
まあ、単純に死に近づいていることが、恐ろしいのもあるのだろうけどね。