その三
全て、書き終えてあるのではある。のだが、修正に推敲と加え、時に縮めたり引いたりとしている作業も中々に時間のかかるものである。
修正に、推敲。言ってしまえばまるで小説家のようで、とかく居心地の悪い思いをする。
何者でも在りたくはない、という思いが今の僕を生かし続けているのだ。
だが、いくらなんでもそれではもう、駄目である。
雨は止むことがない。
どうにも地上をそれ自体で充たしたいということが五月の雨のその真剣な欲望である。
三人が社宅へ戻って来ると先と変わらぬ場所にピコは体育座りをして待って居た。彼は小さく見えた。ピコの身体は小さいのだったが、その現実に座している肉体よりも印象の方はまた更に小さく見えた。良ツは、ピコは寂しかったのではないか、と思った。
彼は頭を未だ雑誌で庇ったまま、凱旋者の諸手に掲揚をする旗のようにして、おーい、とその手を振りやる。それに応えるピコの手は、ぴょこんと膝の上で突き立って芽吹いている小さな葉っぱであるというだけだった。寂しさと心細さとはこんなにも有り有りとその人を空間へとひび入らせるものなのだ。良ツは走り寄った。
走り寄って行った良ツはふとその速度を弛めると、ピコの隣に佇んでいる人を眼に捉えた。そうして、はにかんだ。
「こんにちは」
女性は言った。良ツは、こんにちは、と返しながら後続して来る大ヘイとニッケリとへ振り返って、はにかんだ面持ちを覆すように眼を見開いて見せて、彼ら二人へとまた別の種類の微笑みを投げ掛けた。
「こんにちは、びっくりした」
「こんにちは」
こんにちは、と皆で言い募り合うそのところで、
「あ、でも朝だから、おはようだった」
「そうだそうだ」
「別に、こんにちは、でも良いよ」
と彼女は未だ四人の内の誰にもそれが出来そうにはないという、一つ落ち着き払っている物の判り方で呟いた。
「みんなで遊んでるの」
「うん」
「なにして遊んでるの」
うん、みんなで。しかし、何をして遊んでいるということも中々言い表し得がたいような集いでそれはあったのだから、大ヘイも良ツも言い淀んでしまうばかりなのである。
ニッケリはシャイである。ニッケリが見知らぬ人へと、彼らの事情を説明することなどはし得ないはずである。何故ならニッケリはシャイであるからだ。
ところが何も言われぬ三人を眺めていたニッケリは、シャイであるという彼ながらにふと説明をすることを試みようとした。そうして良ツへと、
「雨の中に悪いやつがいるんだよね」
と言って同意を求めた。良ツはむず痒いような気がしてただ、うん、とだけ言って答えた。
「雨の中に悪い奴」
「うん」
「あっ、そうだ」
大ヘイが思い出した。そうして彼はピコに向かって、
「カエル、いなかったよ」
「ええっ」
ピコは心底から驚いたようだった。
「マジで」
「マジマジ」
「生きてたの」
「でも、あんなんになったら生きてるわけないから、死にながら生きてるんだ」
「なぁにそれ」
女性が笑った。彼女が笑っているということに親しみを感じられるかもしれないと思う良ツである。
「カエルがキモい身体の中をぜんぶ吐いて死んだんだよ。でも今見に行ったら、カエルの死体がなくなってたんだ」
「カラスが食べちゃったんじゃない」
「でも直ぐだよ。死んで直ぐ。雨が降ってるし、カラスはどこにもいないよ」
「それにカラスじゃあんなに早くは食べれない。それくらいデカいカエルだった」
大ヘイが言い添えた。コロコロと斜面を転がり落ちて行くおむすびのように慌てふためいている良ツへ充てられて、彼までもがどこか興奮をして熱っぽかった。
「じゃあ、本当にいなかったの」
ピコが訊いた。いなかった、いなかったんだ、いなくなっていた、と三人は口々に言うことでピコへと答え且つ、女の人にもそのことを言い聞かせようとしていた。彼らは大きな声で、何やら喜ばしい感情に取り巻かれながら、はしゃいで居るのである。
「でも死んだカエルが居なくなったんだったら動いたってことでしょう。それならカエルはそもそも生きていたんじゃないの」
「うん、そう思うんだ」
大ヘイが言った。その言葉にびっくりした良ツは、
「違う、死んでたんだ。だからカエルは死にながら生きてるんだ」
と譲られぬその一点を守って軌道修正を図るのだった。或いはそのように幾度でも口にすることで、解き明かしようのないことを解き明かせぬままに、それを味わおうとしている心の咀嚼を彼はして居たいのだ。
大ヘイもまた、うん、そうだ、そうだった、と良ツへと頷きながらも、でも、とふと思い悩むようにピコを見やって、むずかしいな、とその心中に溢すのである。
「ねぇ、それじゃ、ゾンビだよ」
女性が言った。彼女は少し恐ろしげに言ってみせる愉悦を内に含ませてそう言った。効果は覿面だった。四人は忽ちに吸い込まれるようにして彼女を見はじめた。
「ゾンビって知ってる」
「知ってる」
大ヘイは知っていた。
「おあぁ、おあぁ、って言って、身体中が全部腐って、死んでいるのにゾンビは動くんだよ。お化けみたいなやつ。君たちが見たのはひょっとしたらそれなのかも」
それだ、と思って飛び上がったのは、知っていた大ヘイではない。知りもしなかったことへと既に、彼より先んじて在った世界がそのものをゾンビと名付けて呼んでいたという事実に、それだ、と思って飛び上がった彼とは良ツのことなのだ。それが起こり得ぬはずの事態と思われて悩ましい彼の現状認識の靄は颯爽と開かれた。切開。そうしてそれが起こり得るのだという確たる証拠をその時に与えられたのだと感じてしまった良ツは、彼の足元がようやくに在るべき地を踏みしめ出したかのような勇気をして、その全心身を自らで猛烈に押し上げやった。その上で、
「それだっ」
と思わず本当に叫んでしまった良ツは他にし方がない。
ニッケリは驚いて、びくついた。ねぇ、今すごかったよ、ねぇ、すごかったよビクっとして、と指を差しながら言う女性の賑やかさがふと四人の思っていたよりも未だ彼女がいくらか彼らに近しいくらいの心の形をさせているということに彼らは気付かされた。彼女は彼女の心にある幼さのようなものを、いつでも覆い隠しているのである薄いカーテンの裾から、その時ふわりと明かしてくれたようだった。
お姉さん何歳、と訊ねたのはピコである。そうして女性は小さな声で、彼にだけに判るようにただ一言、内緒、と言ったのだった。
その夜のマ希の明かし方は眠られない六時間余りを刻々と過ごす神経の発熱だった。雨音の叩き付ける音が甘い思い出を打ち連ねて絶え間の無く鳴った。しかしいずれ甘さも消え失せ行くその先に、待ち構えていた現実は彼女の神経を頻りに燃やしている辛苦であった。
彼女はふと今は独りで居る社宅の中で、燃えている彼女の身体を確認しようとしてカーテンの裾を引っ張った。直ぐそこの常夜灯の光がおずおずと差し込んで来る。その明かりを頼りにパジャマを捲って腹を見た。
そこにあるものは彼女の薄い肉だった。それは燃えてはいない、冷えた、柔らかな肌であった。綺麗に見えると思った。
若い肌が若さの特権であるのならば若さのそれ故に若いということの一過性には気付かれない、それが若さなのである。しかし彼女もそろそろ、やがては老い行くという人の定まり切った事実へとはその思いを馳せることをしてみても良いという頃合いだった。来年の春には家族と別れ、この小さな社宅をわたしは出て行く。社宅だけではない、この町からもわたしは出て行き、県を越え、また別の土地に、最低でも四年は住まうことになるのだ。
そうして別れるものは家族だけではないというマ希である。
彼女にとって甘い、ということで包括されている思い出の中に楽しさや嬉しさ、悲しみをまで経験して来た生のそのことが、マ希だけのものとして今袋の中をひしめき合っている。何時でもそこからお菓子のように一つ指で摘まみ上げてはその唇で弄んでいるのは、寂れた遊園地へと二人で遊びに行ったあの日の思い出であった。それがだんだん、当日の照れくさい輝きの、彼女ら二人の鼻先にまで迫って来ているというそれ以前の日々の高鳴りもが列れて、微妙な細工の鎖状のアクセサリのようにさらさらとマ希の掌をくすぐりかけている。
幸せが判る、ということがその時、マ希には直ちに判る。それは少しくすぐったく、甘く、平常ではとても居られないような、感情の自ずとされる高まりに格別の恩赦を施すという、人知れぬ魂の充足なのだった。
しかし常夜灯の明かりにぼやかされた眼の奥で、マ希は既にその先をまで見て、知り抜いてしまって居る今の彼女自身に苦しめられて居る。全てが思い出であるというのならば甘くされた糖衣の内に、その全てがそっくりそのまま包まれてしまって居れば良いのだというのに、事実はそうでない。或いはこれだけ甘いのだという思い出自体がそうして甘さを持てば持つほどに、今の彼女を刺し通しているこの辛さを、鋭い鈎爪として血の滲みそうなほどに胸元へとぐいと食い込ませて来るのである。彼女はそこに痛み、追い詰められている心の形が、痛んでいるというそれ故にも手に取るように判るのだった。
変態を、彼女は思った。様態の変じ行く蛹のような形の心が、もう飛び立ってそこから出て行きたいという苦痛からの解放を望み、そうして変態をする。しかし、彼女の蛹は未だ孵るその時を迎えては居ない。いずれは孵るという予感をすら催させはしない神経の発熱が、今は塞ぎ込むばかりのマ希の心の形にだけへと、ふいにはそれと感じ得られよう解熱の時を遠く期待させて居るのにそれは過ぎない。
マ希はパジャマを直すと立ち上がって窓の外を見た。雨だ。降っている。降っている雨が彼女だけに、降り注ぐその容赦のなさを見せつけている。今、誰かマ希以外の他の人間が、彼女の見ているような雨の姿を何処かで同時に見ているのだとは、マ希には決して思われない。夜はそれだけ深い。皆、寝静まって居る頃だ。
鎌倉へと旅行へ発った、母も妹も、そうして父も、今のこの同時刻には三人が同様、いつものように、暖かなぬくもりを昏昏と眠って居るのに違いない。羨ましいような、或いは蔑みたくなるような彼らの安全な眠りを、マ希はしばしば心疎いその暗闇の内に、眠れる夢のような俯瞰をして来た。社宅の狭い部屋の中で、彼女一人眠られないというそうした苦痛のひと時は、しかし眠られないというままに起き続けて、誰にも憚る必要のない貴重な時間と今だけは成っている。
わたしは忘れないだろう。マ希はそう思った。この日の、この夜に降る雨の模様を、わたしは忘れないだろう。発熱をしているこの神経の為にも、マ希は緩慢に過ぎ行く密かな痛みの時間を、彼女の全てに焼き付けておきたい。或いはそれは、マ希の離れ行く故郷を少しでも惜しむというような些かの感傷を交えても在ったのかもしれない。
旅行に付いては行かないというマ希の選択は実際、ただ独りきりで過ごす初めての夜のことを待ちわびていた心根からのことだった。独りになりたいという願いは、彼女の全身に焼き付けたい思い出の為に募らせて居た思いである。しかし或いはそれだけではなくして、彼女はまたより古い思い出から一筋に貫き通ってあるこの土地をついに離れ、心にこれを故郷とするのやもしれぬ哀愁にも囚われて居るのかもしれなかった。
父と上手くいっていないと彼女の思うことは父を悲しませることだろう。父は決して彼女に強いるところもなく、健康で、頑固で、そうして情けのなくなるほどに平凡だとマ希は感じて、好きではなかった。
或るとき父の隠していたいやらしい本を彼女はテレビの裏側から見つけ出して、母に告げ口した。母ははらはらと舞い落ちる葉っぱのように笑いながら、いやね、と言ってそれをそのままゴミ箱へ捨てた。マ希はそれをまた拾い上げると頁を捲ってみた。女性の、ふくよかな裸体。彼女は男性の抱くそうした欲望を不潔だと思う嫌悪で顔を歪めながら、一方で父のことを何様だと思い、腹立たしくもなった。こんなに綺麗な形をした女性の肉体が、父の為に明け透けであるということは勿体のないことだと思った。ところがそのように思い、腹立たしさから更に及んで行きそうな考えにふと蹴躓いたようになって、途端に母へ申し訳ないような気持ちがし出した。マ希は、いやだやだ、と言いながら、それをゴミ箱の深くにまで突っ込んで入れた。その日の夕方、帰って来た父がつゆだらけの豆腐を最後に食べ終えると席を立ってふと、ゴミ箱の傍に佇んでいるのをマ希は目撃した。彼の隠していたいやらしい雑誌が、ゴミ箱の円柱の先から突き出していたのである。マ希はテレビを観ているようなふりをして、ずっと盗み見た。すると驚いたことに父は、なんとその雑誌を引っ張り上げて腹に匿った。それから何か母と小声で話していると、母はまた、はらはらとした笑い方をして、父の肩をぽんと打った。マ希は低い唸りのような父の微かな声を鼻で笑って居りながら、しかしそれほどそれが大事なものかとも思われて、そこに得も言われぬ不気味さをも感じた。
突っ込んで入れたのに、なんで飛び出していたんだろう。そうして思い出されている彼女は疑問に思うのだった。しかし、それが何だと言うのだ。母という相手が居りながら、紙の上の写真の女、その裸に欲情をしている男性の性が滑稽である。ふと思い出して、それが男というものかと悟ってみるような真似をしてみても、その滑稽さの為にも神経のふつふつとした燃焼は収まりようがない。悲しいはずである。だが熱さは痛んで、憎しみばかりに成って行く。これが滑稽であるのならば笑ってしまいたい心が、彼女自身を笑えば良いものか、それとも相手の方を笑えば良いものかと、まるで定かと成らずにさ迷い続けている。
それより何より身体が熱いのだと彼女は思うのだった。熱に没頭をしている全身が雨に打たれたいのかもしれなかった。
マ希は静かに窓を開く。今、昔観た何かの映画のワンシーンのように、雨の降りしきる屋外へと飛び出して行って、両の手を仰ぎながら全身へとそうして落ちてくる無数の雨粒を吸い付けてみたい。そんな欲望についてを彼女は思った。それは決して、彼女に抱かれた欲望なのではない。ただ、そうした野性味のある欲望というものの、それが確かに人には有り得るのであろうと感じる心へと、彼女はただ、思わせるだけだった。
実際にはマ希にはそんなことをしてみようという気などはさらさら無い。雨に濡れる。そうしたら、馬鹿みたいでも忽ちにまたシャワーを浴びないでは居られないという気持ちに彼女は成るであろう。雨で、台無しになる髪のトリートメントをまた再び施そうという気には成られない。
それにもう夜は深く閉ざして、辺り一帯は寝静まってしまっている頃だ。このような夜更けにシャワーを浴びることをするべきではない。迷惑だからだ。何せよ彼女らは社宅の人である。社宅の彼女らはそれぞれの生活の音ばかりは密接にさせているのである。従って、人の迷惑となるようなそんな類いのことは、決してするべきではないこととして彼女の胸には深く刻まれてあった。無論、それを刻んだ者は母であり、父である。母も父も今は居ない。それにも関わらず、母と父とが刻んでしまった或る種の観念が、ただ観念としてだけでマ希の内を横たわっている。彼女はそうして、身につい染み付いてしまっているもののその、つい、であるところに平然として居着いているという図々しさを、少しまさぐり始めて居るようだ。こんなことが実は、独り暮らしをするという時になって、たがの外れたように自らなし崩しにしてしまうという可能性を、マ希はそこに密かに見るのだった。
(わたしも遊ぶかな)
マ希は男のいくつもの顔どもを想念の内にあげつらって思い起こしてみるのである。男が一番にショックを受けて、苦痛に身悶える手っ取り早い方法を彼女は知らないのではない。何処かに彼女自身を冷ましてくれるような報いが、当てずっぽうの復讐として成就を見てくれる未来があるのなら。それなら今はもう為す術のない彼への憎しみも、男全体への復讐として洗われてくれるのではないか。
電子の粒のような真っ赤な光の流砂が流れ始めた。それは帯のようになってマ希の視界を横断していた。もっと子供の頃に彼女はそんな不思議な眼の調子を感じたことのあったような気がする。
粒の流れは彼女へと促すようにじわじわと或る一点へと赴いているようだった。そうして誘われているマ希は少しだけ窓から首を出した。するとその時、雨が止んだ。
マ希は夜空を見上げた。遥か向こうに星の無数と輝いて居るはずの手前で真っ暗な夜空は今、何事も深くへは如何にしても忍ばせられぬ若々しい心境の苦みを模しているかのようである。傷の膿み。一面は今しもぽたぽたと垂れ落ちて来そうな雨雲の膿だ。格別に多感であるという訳ではないマ希のここのところで最も多感であるという彼女のその時期に、夜空は見合わせて、狙いを澄まして居たかのような反映の一面である。
足音が聞こえて来た。全速力で駆けている足音が。こんな時刻に。マ希は途端に恐ろしくなった。そうして彼女は訳の判らぬ衝動に襲われて、つい周り近所のことなど忘れ去ったその瞬間に、開き放った窓をまた勢いよく閉めた。
足音はそれでも未だ彼女の耳へとまで届いて来る高鳴りだった。何か、裏返ってしまった世界へふいに触れた心が、一心不乱に恐怖を把握し続けているという没入がマ希へと起こった。
彼女は世界という全面を居眠るパジャマのその上で、一つ彼女と特定のされて、大きなものに摘まれてしまった生地としての呆然を一時過ごし、それからは眠られぬ夜を血眼で辛抱するだけとなった。
マ希は度々、一人きりで居るはずの彼女自身の渋滞をしている精神のその仰山さに、思わず吹き出した。
良ツも誰も彼も、彼女のし出した奇妙な話を、固唾を飲んで聞いていた。雨を避け、水色の社宅の影にしゃがんで居る彼らは、溌剌としながら尚も大人しい肉だった。
足音、と良ツの思うのよりも激しく思われた者はニッケリであり大ヘイであり、ピコでさえあった。彼らはこれで結ばれた伝聞同士の片方と片方との連結帯域に、彼らの見ぬまま聞かぬままの事実というものを鮮明に閃かした。
木ウラの母子の走り去るその姿を先に目撃している彼らは、その点からも良ツを信じるより他にない。またマ希という名であるこの女性のことをもこれを信じるより他に彼らにはないと思われた。良ツと女の人とが、彼らを騙そうとするその為に、何処かでこそこそと口裏を合わせるというようなことをして居たとは、凡そ考えにくいことだったのだからである。
「それなら本当だったんだ」
つい、そう口を衝いて出てしまった大ヘイのその口が滑ったように思われた。
思われた者は良ツと大ヘイ自身とである。
大ヘイは思いがけずに素直であった自分自身を、良ツとの関係の為に反省したく思って居る。良ツは涙ぐましい悔しさで胸を一杯にさせながら唇を結んで居る。ピコは、ええ、ええ、と首を傾げながら困ったように笑って居るのだったが、実のところこれで彼ももう良ツのことは信用せざるを得ないのだという方向に気持ちは傾きかけて居る。
ただ一人、それが嘘であれ本当であれと、真偽の程その如何に就いてはどうでもあれ、ただに何より空想の上でだけでも真に迫ったその恐ろしさの為にこそ、今しも身をうち震わせて怯えて居るのがニッケリなのだった。
さて彼は、こわぁい、と言うだろう。
「こわぁい」
言ったのだ。
言った通りに彼は本当に、怖がっている。怖いと思うことの少しもニッケリには得ではないのだから、彼は少しでも恐怖を和らげたい気がして、こわぁい、と間の抜けたようなそんな言い方をする。例えば今、このような状況下にあって、一つの運命共同体のように全体の打たれてしまったこの内に偶々良ツの置かれて居ないのであったのなら、彼はニッケリのそうした反応を不出来なものと感じて真っ先に攻撃をしてみたかもしれない。しかし、良ツにはよく判る。ニッケリは本当に怖がって居り、実のところ良ツ自身でさえもがそうなのだ。だから良ツはそうして身を抱きしめて固まっているニッケリへと、追い打ちをするよう、何をか言おうという気になどは今はならない。彼はただ彼の耳にとって相変わらずであるニッケリの、こわぁい、というその声を音に聞き、そうして胸に不思議と同調をして被さって来る薄手のベールの一枚のように、それを密かな心の肌上で感じ取って居るだけだった。
「足音は何だったの」
「判らない。見なかったから」
「足音は二つあった」
息急いて来るような子どもらの質問を訝ったマ希は、どうして、と訊ね返した。ここは殆んど得意気にしてでも踊り出て行く権利を有して居るのは良ツなのではないかと彼自身で思われた。そのように思われたのは他でもない、彼の飛び出して行こうとするその唯一そうな機先を制して実際に飛び出して行った者は大ヘイだったからである。
「良ちゃんとおんなじなんだ」
「そうだよな」
ピコも後に続いた。
「良ちゃん、彼だけど、良ちゃんも見たし、聞いたんだよな」
うん、と良ツは頷いた。でも、頷いている心は他所で、でも僕が見たんだから僕がこのお姉さんに言いたいんだ、と一回りに捻れた苦汁を搾り出して居る。
「へえ」
と言ってマ希は良ツを眺めてみた。彼女の見たことのある真っ白い肌、そこで血のほのぼのとして火照って居そうな頬の赤みが、丸い面立ちにぺたりと広がっている。マ希は気後れをしているような彼の、柔な眼付きのその哀れっぽさに、口にはしないでも相手して欲しいというような幼さの甘ったれを発見して白けた。そうして彼女は何か試みるというようなつもりもなくして、間怠い彼の視線からふいと眼を反らしてやった。
隣の家の子だったよね、とマ希は思った。よくこの社宅の駐車場へぱっと繰り出して来ては、二、三の子らを引き連れて遊んでいるのが彼である。マ希も幾度か、その様子をちらりと目撃することがあった。この子が確か社宅の給水タンクの脇の土肌に水を振りかけて、泥にして遊んでいたのを母に怒られた子だったと思う。柄にもなくぷりぷりと怒りながら母は帰って来て、ここの敷地をぐちゃぐちゃにして遊んでいた他所の子どもを叱ってやったと、長葱を取り出す手も休めずにしてマ希へと報告をしたのだった。
その日はすき焼きにする、と言っていたのに、出て来たのは肉のたっぷりと入った寄せ鍋だった。なんで、とマ希の訊ねたら、母は彼女の自身で作り上げた鍋物を凝視しながら、あっ、お母さんまちがってる、と事も無げに言った。それから綺麗な、白い八重歯を見せながら、マ希へと微笑んでみせた。
わたしはお母さんのことがとても好きだ。
「きみ、いつもここで遊んでるよね」
「いつもじゃないよ」
「ほんとう」
良ツはふいに華やいで、
「うん。この前はねぇ、しんちゃんとザリガニを田んぼで捕まえて遊んだよ。そこの田んぼだよ」
「ふうん」
しかし華やいで見せた表情の輝きも早と褪せて行かせてしまう良ツである。良ツは明敏な頭をしているのではない。が、敏いところのない訳でもない。ただ感覚の上でこの女性の良ツを好いては居ないのだと判ってしまった。すると、そんな落ち込み方がマ希を怪しませたのだ。
「ねえ、この間、あそこで遊んだの」
マ希は給水タンクの方を指差して言った。
良ツはそれがもう彼へと何らかの諫めを込めた指先なのだと信じて、ふいに不安な心持ちになって来た。良ツは首を振る。不安がった彼はそうして振る首を素早くして、罪から逃れようとしている小さな悪あがきかのように彼自身を見せてしまう。だからマ希はやはりこの子に間違いないのだと確信をすることの出来てしまった。
「あそこで水撒いて遊んで、怒られたんでしょ。そんなことして遊んじゃいけないんだよ」
「ちがうよ」
「ほんとう」
ほんとうだよ、と良ツは強く言った。一番大人に頼りたいという彼の子供心が、もっと上手く行く時もあれば行かれない時もある。今は無下にされた彼にとって、雨中の空気にさえも溺れてしまいかねない心の頼りのなさだった。それが益々良ツの眼付きに憂いを滲ませた。すると、まるで真実を語る者ではない彼の弱々しさが、その弱々しさが為にもそれがまさしく虚言と彼女へ相当思わせる。
「嘘つき」
マ希の唇の端が軽くするその仄かな笑みで吊り上がった。
「嘘つきは悪いやつだよ。すごく悪いやつ。泥棒の始まりだよ」
「やぁい、どろぼう、どろぼう」
と俄に追随をして囃し立てて来る者はピコであった。また大ヘイさえもがピコに倣ってどろぼう、どろぼう、と左右に小躍りをしてみせた。ちがう、ちがうよ、声高に抗弁をすれども、それはすればするほどに彼ら二人へと注いで行くという戯れの燃焼材に過ぎなくなった。
マ希は良ツを不憫に思うのではなく今こうしておどけ回って居る二人にしたところが社宅の部外者なのであろうとそう思うことで彼らのふるまいを嗜めた。が、そうした戯れが彼らの快楽の為に揺動し始めているという現状では、そのように自律をしている二人の子どもらを一言の下に抑え付けることなどは決して出来ないのだった。
「ひゃあ」
良ツの背後から嬉しそうなはしゃぎ声が上がって来た。
良ツは振り向いた。
振り向いて来る良ツへと満面の笑みを投げかけて居りながら、ニッケリは、どぉろぼうぅ、と言った。彼は、にこやかである。
こうして良ツは完全に怒った。
「なんだっ」
と良ツの怒髪天は、それがはっきりそうと発現をさせる以前から、既にニッケリの眼にその兆しを映せしめて居たのに違いない。彼は忽ちに不安であった。そこへ良ツは、いずれぶつけるつもりで居た怒りのこととてニッケリの面持ちにそんな不安の色を見つけてしまうと、勝てるものには必ず勝たれる、という彼の思い上がりをこずるく利用しない訳には行かれなかった。
こんなことは二人の間で度々あったのだ。
不安げなニッケリという佇み方は常に、雷のように怒るという良ツの雷を、どうぞここへと招き寄せる丘上の避雷針でしかなかったのである。
従って、雷は落ちた。
ニッケリは黙り、他の二人もが黙った。
しかしながら、それから間も無く再び何処ぞを鳴り響かせて落ちた雷のその音は、一たびは黙った誰彼をもまたとみに沸かせた。
全く偶然に、そのとき本物の雷鳴が鳴り響いたのである。
「マジで」
「すっご」
「これはすご過ぎる」
打たれてから後、忽ちにまた打たれとしてその為、何より今の彼らの胸を打っているものとは、偶さかに重なり合った怒りと雷鳴との同期である。得も言われぬ未知への感動はピコと大ヘイとを直ちに引っくり返し、彼らはあっという間に良ツを褒め称え出すという大転向をして、彼ら自身をまた新たな位置へと処した。その転身の素早さといったら殆んどワープである。
すごい、すごい、とそうして面白がる内にとうとう良ツは神様だというところにまで彼への礼賛は突き進んだ。ピコはここぞとばかりに身を平伏せしめて、イヴ・タンギーの絵の一粒のように、滑らかな油分へと彼の全身を堕さしめた。おうおう、良ツさまぁ、良ツさまぁ。そうして居ると、あははは、と笑ってくれるマ希は即ち、彼のあからさまに開陳しているその期待を裏切らないで居るという訳である。良ツは実のところ、そんなにまでして崇め奉るふりをするピコのことが判らない。が、しかし然は然りとて大ヘイにせよ、すごい、すごい、と言って手を叩き、誉めそやしてくれている全体の彼へとされたこの歓待ぶりに、良ツの頑なと成ったその心もするするとほどかれて行くような解放に弛み始めた。すると良ツの口元からは許しの笑みなどがついと溢れ落ちて行くのだ。まるでコーンの縁を溶け滴る苺のアイスクリームであるかのように。
「良いものあげる」
とマ希は出し抜けに言うと、小さな彼らの為にしゃがんであげた。それから彼女は念を押すようにして、ねえ、良いもの欲しい、と再び訊いた。彼女は彼らの期待を煽ってみたいのである。
果たして良ツは我先にとばかりに急いて、欲しい、と叫んだが、どうも調子っぱずれになってしまってふいに一人ぼっちの気分に成ってしまった。それから間もなく方々から欲しい欲しい、と言い募り合う中で、ねぇ、何をくれるの、と質して聞いたのはピコだった。マ希はそれにも内緒と答えて、ひょいと立ち上がると階段を昇って行った。
小麦色のふくらはぎが社宅の影へと吸い込まれて行く。良ツはまるで眩んだように眼を瞬いた。
次回の修正には苦戦をしそうです。