その五
という訳で最後です。
長過ぎですって?
………うーん、と、
はい!
「こわぁい」
「そう」
「ねぇ、やばいね」
「うそぴょんだ」
マ希は、嘘じゃないよ、と言って首を振ったが、嘘だった。しかし怖い話を語り聞かせることの本意は、語り聞く相手を怖がらせるというところにあるのだから、嘘であってもそれで構わなかった。
また怖い話は、それが嘘なのではなく本当の話なのだと信じ込ませることで益々とその怖さを増さしめることになるのだから、この際にマ希は必ず、嘘じゃないよ、と彼らへとはまた一つ嘘を追い重ねて言うのでなければならなかった。
分けても心の上で最も強調をさせねばならない嘘は二つ目だった。マ希は、嘘じゃないよ、とそう言う時にかつてから今までに彼女の内を蓄積した嘘のような本当のことを胸一杯掬い上げることをして、それに見舞われた当時の心象を今へと甦らせて居た。
嘘じゃ、ないよ。
その効果は甚だしかった。
「えっ、今もいるの」
そう言うと大ヘイが屈み込ませた身体を一息に起こして立ち上がった。マ希はそんな彼の様子を窺って、暫くすると、今はもう無いに決まってるじゃん、と笑いながら言った。ピコの小さな声でただ、マジか、マジか、と呟いているそのリズムの合いの手に、ニッケリの、こわいなぁ、という寝惚けたような声が挟まって来る。
言葉のない良ツもまた大ヘイのように唐突に立ち上がると、彼は社宅の給水タンクを眼差した。今はもういない、とお姉さんは言ったけれども、きっとそうじゃない、まだ彼はいるんだ、と良ツは予感に膨らませたその胸に独り言ちた。
と、なれば子どもたちは忽ちに信じることをしてしまったのである。嘘を吐くのにもその嘘の細部に気を揉むようなことをして、それがまるで真実であるかのように偽り造るという繊細な工夫をなど、マ希は全く凝らす必要の無かった訳だった。
今より十数年のかつて、彼らのようにこの社宅の駐車場で遊んでいた子どもたち。何をしていたものかは知れないが、そうして遊んでいる内に一人居なくなってしまったと皆が気付いた。方々探し歩いても全く見つからない。大きな声で名前を呼んだり、皆して町内をぐるりと練り歩いてみたり、または二手に別れて野っ原を掻き分けてみたり。
「それはとなりの」
「わかんないけど、多分そうだよ」
「何て人」
「知らない、わたしもお母さんから聞いただけ」
マ希の母は無論知らない。神妙そうなマ希の口から上って来るというだけのそれは、彼女の口上にのみ在り得ている出来事なのに過ぎない。しかしただそれだけであるということが、少年たちの胸へと具体的な景色を見させている。
車座する子どもたちは不安な面持ちをさせて、町内をぐるりと廻り巡るまた別の子どもたちへ彼ら自身を自ずと重ねた。
目前の田の外縁を行き、用水路に沿って道を歩く彼らの目先に小さな稲荷神社が設えてある。ブロック塀に取り囲まれた社の支柱には朱色の小さな紙が巻き付けられていて、そのいくつもが鈍い色に落ち窪んだお稲荷さんの周りを曰く有り気に飾り立てている。彼らはその異様な佇まいに不気味なものを感じ取る。子どもらの見失ってしまったその子は三叉路のどの道を行ったものか知れない。或いはどちらもその子の辿った道なのではないのかも知れない。見失っているのだ、何も判らないのだ。しかしともあれ不気味なものへの忌避感覚は、幼い心へも重篤に指図する。子どもたちは稲荷へ背を向け、角を曲がるとまた北から続く別の用水路沿いの道を進んで行く。
道の右手には、木材の加工場がある。彼らはこの場所の稼働をしているところを一度も見たことがない。経年にくすませた黒い門のような東屋の下に二、三の丸太が寝そべっている。それがいつ見ても新品らしい黄土色に照り輝いて見えるのだ。だから人気ないこの場所にも人は必ず働いているはずなのである。子どもたちはしかし、このような場所にさえも不気味さを感じ取り出しては彼らのその潤った眼を背けたくなって来る。
もう一つ角を曲がった時、角隅の家の玄関に繋がれた犬がおもむろに突出をして、駐車スペースの石がちな砂利敷をばらばらと散り鳴らしながら、彼らへ果敢に吠えかかって来るだろう。彼らはみんな、この犬のことを好きでない。不安な心持ちに弱ったところを噛み付いて来るかのようなその叫声の為に、いつもよりも鋭く迫る恐怖を子どもたちはその艶やかな肌に感じ取る。
それでもあと少し歩けば、コーワセイコーの社宅である。最後は足早になって道を辿りつ、そうして一巡をし、彼らは立ち戻ったのだった。が、その子のことは全く見つけられなかった。
「雨が降ってたんだって」
「わぁ」
「今日みたいに」
「そう、今日みたいに。今みたいな、すごく強い雨が」
その雨が余りにも強すぎたから、みんな誰も気付かなかったの。
ずっとその子は、助けて、助けて、って叫んでいたのに。
どうしてか判らないけれど、その子はあの給水タンクの中に落っこちてしまっていたの。
外蓋が開いていて、雨がずっとその中にも降り注いでいた。
でもあの高さだから、本当に誰にも見えなかったんだよ。
それに誰にも聞こえなかった。
だからその子はだんだん疲れてしまった。
ずっとプールで泳ぎ続けることは出来ないよね。
もう力が入らないのに水の中にいたらどうなるかは判るでしょ。
溺れるんだよ。
その子は溺れた。
誰にもその子を助け出すことは出来なかったんだ。
「死んだの」
ピコが訊いた。マ希は頷いた。
「誰も気付かなかったんだから」
すると見知らぬ子どもの死は、彼らの内の暗い水の溜まりからまざまざと浮かび上がって来る十字の形となった。
「こわぁい」
「そう」
「ねぇ、やばいね」
「うそぴょんだ」
しかし、嘘じゃないよ、とマ希は万感の思いを込めて言うのである。
「えっ、今もいるの」
と大ヘイが訊いたその時、良ツは、今もいるんだ、とそう確信をした。それでも彼の肉体はそこにはもう無いのだと考えられるくらいには良ツの頭は正常だった。いるんだ、でもそこにいるのはその子の幽霊だ、と良ツは感じて居た。確かに昨夜見たあの水の塊は、給水タンクの上部に現れていた。そこがその男の子の今もずっと辛い居場所なんだから、と良ツは思った。
給水タンクは社宅の駐車場脇に、褪せたクリーム色のペンキ塗装を剥げ落としながら、のっぺりとしたその図体を晒していた。
雨は打つ。少し、マ希の物語るその内に、雨も小雨になって来ていた。ずいぶんと長い間、わたしは眠っていない、とマ希は彼女の現状をしみじみと思い確かめた。良ツの心に決めたことから、彼がそれを口に出して言おうというその時には、マ希は鼻の穴まで拡がる大きな欠伸をして居た。
「可哀想だから、お葬式をしてあげよう」
薄い涙で潤ませたマ希の眼が、きょとんとして良ツのことを見詰めた。でも、
「でも、お葬式はもうしたんじゃない」
「うん」
「うん、じゃなくて、したんだからもうしなくたって良いんだよ」
「でも、ぼくたちはまだしてあげてない」
良ツは言った。すると大ヘイが、
「ともらってやるか」
と言って立ち上がった。彼の格好を付けて言ったその言い方が妙だったので、三人一同は互いに顔を見合わせながら笑った。おじさんみたい、とニッケリが一際けたけたと笑って言うのを、大ヘイは少し尖らせた下唇の先で応えた。それが満更でなかったのは、大好きな叔父のように彼自身がなりたいという普段の気持ちからふと真似てみた物の言い方に触れられて、謂わば殆んど正確にその意を得ることの出来たのだからだ。
「お葬式って、でもどうやんだよ」
「気持ちだよ。気持ちで、ひとりじゃないよ、寂しくないよってしてあげれば良いんだよ。それをしよう。でも大ヘイくんは気を付けなくちゃいけない」
「ええ」
拍子抜けをしたような、しかし何処か含みのあるような笑みをさせて大ヘイは良ツを見た。
「ぼくたちの立ち向かっている悪い水はきっと、その子のたましいが原因なんだと思う」
「ああ」
大ヘイはぽんと手を叩いて喜ばしそうに、
「そうだよ。そうだと思った。おれもそう思ったんだ」
「それでね。大ヘイくんは気を付けた方が良いと思うんだ。きっと、これは繰り返しなんだよね。大ヘイくんはさっき居なくなっただろ。ぎりぎりセーフだった。その子に連れて行かれてしまうところだったんだ」
「ほんとだ」
と呟いたのはニッケリである。
「いや、大ヘイはおしっこしに行っただけだったじゃんかよ」
ピコが口を挟んだ。良ツはそう言われて少し考えた。少しだけで良かった。何故ならおしっこも水だったからである。
「そりゃそうかもしれないけど」
ピコは思わず吹き出してしまいながら、しかしそれでも真剣そうな面持ちを崩さないでいる良ツを信じがたい気持ちで眺めた。そうかもしれない、おしっこは水かもしれない、だけど、
「だけど、それがなんなんだよ。おしっこが水だからって、何」
「おしっこは水だから、悪い水は、それを」
良ツは言いあぐねた。しかし言わねばならぬことは既に心の内を定まり切っていた。だから彼は、ただ外側であるというだけの言葉を何処かから引っ張り出すだけで良かった。そう、それである、ひっぱる、だ。
「悪い水は、ひっぱるんだ。大ヘイくんのおしっこをひっぱろうとしたんだ」
すると皆が皆、その瞬間、鉄砲の弾に撃ち抜かれてしまったかのように崩れ落ちた。笑みの形に広がったそれぞれの口からは、血反吐のような凄まじい叫声が迸っていた。中でも最も凄惨に、息の一つも出来ぬというほどの発作に見舞われていたのはマ希だった。地球上にある物事の健常な理解の下に、引っ張られるおしっこというものを考えることは決して出来ない。しかし、それなのにも関わらず、引っ張られるおしっこというものを頭の内にさて思い描いてみるとすると、何故だか彼女もそれだけのことで不思議と納得をさせられてしまうというところがそのイメージにはある。或いは、そこに修正をして言い添えねばならぬことがあるのだとしたら、悪い水は彼のおしっこを引っ張ろうとしたのではなく彼のおしっこで彼のを引っ張ろうとした、というようなことだったが、どうであろう、自分にも悪い水が毒のように回って来たのではあるまいか、そんな自身の頭の混迷ぶりをマ希は生欠伸で逃がしてやりたくもなるのである。
「いや、いや」
「けたけた」
「嘘じゃない」
「いや、でもね」
「そうだっ」
と大ヘイは閃くと共に起き上がって来て、
「悪い水だ。おしっこは悪い水だ!」
「そうなんだよ」
良ツは大ヘイの方から伸びて来た腕をがちりと掴み取るようにして言った。
「悪い水同士だからつながれるんだ。手をつなぐみたいに、悪い水が悪い水をひっぱるんだよ」
大ヘイは、いいね、と呟いた。良ツはそれを見て、日曜日に家へと遊びに来た時に大ヘイの持って来たクリーム塗りの食パンを、彼がそうして大切そうに指へと乗せて、独りむしゃむしゃと食べていた光景を何故だか思い出した。まるで、いいね、と言い含ませたそれを、言った傍から大ヘイが美味しそうに食べてしまったかのように良ツには感じられたのだ。
「すごい、すごいじゃん」
振り向いてみると、いつでも楽しそうなことがあればそこへと追随をして来るニッケリの表情がまた一段と賑やかだった。
いつでも彼のことを思い出そうとするその時に、良ツは度々この手の彼の笑顔をばかり思い出す。だがこれに列れては、その笑顔の半面がもう直に、もう本当にあと少しで、流血の赤い色にべったりと塗り潰されてしまうということをも良ツは必ず思い出す。
いつか彼の大人になったその時に思い出されるニッケリの二色面は、それが悪夢だとて追憶をすることの夢のような心地を良ツに抱かせる。そのような思い出に埋もれた彼はその為にも彼の今を生きようとする力を幾分は削がれてしまう。追憶も郷愁も、それらがそれら自体として彼に対して甘いものなのである時に、良ツは彼が生きなければならない今を悪戯に危機へと晒しているようにも感じられる。彼の頭はそこからせいぜい日々こなして行くことの教訓を汲み取ろうとする。がしかし、何をも見出だすことなどは決して出来ない。忸怩たるところへ二の足を踏んでいるというような幼いままの自身を良ツは再びそこに知る、ということだけで彼の収穫を終えるのだ。
マ希には、また新たに始まろうとしている少年たちの遊びに付き合おうというつもりはもうなかった。彼女も、お葬式、などというその言葉を聞いた時には殆んど全ては嘘だと彼らへ、そう白状したい罪悪感に胸をちくちくと痛め付けられるようだった。が、その胸の内をままに晴らすそうした機会も既に逸してしまっていると彼女には感じられた。
少年らの想定をして、あまつさえその魂の残留をすら信じ始めている亡き者とはことの始めから存在をした例のない者だった。しかし或いはそのことが、全てを真っ赤な嘘と知るマ希にとっても次第に事なき自然さを帯びて感じられ始めたのは、始めから存在をした例のない者も亡き者も、どちらも思いを込め掛けることでだけでその存在を恰かも在るかのようにこの世へと在らしめるものだ、という招致の似通い方をしていたからであったのだろう。
悪いことなのではない。何せよ彼らは口々に、ともらう、と言って彼らなりに未だかつて存在をしたことの無い誰かのことを弔おうとしている。誰かへの弔いの心が悪いものであるのだとはマ希には思われない。それはマ希には決して、弔われるべきではない誰かを考えてみることなどは、決して出来ない。それは決して。広く、複雑に込み入った世界に於ける彼女が、それ故その世界の内に常に潜ませてある何事へもの反論を感知し出すということは未だない。未だ、彼女にはそれよりも、何事であれ反論のしようのない絶対的な何ものかを追い求め、そこを取り付く島として彼女の心を完璧に支えてやりたいというのが反って望みであった。或いは一生涯が、マ希にとってそうした飢えに囚われ続ける呪いなのかもしれなかった。
無論、彼女の本来からそのようにマ希の望むのであれば、その人生をマ希自身で呪わしく思う謂われは何処にも無いのである。
マ希は欠伸した。昨夜は寝ていない。始まらぬものに終わりはないのである。しかし一方で彼女の眠り終えては居ないという状態のことは、何より先ず起き終えては居ないという状態のことである。その旅の果てに待ち受けているものとは、停滞と夥しい欠伸と、そうして過ぎ去り行く刻一刻に列れ益々とまんじりともせぬ停滞とであるばかりだ。
マ希はもう眠い。もう、ようやく彼女は眠くなった。
それでは寝ようと思うところに落ち込んだ眼差しで、彼女はタッパーの中に余ったチェリーの最後の一粒を見詰めた。赤い色だった。
見ていたのはニッケリだった。マ希は、特別な故もなくただ何かの拍子にというだけである彼のこの時の眼差しに見られている、ということを知って居た。それだから彼女はそれをそうして見せようという気にもなることで、彼へ見せびらかすようにしてやった。
マ希は垂らしたチェリーを見上げると、良ツのしたようにしてそれを口の中に含んだ。それからヘタを取ってしまうと、口の中のチェリーを舌で転がしながら、やがて柔らかく歯で噛んだ。
彼女が微笑もうとした時、それはもう既にニッケリによってされていた。だからマ希はそれへ返すような彼女の微笑みへ、ここ一番の罪悪感を色の濃く滲ませたような気が自身でした。
ニッケリの微笑みの弱々しさは彼女の知る中でも特に善良そうなものに感じられた。マ希は、一方で彼が愚鈍そうで、弱々しく快活でないその点に面白みを見出だせないという彼女でする人物評価の差し引きの、それが感性から冷徹に今しもされ続けているという内的の事実があるのだからこそ、ニッケリのそうした笑みには反って彼女の方こそが傷付けられてしまって居るのだ。
微笑みは自然だ。その自然さに狼狽えるほどのマ希は大人であったのではない。子どもが自然であるものならば、どのみち彼女もがまた、未だ自然の一部にその身を置いて居る者だ。
そのはずである。
「睫毛が長いね」
「うん」
と、返す声も嗄れた彼の薄弱な意思を代表している。マ希は暫くそうしてニッケリの長い睫毛を見ていたが、そうして見られているニッケリがやがてそのことでおどおどとし出すのを感じ取ると、急激に彼女は眠たくなって来た。
「わたし、もう寝るね。ばいばい」
「ええ」
「ええ」
と口々に言う無邪気な者らへマ希は、だってもう眠いの、と言いながらその次第に、立ち上がって見下ろしてみる彼らの未だようやく立っているのでしかないというその覚束なさをふいに感じた。子ども、だ。彼女はそう思う。何だかそうではないようにも感じられていた一時が嘘のように、彼らはちっぽけなんだ、とそう彼女は忽ちに思う。
立ち上がってみると身体の大変な感覚にマ希は重たく気付かされた。徹夜をしたのが初めてなのではなかったのだとしても、こんなに長く起きていたこと自体は彼女にとって初めてのことのようだった。
(それもこれも)
と彼女は思う。未だ核心的にそう思うのではない内から既に、頭から胸から、殆んど全身から思い出してしまっているのである彼の姿が、彼女の内を忽ちに充満する。憎しみが募る内から痛みに沁み出して、泣き出したいのに泣いてしまわれるほど彼女は無条件に自身の不幸を認めてしまう訳にも行かれない。不幸だ不幸だ、と早速に認めてしまうことで泣き腫らし、明くる日には何事もなかったかのようにけろりとしてしまわれる友達もマ希には有る。が、友達は友達とて彼女らのその関係となった原因を性格的類似に求めようとしても無益なことだ。マ希はしばしば、信じ難い気持ちをして友達の心のその展開の目まぐるしさに眼を見張っている。ヨナ子はサーカスじゃん、とマ希は時に彼女に就いてをそう感想する。それが強さとそう思って彼女を慕い倣いたいここのところの気分はしかし、その為に報われることの出来たという例を少しも持たれずに居た。所詮、ヨナ子はヨナ子なのであり、マ希はマ希なのである。彼女自身が彼女自身としてそれに堪え、いずれ雨晒しのその傷心に日の光を射さしめるような心の晴れやかな転換を、マ希はただ曇天の下にに鬱たる辛抱をして待つばかりなのである。
欠伸が出た。眼に滲ます涙を彼女はふと感じた。
それから、おどけにおどけている子どもらをあしらうマ希は一声、ばいばい、とだけ最後に大きく言ってしまうと、そうして気怠げに階段を登って行った。足は重く、手すりに付いて引っ張るようにしている腕さえもが重く、夜に寝損なった身体全体が即ち、眠り行きそれを終えたいという彼女のその正しい欲望へと掛かる負債となって追い縋って来て居た。
(倒れよう)
と、社宅のつまらない色に統一をして塗られた重苦しいドアを開きながら、マ希は思った。
(これは倒れる。倒れれる)
倒れれるのだ。そう思い、そう望むことをしながら彼女はダイニングテーブルへ空のタッパーを投げ出してしまうと、わざわざとふらふらになってしまったような足取りをさせて、自らのベッドに向かった。
マ希は俯せに倒れた。殆んど昏倒に近くなると思われた。しかし俯せのままに眠ると怖い夢を見るような気がした。だからマ希は横たえた身体を振り向かした。天井が見える。すると途端に眼が冴えた。
冴えた眼で見るものはただあしらいも何もないという白い天井である。だが眼の冴えて来たなりに心の方へと呼び起こされて来たものは彼の姿である。左右を刈り上げた短髪ではにかんで笑う長身の男だ。モテた。実は彼はモテたのだ。マ希には知る由もなく彼は影ながらにモテる男だった。目立つような人ではない。背の高い割には声も高い。運動は出来たけれど、勉強はそこそこだった。何か面白いことを言う訳でもないし、集団に埋没して、ともあれクラスの一員であるというような普通の彼であるのだとマ希は思っていた。だからこそ彼の魅力と彼女の思うものにマ希は惹かれ、それは彼女だけの判る彼のとびきりの部分なのだと安心し切って居た。だけれど違った。彼女だけの、私だけの、とマ希のそう思われる彼の、人をピンポイントに引き込んでしまわれるその魅力は、更に彼女だけの、私だけの、とそう思うのであるまた別の幾人かをも引き込んでしまわれる力だった。
(わたしも悪い)
ふとマ希はそう思った。安心し切っていたのだ。まさか彼がそんなことをするはずがないと思っていたのだし、まさか彼が、そもそも彼女の以外にそんな機会を得られるのだとは思って居もしなかった。全てわたしの不注意だったのだ、わたしは無頓着過ぎたのだ。マ希はそのように思った。するとそのように思うのである気付きから、彼女にしては真正直な悔しさや、やりきれなさがふつふつと沸いて来た。ああ、もしかしたら、と彼女は更に思う。もしかしたら、わたしは、今なら泣くことが出来るのかもしれない。
そうして彼女は泣こうとした。無理に、小さな子どものように、何の意味をも為さしめぬ、言葉ではない悲鳴のように、彼へ追い縋りたいだけの、彼を追い求めているというだけの声を、彼女は彼女の一番に正直で、一番に幼いのである心の底の方から搾り上げようとした。だが、それは出来なかった。どうしても彼女の涙は眼に溜まらなかった。本当は今朝方の滂沱の雨のように、マ希は流すべき大量の涙を彼女の内へ溜め込んで居るはずなのだ。そう信じられるのだ。それなのに、泣かれない。まるでそれが泣くほどのことではないかのように、彼女の信じる気持ちは、彼女にそうさせている彼女の、痛み切った心それ自体に裏切られ続けている。
マ希は横を向いた。雨は本当に止んでしまった。どんよりとして覆い尽くすような曇り空は未だ、太陽の掛け値ない光を遮っている。しかしそれでも色を失った光は射し込んだ先に彼女を捉え、そうして暗いばかりのその部屋に一人在るマ希の想い深い姿を柔らかく押し留めていた。
マ希は外に、子どもらのはしゃぐ声を聴いた。お姉さん、お姉さん、と彼女のことを呼んでいるような気がした。その瞬間、あの睫毛の長い、のろまそうだった男の子の善良の笑みがかえって来た。それは優しげで、か弱く、ふっと一息をすればそれでかき消えしまわれそうに儚い微笑みだった。マ希は泣き出した。さめざめと彼女は泣き出した。ようやく泣けた。だがどうしたことだろう、彼女は追い求めたいはずの彼の為によりも、無力な者から分け隔てのなく与えられた優しさの為にだけにずっと涙を流していた。
「たましいが眠っているんだ」
「死んじゃったんじゃないの」
「うん、でもあの子はまだいるんだ。それが魂だよ」
備え付けの梯子から給水タンクへと昇った四人は、そこでそれぞれ背を丸め、密やかになった。葬儀は儀である。儀であるものには式礼が求められる。しかし彼らの内に正しい作法を知る者は誰一人とて居ない。それだから彼らのこれに持ち寄るものとはただに各々の心模様であるばかりだった。
「でも死んじゃったのにいるんだったら、こわいんじゃない」
「こわくない、かわいそうだろ」
「ねえ、でもどうすんの」
祈ってあげるんだ、と良ツは言った。でも祈るって、とピコが訊ねた。
「思いを落とそう」
「思いって、どんなだよ」
「みんながこの男の子のことを思ってあげれば良いんだよ」
「えっ」
と言ったのはニッケリである。皆がニッケリを見た。
「男の子なの」
「なんで」
「女の子だと思ってた」
ニッケリがそう言うと、ピコは、なにそれこいつえっちじゃん、と言って笑い出した。良ツも良ツで、えっちだえっち、と小さな声で言って囃し立てた。ニッケリは、えっちなんかじゃない、と幾度と言い返しては頬を紅く差さした。すると大ヘイが、おれも女の子だと思ってた、と言い出した。
「なんで」
「だって、そんな気がしたんだよ」
「でも女の子がこんなところに落っこちるかな」
「わかんないけど、でもそんな気がした」
「お姉さんは」
「もうさっき、行っちゃったよ。眠いって言ってたじゃん」
するとピコが、お姉さん、と大きな声を出して社宅へ呼び掛けた。次いで大ヘイが、お姉さん、と声を張り上げた。遂に四人が揃って四様に、お姉さん、お姉さん、と声を張り上げて呼び掛けた。休日の社宅は彼らの声の響くのに任せたまま静まり返っていた。
「ねえ、もし女の子だったらどうする」
「一緒じゃない」
「でも、ちょっと違う気がする」
「だって思うのだってさ、男と女じゃ気持ちがちょっと違うよ」
「女かぁ」
良ツは独り言ちた。どうしても良ツには女の子だとは思われなかった。彼の彼より余程に先行をしてしまわれる思い込みは、拭い難く今の彼を決定付けている鼻先の未来なのである。
そうして思いあぐねているような案配の彼へ後ろから差し出されたものがあった。
たんぽぽだった。
「え、どうしたの」
「さっきの二人が摘んでたやつ。拾っといた」
大ヘイは言った。大ヘイは本当に何でも拾っているのだな、と良ツは深く感心をするような気持ちになった。
「女の子でも男の子でも、どっちでも良いんじゃない。花があるから、これをあげよう」
「良いね」
「うん、良いじゃん」
そうして良ツは差し出されたたんぽぽを大ヘイから受け取ると、それをタンクの頑丈そうな外蓋の上にそっと置いた。すると四人はその時、何かが変わったように感じた。花を添える、というただそれだけのことに彼らは深く心を打たれた。葬儀は儀である。式礼はそこに定められずとも、花一つに律せられる何ものかは彼らを快い緊張へと導いた。
「じゃ、思ってあげようか」
ピコは言った。
「あげよう、あげよう」
ニッケリがはしゃいで言った。良ツはこのようなニッケリの謂わば、空気の読めなさに疎ましいものを感じた。が、さりとて今の彼にそのことを以てニッケリを責め立てるような気持ちは少しも無かった。
「眼ぇ、つぶる」
大ヘイが訊ねた。うん、と良ツは返した。
「じゃあ、みんな。花が飛ばないように手でおさえて」
と、その言葉の下に集い来る彼らはまた一段と窮屈な円を描いてひしめき合った。
「えいえいおー、みたい」
ピコが呟いた。良ツは彼の顔を見た。笑んでいた。だが誰にも今の彼の笑みを見てみてそれが事を馬鹿にしたいというような蔑みのものなのだとは感じられなかったであろう。
「それじゃあ、葬式をします。この子は一人でかわいそうでした。でも今はみんながいます。みんな、君のために手を置いてます。もう一人じゃありません。君は一人じゃありません。もう悲しくありません。水は冷たかったでしょう。息は苦しかったでしょう。真っ暗だったでしょう。本当に、本当に、かわいそうでした。水は今も冷たいですか。でもぼくたち四人の手のひらで温まります。温めます。だから大丈夫なんです。もう君は、一人じゃないよ」
「あのさ、いつ眼をつぶれば良いの」
「いま、いま」
惚けたニッケリへと急かすように言ったのはピコだった。
ピコは二度も飛び降りた。今、三度目だ。大ヘイは二度。いずれ三度目だろう。
良ツとニッケリとは二の足を踏んでいた。給水タンクの緣にしゃがみ込んで、二人はただ息を呑むようにしていた。
給水タンクの上はとても高かった。子どもならではに高いのであるその場所は、如何にしても彼らにとって高いのであるその場所だ。しかし、ピコは飛んでいる。大ヘイもが飛んでいる。彼ら二人は飛ばれるのだったが、良ツとニッケリとは飛ばれない。高いのであるのだから、即ち、怖いのであるのだからだ。
「なに、ビビってんの」
「ビビってない」
「怖いんだろ」
「怖くなんかない、出来る」
「じゃあ、やりなよ」
と、ピコがもう四度目を飛んで、次第にその着地もこなれて来ていた。
「ほっ」
大ヘイがそうして三度目である。彼はそれから上っては来ずに、
「良ちゃん、かんたんだよ。これ出来るよ」
と下から良ツへと声を掛けた。
良ツはニッケリを見た。ニッケリは眠たいのだろうか、下向かせる眼差しに閉じた睫毛で眼の正体も判らない。だが弛く開かれた口元からは、彼の殆んど放心しているに近い心境が忍ばれても来るだろう。
そうして良ツの窺い見ているところへと、ふいにニッケリは振り向いた。眼と眼とが合った。その時、互いに慰め合うような心の触れ方が二人に起こった。
「これぜったい出来ないよ」
「うん」
「こわいよなぁ」
「うん」
うん、うん、と頷いているその内にも良ツはニッケリのことを窺った。それから次第に彼の内で、ヒエラルキーの只中にある優劣の分け目がふんだんに嗅ぎ取られて来た。良ツはもう少し低いところからなら飛び降りたことが有る。ニッケリは無いだろう。それなら僕の方が上だ、と彼はそう考え始めた。
二人は背後へ忍んでいるものには気付かなかった。
「わっ」
とピコは後ろから彼らを驚かした。殊に密かにして胸へと何ものかを巧ませていた良ツは、ピコがそうして驚かして来たのだとしても少しも動ぜずに済んだ。しかし、ニッケリは違った。ニッケリは恰かも、跳び跳ねている真っ最中の蛙のように、両の手を無様に開き広げて足をじたばたとさせた。
「や、や、や」
下に居た大ヘイがそれを見て眼を丸くした。ピコはまた五度目を飛んでそれから、今回は上手くは行かれなかったのであろう、痛そうに足首を擦りながら、やばい、見た、と大ヘイに訊ねた。大ヘイは、見た、と言って口元を抑えて笑った。ピコはもっと無遠慮にけたけたと笑いながら、遂に、
「弱虫、弱虫」
と二人をからかい始めた。これに珍しく加わって来た大ヘイは、手を叩いた。そうして二人は音頭を取って、弱虫弱虫、とはしゃいで歌い合った。
「弱虫なんかじゃない」
「弱虫、弱虫」
「ちがう」
「弱虫、弱虫」
「ぼくはちがう」
良ツは言った。ぼくは、ちがう。ニッケリとは違う。ぼくは、こいつなんかと一緒じゃない。
「弱虫じゃないなら飛んでみろよ」
「いいよ、やるよ」
そうして叫ぶような気持ちをして良ツはそう宣うと、一挙に地面へと集中をした。彼は、とても高い、と思った。辿り着かれる最高にまで揺すぶった学校のブランコからなら飛び降りるのだって平気である良ツなのだったが、この給水タンクの上にはもっとそれ以上の高さがあるのだと彼には思われている。
彼には、人間の身体がこの高さから落っこちるということの有って良いとは感じられない。しかし現にピコと大ヘイとはそうして飛び降りることをしてもどうやら無事である。そうであるなら感じられているそのことが誤りなのであろう、人間の身体は中々無事だ。
勇気だと思う。良ツは勇気を振り絞らねばならないのだった。彼はちゃんとこれをやり果せては、ピコや大ヘイの仲間入りをしなければならない。ニッケリとぼくというだけの寂しく、弱い集いの内で、いつまでも怖がっていたいとは彼には思われない。
良ツはニッケリを見た。ニッケリは少し良ツに縋るような眼をしていた。少なくとも彼には少し、彼へと縋るような心を象ったそれがニッケリのこの瞬間の眼付きであるのだとそう感じられた。すると良ツはニッケリのことを出し抜こうとする気持ちに早と成った。
ニッケリの余りにもこれが彼には無理であるというその、出来なさそうさ、が良ツの、或いはこれが彼には必ずしも無理ではないという、出来そうさ、に対して弾みを付けたのであろう。
時に人はその傍らに置いて、自分より余程に無能と思うその者からの力を吸い上げている。
それは彼がその者よりも能力に優って居るという優越感情から自然と起こって来る万能感覚である。
それは人の成人であれ、子どもであれ、掛かるところへ等しく働いて来る、人間心理上の力学のようなものである。
良ツにはそれがつまり、あの頃よく傍らに在ったニッケリからとくとくと注ぎ込まれていたのに違いない、彼の束の間の彼らしさであったのだと今は思い出すのだ。
良ツは飛んでいた。落ちて行く時、とても怖かった。落ちて行く身体を制御するものの何もないのだ。彼は怖さへと真っ正面に体当たりをしている。だがしかし、彼は飛ぶ意思を以て飛び立ったことから、どうにか飛ぶその以前に足へと着地の用意をさせていた。だから彼の足は無事に地に接し、しかし余りの衝撃から足ばかりでは支えられない上体の方を、彼は手のひらでまた支えた。痛い。
良ツは痛かった。足が痛い。でも手のひらもじんじんとして痛い。駐車場のアスファルト上に紛れた小石の幾粒かが、彼の真っ赤な手のひらに埋め込まれた。良ツは立ち上がって手を払い、それでも落ち切らない数粒を指で摘まんでからぴんと弾き飛ばした。
「ほら」
「ね、出来るじゃん」
そうして皆は、ニッケリを見ていた。
ニッケリはただ墜落してしまっただけなのだと今の良ツはそう思い出そうとしている。彼は逆流をし、更には逆立ってうようよと蠢くような雨と、それから形を造り出した乳房のような水の塊とが本当にあったものなのだとは、今はもう信じていない。そのはずである。
そのはずであるのにも関わらず、彼は、彼の思い出す時に思い出されるのであるその光景の内に、ニッケリの背後を覆った乳房のような水の塊を見ている。それがニッケリを舐めたのだ。
悪い水だ。
良ツはそう思う。
「早く」
「簡単だよ」
「どうした、動きなって」
「死んでるの」
「じゃあ、ゾンビじゃん」
「ええ」
「ゾンビだよ、ゾンビ、ほら」
「ゾンビ、ゾンビ」
緣に腰を落としていたニッケリは、そうして良ツらの囃し立てるその内に、ふと立ち上がった。
「おお」
とピコが言い、次いで大ヘイが言い、良ツもが、おお、と言って、三人は彼にその先の行動を促したか、或いはその先にされる彼の行動を期待して待った。
何かが、おかしかったようだ。ニッケリは黙って居たので良ツには判り辛かった。いや、あんな風に黙って居たということ自体に彼の異変を見なければならなかったのか。仮にニッケリが飛ばれなかったのだとしても、彼は普段の惚けた声で良ツらに対し不平を口にするか、せいぜい悔しさから涙ぐむくらいの反応を示して、それで終えるのだと当時の良ツには思われていたはずである。
無論、或いは彼は飛ぶのかもしれなかった。三人は共通理解のようにしてニッケリへとは何らの期待も抱いては居なかっただろうが、その一方で彼らは、そうして何ら抱かれてはいない期待をもしかしたら打ち破ってくれるのかもしれないニッケリ、ということをも或いは期待をしないのでもなかっただろう。
子どもとは柔らかだ。未だ何ものをも固めては居らずにして、彼らの将来へと向けた変化の兆しをばかり恣としている。良ツは彼が飛ばれたことを一方で、ニッケリにはそれが出来ないものと思うその優越感から果たせた。しかし、もう飛ばれてしまった後に、痛かったが、それでも無事に彼自身は出来たのだから、良ツの置いて行ってしまった当のニッケリに対しても彼が飛ばれることを望む、というような心境の変化を来していたのだとしても、何もおかしくはない。子どもの世界にとって可能性は無限のようである。
良ツの眼には浮かんで来る。暫くはそうして黙ったままであったニッケリが突然、慌て出し、けたたましく叫び出したこと。
まるで海の底に潜む生物の捕食をするか、それをされるかといったように、暗い海底に粉塵を巻き起こして刹那的に狂い踊るような彼の喚く身体。
鼻からは少しも出かからない、丸っこい普段の彼の声が、しかしこの時には喉を焼き切ろうとでもするかのように、過激に搾られたのであったこと。
ニッケリのそんな声を、良ツは初めて聴いた。ピコと大ヘイも、そうだったろう。三人はふいのことにぴたりと静まり、それから本当に言葉を失ってしまってニッケリを注視するばかりと成った。
ニッケリは踊るようであった。揺さぶられるようであった。彼がそれをしているのか、彼がそうさせられているのか、誰の眼にも主従は明らかなのではなかった。
だが主従とは。彼が彼の意思の下に、或いは生理的なリアクションとしてあのような狂態を演ずるのでなければ、一体誰がその手を取り足を取り、彼にそうさせたのだと言うのだろう。言うことが出来るのであろう。
良ツばかりである。
「わあっ、わあああっ」
「ニッケリくん、大丈夫」
「みずっ」
「なに」
「わるいっ、みずっ」
彼はその眼に見た。
ニッケリの背後を集り集る無数の雨水を。
それが瞬く間にして膨れ上がる水の、大きな塊と成ったことを。
「とべ、ニッケリ、早く、とんでっ」
「ああああっ」
そうして水の塊は、後ろからニッケリのことを舐めたのである。
するとニッケリは足を滑らした。
未だ今しもに吸い上げられて行く雨水の急流に、彼は足を滑らしたのだと良ツには見える。
だから彼は、頭から、だったのだ。
「あっ」
と言って真っ先に駆け付けたのは、しかし誰であったというようなことは実際には言い様もない、その時三人の誰もが、ニッケリの為に駆け付けないはずなどなかったからだ。その上で言われるように言うのであるなら、真っ先に駆け付けたのは三人共だった。
泣き叫ぶニッケリを抱き起こしてみると、三人は一様に彼の血の色を見て怯えた。
ピコは普段よりも高く、心細そうな声を出して、どうしようどうしよう、と頼りなかった。
大ヘイは終始何ごとも口にはしないまま、ただニッケリの肩へと手を当てて、彼のことを覗き込むようにしていた。
「お母さん、呼んでくる」
良ツはそう言って走り出した。が、振り向き様には既にこちらへと走り寄って来ている母の姿が在った。ニッケリの泣き叫ぶ声は隣家へと非常事態を知らせるに充分なほど大きく鳴り響いていたのだ。
「ちょっと」
良ツの母はくっと立ち止まって言った。時の止まったようだった。
止まったような時、の内訳は、事態をまざまざと見る母の目付きの一変をするその恐ろしい様を良ツはまざまざと見た、という内訳である。
そうして彼女の継ぐ二の句は大変な剣幕をして言われるのだった。
「何してんのっ、あんたたちぃっ」
三人は硬直をした。彼らは地に突っ立ったそれぞれに寂しい棒切れである。一方では彼らはその怒声の為に、心を遠く放り投げられてしまったような気持ちにもなって居た。それらは方々に飛び散って、それだから彼らは離れ離れに孤立することと成った。
何れにせよもう、彼らがここに交わし合う言葉はとうとう何も無くなったのだ。
全てはもう良ツらの知り得ないところを沈黙の内にひた走っていた。子どもらにとってそれは宵闇の音の無く明け行く静かな事態遷移であった。
彼らの知るところとなるものとは先ず、良ツとピコ、大ヘイに、ニッケリもが、小学校に於いて事態の説明を求められたということだ。マ中先生は同クラスであった良ツと大ヘイとを呼び出して、原稿用紙を渡した。それに書けと言う。
そもそもが三人にとって寝耳に水であったことは、これがニッケリに対する一方的な虐めの結果、起きてしまった事故だった、という大人たちの認識だった。それは違う、と三人は言いたかった。だが、
「沢ダくんが飛び降りないのを、弱虫って言って、飛び降りさせようとしたんだよね」
「うん」
「三人で、沢ダくんが怖がっているのにも関わらず」
「でも」
「その時、手を叩いて飛び降りられない沢ダくんを馬鹿にしてたって沢ダくん自身が言ったのよ」
「それは」
それは、違う?違わないだろう。確かに馬鹿にはしていたのだ。しかしそれなら良ツにしても馬鹿にはされたのだ。
「ぼくも馬鹿にされました」
と良ツは言う。ぼくも最初は飛べなかったから。すると、それまで黙って居た大ヘイはそれからもっと恐ろしく黙り込んだ。もう彼はそこからは、一生涯這い上がっては来られないのではないかと思われるほどに深いところへと恐ろしく。
「そう。でも新ガミくんは町ダくんが悪いって言っている」
「なんでっ」
「町ダくんがみんなを危険に巻き込んだって。沢ダくんやみんなに、悪い水、それは先生も判らないけれど、そんな話をしたって。でも、そもそもなんで給水タンクに上ったの。上っちゃいけないのよ、そこは」
「それは」
葬式をしていたからだ、とは言い出しかねた良ツであった。すると、口を開いた大ヘイが、
「みんなで仲良く遊んでたんです」
と言った。そうだ、と良ツは思った。その通りだ、と彼は言いたかった。本当に、ただそれだけのことだったのだから。
「ちょっとからかいはしたけど、仲良くしてたんです」
「沢ダくんは、虐められたって言ったのよ」
マ中先生はふいに声を高めて言った。良ツはその瞬間、信じがたい気持ちと共に心を痛めた。
「ねえ、ワタ山くん。仲の良い友だちをからかって、傷付けたりして、それで良いのかしら」
「いいえ」
「仲の良い友だちが嫌がっていることを、無理矢理やらせようとしたりなんかして、良いのかしら」
「い、いえ」
大ヘイが泣き出した。良ツは意外だった。大ヘイが泣いたりなんかするところを、良ツは想像してみることをすらしたことがなかったのだからだ。
そうして供述は一旦は終えられた。が、大人たちが聴取したものの擦り合わせをした結果、再び彼らは呼び出されることになった。
マ中先生は、今度は何があったのかを書いて知らせるように、と二人へと言い渡した。その為の原稿用紙である。二つ隣のクラスでは今、ピコもそれを書いているのだとマ中先生は言う。
良ツは守り通さねばならない自身のことをどうしても第一に考えた。そうすると彼は彼もがニッケリのように四人の中での被害者だったのだ、という点を強調して書かねばならないのだと感じられた。その為に細かな嘘がいくつも立ち現れて来た。教職員らにしたところが、或いは筆に真実を明らかとする気兼ねの無さを信じて三人へとこれを強いたのである。ところが結局、彼らの思うような真相を解明ということは決して無かったのだった。
それは三人が三人ともにそれぞれの見るところからの位置を以て、そこに些細な嘘をいくつも吐いていたのだからだった。
ピコは横暴である良ツについてを強調して書き、彼が日頃からニッケリに対して辛く当たっているのだとそう証言をした。彼は、ニッケリはまるで良ツの子分で、親分の良ツはニッケリへと嘘ばかりを吹き込んでいる、というようなことを書いた。また彼は、その日蛙を一匹殺してしまったことを白状した。その為に如何に心を痛めたかということをピコは列ねて書いた。蛙への反省心は有すれどもニッケリへのそれは無い、ということは彼にとって少なくともニッケリについては後ろめたく思うところの何も無い、という彼の全体の主張だった。
また大ヘイは、とにかく四人に過ごされたその朝に於いて、彼らに悪しきところなどは一つとて無かったのだと信じたいその一心から、ピコと共に良ツらをからかった顛末をただに彼らへと見てもらいたい踊りの披露をしただけのこととして証言した。彼は全体はとにかく不幸な事故だったという風に書きたいのだが、彼自身からかうことに参画をしてしまったその以上、その罪の重さに日頃ない彼の過ちを感じて、それを感じ続けながら自身を冷静にあらしめようという困難へは立ち向かえないで居た。従って、文書上に最も大胆なる嘘を吐いた者とは大ヘイである。彼はその日、雨でさえ降って居なかったことにしたのだ。
良ツはマ希についても書いた。あの女の人が全ての元凶だと彼は考えた。それは彼女が四人のことを給水タンクへと赴かせた一番の原因だったから、だけなのではない。彼が、彼女に、妙に嫌われていると感じ、そのことで良ツはマ希のことをひどく嫌いになっていたからだ。それだから良ツは突然現れた彼女こそが嫌ったらしくも彼を虐めていた一番の悪なのだと決め付けた。それ故にマ希という加害者に対する良ツは被害者であるという旨からして、また良ツは飛び降りの際にも二人にからかわれた身でもあるのだから、より増して自身が悪いのであるとは誰にも言われないのだ、とそう考えた。謂わば、彼はその朝に於いて第二位に哀れみを持たれるべきである自身だ、というふうに自ら認定し直して、これを主張したのである。
煎じ詰めれば三人は、誰もが真相を明らかとするよりは先ず、自身らが大人らに怒られたくはないというその心根から偽ることをせざるを得なかったのだった。
誰が彼らを責められよう。子どもなのである彼らが未だ子どもなのであることを責められる者のあるのだとすればそれは確かに、彼らを大人にせしめようとしてそれを為する大人たちなのではある。だが彼らは、大人たちは、
(何も知らないくせに)
良ツはそう胸に思った。
(本当は先生たちだってニッケリくんのことが嫌いなくせに。馬鹿にしてるくせに!)
良ツはそう思った。ぼくは、ぼくたちこそが、
(一番ニッケリくんのことをよく知ってる、彼の友だちなんだ!)
だが実際には、ニッケリについて良ツにも知り得ぬことなどはいくらでもあったのだ。
正午の頃である。昼休みも終わりかけていた。
あれから二ヶ月は経った。しかし今しも良ツの辿る廊下は二ヶ月前のものと何ら変わりはない。下駄箱の土臭い香りも、射し込んで来る日の光にワックスの照り返して、一面が伸したシュガードーナツのように茶色い廊下も、中庭へ通ずる狭い引戸も、その先を植わる大樹を取り囲むようにして切り敷かれた人工芝も、全てが何も変わるところのない日常の校内だった。
良ツがそこをそうしてただに通るのであるというだけで歩いていたところを、階段からニッケリが降りて来て、二人は出くわした。
「あっ」
と言った。どちらともなく言ったようだが即ち、どちらもが、あっ、とそう口にしたのだろう。
「大丈夫」
「うん」
ニッケリの頭にはもう包帯は巻かれていない。良ツの以前、彼を見かけた時には、ニッケリは分厚そうな包帯を顎に通して巻いていた。そのような様のニッケリを見ると、良ツは嫌でも胸に疼きを覚えて、彼へと声をかけることの出来なかった。
罪悪感からだったろうか。
しかし、謂れのあるそれではないのだと良ツ自身は感じているはずなのだ。
とは言え、良ツのニッケリに対して気後れし続けて来たことは確かだった。
今、二人はこうして対面をしている。良ツは不思議と空っぽな気持ちで居られる。包帯を巻いていない、ということは治ったのだろう。もし罪悪感というものの彼に有ったのだとしたら、これで彼のそれもようやく薄まってくれたのであろうか。それだから今、良ツは存外に軽やかな心を以て彼と相対して居られるのであろうか。
「元気」
「うん」
良ツはニッケリのところまで階段を上ると二人で並んだ。するとニッケリはそのまま階段を下って行こうとした。良ツはふいに堪らなくなった。
「ねえ、ニッケリくん」
「なに」
「また、遊ぼうよ」
ええ、とニッケリは困ったような顔をした。それから彼はおずおずと見上げる眼差しで良ツのことを窺い見た。良ツはもどかしさを感じた。そうして彼の笑顔はまた一層大きくなって、ニッケリへと届き行こうとした。
「また、遊ぼう」
良ツは言った。すると、次第に解れて来たニッケリの表情が或る時ふいにぱっと華やいだ。
良ツは安堵した。しかしそれ以上に彼は嬉しいのだった。良ツはニッケリが彼のことを許してくれたのだと感じ、感じたのであることを信じ、それだから嬉しかった。
彼は知らない。ニッケリの長い睫毛を五線譜のように奏でても良いのだとする許可を与えた者が、反って良ツの本心からの笑顔だったことを、彼は知らない。知る由もない。このまま、知り合えぬままの互いの心を思い出とすることだけが彼らに残された道だった。
「ぼく、転校するんだって」
「え」
「もう明後日だって」
「そう」
良ツは沈黙した。ニッケリはそれから、ふと陰らした笑顔にそれでも微笑を保たせたまま、振り返ると階段を降りて行った。平たい手すりへと遊ぶように這わせた指が、階段を下り切ったそこでひょいと飛び立った。
うふふ、と笑ったか知れない。或いは良ツは、そんな彼の笑い声をそのとき耳にしたような気の今にもしている。
良ツは、そのまま遠ざかり行くニッケリの背中が見えなくなるまで彼のことを見送ろうとした。が、やがてまた堪えがたさに足も頻りに下り行こうとし始めたその時、チャイムは鳴り始めた。
(遅れちゃう)
ぎょっとしてそう思った彼は、無論全てを忘れたようにして、この階段を駆け上がって行くのだろう。そうしたのに違いないのだ。そうすることしか彼には出来ないのだ。
だが、思い出に列れてこの先に思いを浮かべやる良ツは、おおい、とニッケリの背中を追いかけて行く彼の姿をばかり、今もその胸に見たがって居るのである。
お読み下さって、ありがとうございました。
『Here's That Rainy Day』は、デューク・ジョーダンの演奏で好きになった曲です。
『ここに、あの雨の日』とはそのままに実に直である訳です。
当曲はまさしくこの小説を書こうとしたきっかけの曲です。
但し、演奏はデューク・ジョーダンのものではなく、オスカー・ピーターソンのものを聴いて、それで書こうと思いました。
とてもなだらかで、優しい、哀しみの味わいがこの曲の誰の演奏にでも有りがち、それはテーマがそうなので如何にしても有りがち、なのだとは思うのです、が、僕の聴いたピーターソンのものは、打ってかわって信じがたいほどに賑やかで、興奮と散らばりまくる打鍵、打鍵、打鍵、といった感じの、絶好調の演奏でした。思わず笑ってしまうほどでした。
これを再現したい、という思いからこの作品を始めたのです。
再現と言うか、表そうとしたのです。
表れておりますでしょうか?
と言っても、聴いたことのないのだったら判る訳はないのですが。
しかもピーターソンのいついつのどれ、といったような具体的な情報も僕の方からお伝えするつもりはないのですが。
それでも表れていると無条件に言って頂けますとありがた……いや、有り難くはない。
本当にお読み下さいまして、ありがとうございました。幾重にも感謝を申し上げます。
と言ったのである以上、少なくとも今一度は、
本当にみんな、どうもありがとうっ!
セ(thなどではない)ンキューッ!!