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その二

夜も夜中に寝るってときに、眠られなくって眼ぇ見開いてるってとき、あんじゃんね。

そんとき、小さい頃だけど、なんかじわじわじわって言うか、ざわざわざわって言うか、赤っぽい、ジャギ線みたいなの見えなかった、みんなは?

あれって何なん?

 雨は今や、町一帯を執拗に踏みしだくよう降り続けていた。四人はそのうらぶれた銀色の盛んな筋を、社宅の外階段の影から見上げていた。

 足を束ねてぎゅっと閉じ込め、体育座りをしているピコの隣で大ヘイが大きな欠伸をした。ニッケリは良ツの顔を覗き込んでいながら彼を待っていた。待たれている彼は中々そのことには気付かれず、ただ透明に落ちて来る雨粒に見入って、そうすることで彼の心象を濡らしているような浸りに入っていた。ニッケリにはそれが未だ収まり切っては居らぬ良ツの無言の怒りのようにも思われた。

 ニッケリの頭頂をはね上がっていた寝癖の毛束に、数滴の水玉がくっ付いている。良ツはそれを見てふと、虫が止まってるみたい、とそう思った。

「どうするの」

 大ヘイが良ツへと聞いて来た。良ツは何をどうするとも定め難い物憂さで胸を占めさせていたその為に、三人へ何をか訴えかけるというような心境には中々、成り切られないのだった。

「でも、なんでだろうなぁ」

「うん」

「カエル、急に死んじゃったよ」

 とぼとぼと暮れて明かれぬような思いが未だニッケリのことを捉え続けているのである。それは、と良ツには思われた。

 水が悪いのだ。

 水が悪いのである。

「水が悪いんだよ」

「それって何」

 ピコが聞いて来た。

「水の中に悪いたましいが入っているんだ」

「悪いたましいって」

 大ヘイも参画をし始めるとニッケリは、

「それでカエルは死んじゃったの」

 と良ツへ訊いた。判らない。だけれど、そうかもしれないんだ。

「なんで、そうやって言えるんだよ」

 ピコが突っかかった。良ツは、見たからだよ、と言った。つまり、

「それが出るって言ってたやつ」

「そうだよ」

 良ツは大ヘイへと頷いて、今も、とまた呟くように言った。大ヘイは、それなら、

「何があったかちゃんとぜんぶ話してよ」

 判った。

 ここに良ツはようやく彼の話を始めたのである。


 その夜、雨は暗闇の空から地へ降り頻るその間中、町ダ良ツにとってはただの物音に過ぎなかった。時間も何時と知れぬ夜半に彼はふと目を覚ました。両脇に眠っている両親の姿がちまきのように布団へくるまっている。彼は小さな山脈と大きな山脈とそれを見て思って、暫くは暗い中でそうして半身を起こしていた。

 このような時間にただ一人目を覚ましているということは彼にとって初めてのことだった。そうして居ると、電子的な粒の線形が幼い彼の眼にじわじわと流れ込んで来た。これはなんだろう。良ツは見るでも見ぬでもないような案配で居るその内に、線形の流れ込んで来るざらざらとした妙な予感に気を摘まれた。

 摘まれたものは彼の首筋もであった。彼は静かに立った。捲れ上がる布団の音にさえも注意を払うのは、両脇の小山脈と大山脈とをそれで起こしてしまいたくはなかったからだった。彼は静かにひそりとして、ただ一人切りに流れてあるような時と空間とを破ってしまいたくはなかった。一たび鳴動をし始めると山々は、彼にとってとても喧しいものになるのである。喧しいものの夜半に夜半であるのだからこそ囁くようにするであろう叱責は彼にとってはそれでも充分に耳に痛く響いて来るのである喧しさをしていた。しかし一方でこの時、良ツは殆んど確信に近いものを胸に得て、こうも思っていた。これだけ静かにしていれば、山々はぜったいにその眼を覚ましたりなどしない。一歩一歩と、抜き足差し足をして動いてみせれば、眼の覚めやらぬ山々を背にして今、彼を呼び込んでいる電子の線形の向こうを、障子の戸の開けたその先に良ツは、必ず目撃することの出来るであろう、と。

 良ツはそうしてそのようなことを直感するがままに、下方の山々の眠りを掠めて去って行きながら、空を渡るような夜の静けさをさせて居る。障子襖へ手をかけた。それは開こうとすると少しつんのめった。だから良ツは僅かにも余計に手へ力を加えてそれを開かせねばならなかった。くくっ、と木枠組みの下底部がいやに擦れる音を立てたとき、流石に彼の直感もこれで嘘になると思われた。しかし、両親はどちらも、ぴくりとも反応を示さないのである。良ツは意外であった。いつでも試みにしてみる悪戯が父母らへと露見をしなかったという例を良ツは持たなかった。ところがこの時ばかりはやはりそうと感ずるがままに行なったことから普段とは別の結果をこの場へともたらしそうなのであった。そのことが彼には意外なのである。良ツは今しも眼に流れ込んでいる線形のものの、彼を導き行くただ一つとして導いているというその為に、父母である山々はそうして目を覚まさぬように配慮をされたのだ、と信じることの出来た。彼の今ばかりは、この秘密の行為を不思議な夜の面立ちに許された時である。そうして彼のこの場限りは、その行為を夜の深い懐中へと秘密にして潜ませて居られるという特別な空間だったのである。

 それでも手つきは慎重だった。良ツはだんだんに、じわじわとそれを滑らして行き、やがてもう彼の小さな頭ほどはそこが開けたというところで、彼の低い、形の素直な鼻の先端は窓ガラスへと吸い付いた。

 彼の家の隣、コーワセイコー社宅の駐車場に一本立った常夜灯の照らしている、雨だ。

 知っていた。音のするだけ、音のその鳴り方のほどに降っている雨が、少しばかり光っている。その光っている雨筋が故に、駐車場の一帯を下方から仄かに浮かび上がらせているような反射が、鯨の皮膚のかいている大量の汗のようである。ふと良ツは、こうして彼に見えている光景の一面が、不思議と生きているその溌剌さを感じた。すると彼を導いている電子の線形が空へと散逸をし出した。それはまるで大火の火の粉のように夜の闇を踊り、やがて、ふっと消えた。そうと思うと雨脚の急に収まって来た。鳴り続けて居た雨音もどこか名残りの惜しい一粒一粒が、屋根から地面へとそれぞれの孤独ずつに落ちて行くあのもの悲しい音へと変わり果てた。こんなに俄に止んでしまったという雨を見るのも良ツにとっては初めてのことだった。

 駆けて来る音を外に聞いている。この夜半に、父親も母親も寝静まって居るという、彼らのような大人でさえも布団の内でくたびれてしまって居る、何事もないはずの、静かの夜に。それは駆けて来た。良ツは見た。木ウラの母である。その子である、タマ王である。二人が連れ立って並走をし、通りの向こうから駆けて来た。タマ王くんだ、と良ツは思った。彼はまるで窓枠の隔てた先を切り取られた映画のワンシーンのようにして眺めている鑑賞者であった。タマ王くんだ、でも何かが変だな、と良ツは思った。ふらふらだ。それなのに母は力一杯に走って、たとえ何に正面からぶつかったのだとしても彼女は決してその足を止めそうにもない。

 やがて通り過ぎ去って行く彼らのことを、視点は追いかけては行かれない。良ツは未だこの出し物につづきが存在するのではないかとそれを期待して、社宅の駐車場を眺め続けている。すると、光っていると思われたアスファルトが光っているというそのことを仄めかすくらいの明度に留めていたものならば、それは良ツの見つめる次第にやがてほのぼのとした白い輝きの泡沫を湛え出し、そうして光っているというそのことを今度は辺りへとあからさまにし出す明度を以て表し始めた。幾筋もの雨脚の逆立ちは、天よりの審判を待つ無数の輝ける魂のように佇んで居た。そうしてあるところでそれらは、海中を立ち上がっているアニサキスのようにふよふよと揺らめき出した。きれい、と良ツはそう思う。そう思っている内に発光した逆雨脚のそよぎが、打って変わって痺れの微細な振動に変じ始めた。そうなるともう、きれい、と言うのではこれに当たらない、獣の威嚇を眼にする時に抱かれるような本能的の不穏をそこに感じ始める良ツである。彼は未だ怖いとまでは思うのではなかった。が、胸にそんな突き崩れ方をしてしまわれそうな不安の或る一点が、しこりのように彼の内心を盛り上がっているのをふと感覚している。見るまいとするものをでもどうしても見てしまう辛抱のなさを子供心が有しているように、陥るまいとする恐怖の症状へと自ら陥る為に踏み込んで行ってしまわれるという心の罠をさえ人は有するのである。その心性の今まさに証明をされようとするところだ。ほら、見たまえ。良ツは窓へと手をかけたではないか。

 ロックを外す為に彼は未だ少し障子襖を端へと押しやらねばならなかった。

 と、その時、水の這いずり回る音が一斉に鳴り始めた。それはまるでこの地球の底に海洋の初めて生まれ出した時のその音だった。

 全ての滴り落ち切った雨の残りが、蛇のようにアスファルトを這いながら、給水タンクの辺りへと殺到をしている。そこに寄り集った雨水はしこりのように盛り上がった。それから見る見る内にしこりは乳房のように膨らんで来た。それは白光りをさせながら俄然膨張をするその内に、それまでほのぼのしかった光の性格を違えて、その輝きの輪郭をくっきりとさせ出していた。果たして、乳房のような雨水の中で光はそこらを渡る毛細血管のように交接をしながら巻き巡っている。

 乳房のような水の塊が切れた。その切れ込みから大きな舌べろが突き出して来た。それを舌べろだと思うのは良ツの感性からのことである。すると良ツを導いて伸長して行った電子の線形がその口腔から、今度は彼の方向へと舞い戻り向かって来るかのように彼には思われた。

 そのとき見られたと感じた。

(わあっ)

 しかしそれでも未だ恐怖であったのではない。

 電子の線形は導いているはずだった。良ツは未だそれの作用する独特な直感の下に許されているという気安さから、滑りの悪い障子襖を音を立てて押し切ってしまった。そうして彼は耳の形をしたロックへと小さなその指を掛けたのである。彼はその時、必ず異常精神だったと言って良い。彼は狂おしいほどに急かされて、早まってしまった。

「ちょっとっ」

 良ツは驚いた。母親が眼を覚ましたのだ。とそう思うなりに電子の線形は彼の視界から全く絶えた。本当に、ぱっと消えて無くなった。

 すると良ツはふいに恐ろしくなった。彼は急いで守られたくなった。そうして布団の未だ少し生暖かさの残るその内へと急いで潜り込んだ。ごめんなさい、と言った。その声はとてもか細かった。

 それから母親は良ツへと、障子を閉めなさい、と三度は言った。が、良ツはもう怖くて仕方がなくなって、出来ない。そう言われる度に、出来ない、と囁いて答えるだけで動かれない。やがて明らかに機嫌の悪い母親は小山脈を自ら切り崩して立ち上がると、窓の前に立った。そうして彼女は外の様子を確認するかのように暫しは佇んで、やがて、

「外からまる見えじゃないっ」

 と腹立たし気に囁いて言い捨てると、障子襖をぴしゃりと閉ざした。


「こわぁい」

 ニッケリは、身体を庇うように両の手で彼の二の腕を掴まえながら、うち震えるレゴブロックのようにして居た。

「それって本当なの」

 大ヘイがやや心配そうに良ツのことを覗き込んで言う。良ツは、本当だよ、と言って答えた。その本当であるということの殆んどを彼は上手く説明することの出来なかったかもしれない。然も有りとて幼い者に出来る限りのこととはそもそもが範囲の狭く少ないものだ。しかし逆さまになって生えて来た雨や白い光、そうして水の塊とその舌べろなど、全体様子の余りにもおかしいということは、彼の拙い舌さばきながらにも伝えることは伝えられたのである。

 その中でもニッケリの恐怖を覿面に誘い出していたものは、やはり木ウラの母子についてであった。大ヘイもまたそのことを訊ね、

「それは何時だったの」

「わかんない」

「でもみんなが寝てる時間」

「絶対にそうだよ。だってお父さんもお母さんも寝てたんだもん」

「なんでだ」

「わかんない」

「こわいなぁ」

 と、ただに頻りにそう呟くのであるニッケリが未だかちこちに凝り固まらせたまま先までと寸分違わない姿勢でそうして居る。良ツはつい鼻で笑った。

「嘘なんじゃない」

 ピコが口を開いた。

「嘘じゃないよ」

 良ツは声を高くして言った。

「それ、お母さんも見たんでしょ」

「うん」

 大ヘイの問いに良ツは苦い顔をしながら頷いた。でも、

「でもお母さんは何もなかったって言ったんだよ。僕が聞いたら、いつもと変わらなかったって言った。夢を見てたんだって。だから僕はお母さんも夢見てたんじゃない、って聞いた」

「なんで」

「だって、おかしいだろ。僕が窓から見てたのをお母さんは見てたじゃんか。僕が夢でそれをしてたんなら、お母さんも夢でそれを見てたんでしょ。そんなことなんてあるかな」

 大ヘイは考える素振りをしてから、そうだよね、と言った。それからまた、そうだよな、と繰り返すと面白そうに頭を掻いた。

「立ったまま寝てたんじゃねぇの」

 ピコがにやにやと笑いながら言った。すると大ヘイも、はは、と笑った。良ツは、やっぱり、と直ぐ様に思い募らせるともうその気持ちは止められず、そんなわけないだろう、とピコへと声を張り上げた。

「だって見たの良ちゃんだけなんだろ」

「そうだよ」

「嘘っぽいよ」

「でもそれならカエルはなんだ」

 良ツは言った。するとピコは死に落ちる老人のように嗄れ声で暗く唸って、忽ちにまた黙り込んでしまった。

「確かにあのカエルは変だった」

「俺はあれが水のせいだと思う。水の中に悪いやつがかくれているんだ」

「こわいなぁ。ほんとにこわい」

 ニッケリが言った。良ツはそれを見ながらつい指先で、彼自身を大事そうに交差させているニッケリのその腕を押しやった。するとしゃがんでいたニッケリは、わっ、と言って体勢を崩し、尻餅をついた。

「ともかくもう一回カエルを見に行ってみない」

「いいね、調べてみよう」

「何かわかるかもしれない」

「うん、行こう」

「でも、雨が降ってるじゃないか」

 不服そうにして言うニッケリである。それは確かにそうなのだともまた良ツには思われた。

 と、ふいに彼は思い出した。そうして外階段の影から抜け出すと、しとどに流れ落ちて来る雨の溜まりには触れぬように気を付けながら、社宅の反対側まで彼はすばしっこく歩いて行った。

 戻って来た良ツの手には、ビニール紐で十字に結わえられた雑誌の束が垂れ下がっていた。チャンピオン、週刊ポスト、週刊現代、チャンピオン、チャンピオン、とにかくチャンピオンである。

「これで良いよ」

「これをどうするのよ」

「傘だよ」

 良ツは言った。すると大ヘイもピコもケタケタと笑い出した。初めはムッとしていた良ツであったが、発案者である流石の彼であってもこの雑誌を見開いて頭に乗っけている我が身の姿を近い将来に見詰めてみた場合、それは本当に滑稽な、おもしろい姿だと感じ始め、結局は彼も大笑いし出した。

「こんなの傘になんないんじゃない」

「でも何にもないよりマシじゃんね」

 それに雨の上がるのを待っているというような時の流れの怠い辛抱は誰でもが嫌いだ。

 良ツは我先に本を頭へ乗っけようとして、ビニール紐を無理矢理に引っ張った。しかし引っ張れば引っ張るほどに千切れまいとして引き伸びて来るビニール紐は掌へと食い込んで来て痛かった。ハサミない、あるわけないじゃん、それならどうする、と話をしている内に大ヘイが石を取り出した。

「なんであんの」

「さっき拾ったんだ」

 大ヘイはわざわざ尻のポケットから出し入れをしてみせて、その石の由緒というものを明らかにした。それから大ヘイは雑誌の束へと圧し掛かるように屈むと、石の一番鋭いところをナイフのようにしてビニール紐へと宛がった。良ツはそんな大ヘイの姿に何か、決して彼にはない優れた資質のようなものを見た気がした。そんな見方が立ちどころに大ヘイの手にしているただの石を、まるで宝石のように彼へ羨望せしめるのである。

「ねえ、僕にもやらして」

「いや、これは俺がやるよ」

 大ヘイは随分と時間をかけながら、それでも徐々に紐を捩り切っていた。やがて、切れた。しかし未だ一字を残している。それもまた窮屈に結われていて彼らの力では雑誌を一冊でさえ取り出せそうにはなかった。

「ねえ、一個やったんだから今度は貸して」

「いいよ」

 そうして取り掛かってみる良ツは己れの不器用さを自らそれと知るその前に、そうじゃないよ、とピコに割って入られた。

 ピコは紐を指で引き上げると、その下から石で擦り始めた。良ツは、ピコが少し乗り気でなかったそのことに気兼ねをしていた自分がこれで少しは安心を抱けたように感じた。しかし先ずは真っ先に大ヘイが、ピコのその手際の良さへの賞賛を送ったので、良ツは結局その気持ちに少しばかり苦い味を舐めることにも成った。

 そうして紐の解かれ、頭へ雑誌を被ってみた大ヘイと良ツとは互いに互いを見合っては膝を落として笑い転げた。或るものを滑稽であるとするその感覚は、或るものの性質として蔵せられる一般物との過不足から起こって来るものであるのだとは言えよう。だが何せよ彼らへと訴え掛けているものとは、その雑誌の頭被りの様が延々笑い転げてしまわれるほどに面白いのだとする感覚の過足である。

 頭へ被ったチャンピオンは、思っていた以上に彼らのことを、雨から少しも守れそうにはなかったのだ。

 その内、ただ成り行きを見守っていたニッケリもが頭へ被り出すと、わっ、と言って外へと飛び出した。愉快な興奮である。三人はそれに連れて、わっ、

「死んだ」

「あ、死んだ」

「死んだよ」

 誰も良ツの話を心底から信じた訳でもあるまい。が、一つされた話の後に、現実へたなびくようなその影を見るとするなら、彼らはそれが楽しみの為にとて掴まえてやりたい。

 果たして、一目散に駆けて逃げ込んで来るニッケリを見てまた三人は笑い転げるのだった。


 ピコはどうしても来ないと言った。それだから死の雨降りしきるそのさ中を勇敢にも飛び出して行った三人は、良ツと大ヘイとニッケリとだった。

 始めから判っては居たことだったが彼らの飛び出して駆けて行って間もなく、頭に被った雑誌でだけでは雨からは全く全身を守れないと三人は直ちに悟った。それでもとにかく危険であるのだと思しい雨へと彼ら自身で出来得る限りのことをしているという対処の自己満足が、全身びしょ濡れになってしまうことへの心配を彼らに余りさせなかった。

 それに、死の雨から彼らを守るチャンピオンは、聖なるチャンピオンであるのかも知れないのだから。

「ピコはなんで来ないの」

 良ツは大ヘイへ訊いた。大ヘイは、うん、と一つ唸るような音を出してそれから、わからない、と答えた。だが良ツには、それが本当に判って居ないというようには見えなかった。

「ちょっと、俺が先に行くよ」

「どうして」

 ニッケリが言う。大ヘイは唇の端を歪ませて独特に笑むと、

「ここから先は何があるか判らないから、俺が先に見に行く。それから二人来てくれ。もし俺に何かあったら、大声で呼ぶから」

 と言った。良ツはピンと来た。それで良ツは、隊長、と呟いた。すると俄然、華やぎ出したニッケリがまた、隊長隊長、と良ツへ引き続き、彼がするように頭の上の雑誌を庇いながら、敬礼のような無作法な礼の形を取った。

 大ヘイは空き地へと入って行った。入って行くなりに、

「あっ」

 と声を上げたので二人は直ぐ様に覗き込んだ。

「待って、ここ泥すっげぇ。気を付けて」

 大ヘイは足で何度となく地面を踏み付けながらそう言った。良ツは親指を突き立てて合図を送った。大ヘイもまた親指を突き立てて合図を送り返した。ニッケリは屈託なく笑って居るのである。

 それから良ツは屈みながら、社宅と空き地とを隔てるブロック塀へ身を寄せると、道路の真ん中で突っ立って居るニッケリを見咎めた。おい、なにやってんだ、こっち来い。

「なんで」

「隊長が今見てるんだ。隊長はおとりだ。早く来いって」

 殆んど何も訳の判っていないというのにニッケリは良ツの後ろへ付いて、彼と同様にブロック塀へとその身を寄せた。

「なんで一緒に入らないの」

「隊長はおとりだ」

「おとり」

「そうだ。まずいな、時間がない」

 ええ、と腑抜けたような面へと変化をさせて来るニッケリである。

「時間って」

「馬鹿だな。水の中に悪いものがあるんじゃないか。こうしててもどんどん濡れて、今は大丈夫。でもこの雨の粒の内、どれがあいつかわからないじゃないか。あ、危ない」

 と良ツは渾身の何ものかを発揮してニッケリの上から被さった。

「今、あいつだった可能性がある」

「わかるの」

 良ツは彼自身、も早何一つも想像することのない愉悦の内に絡め取られて居りながら、

「僕は何度も見てるから」

 と言った。途端に沈み込んだような面をするニッケリに、またか、とさえ思って、彼は焦れているほどである。

「でもさぁ、雨粒のどれかが悪者なら、大ヘイくん」

「大ヘイくんじゃない。隊長だぞ。隊長と呼ぶんだ。隊長はえらいぞ。くん、じゃない」

「隊長はおとりにならなくて良いんじゃない」

「ばかもの」

 と良ツは言ったが、言いながら激しく回転するような頭の内の働きを彼は脳の感じるままにさせて居る。そうして彼は、それはね、

「カエルがあそこで死んだんだから、あそこは悪いものが強いんだ。隊長はそれを基地で聞いて、前から知っていたんだよ」

 と彼の説き伏せようとしたその時、ひより、という掠れた音が鳴った。良ツは手繰り寄せるようにその音から何をかを感覚した。音は空き地から聞こえ、空き地にはおそらく大ヘイだけが居るのである。そうして音は笛のような音だった。であるのならば笛は口笛で、それを鳴らしている者は大ヘイなのに違いない。何故なら大ヘイにはそれをする理由があるからだ。

 再び、今度はブロック塀を高く飛び越えて来る放物線をでも、透明な宙空へ密かに描いているかのような逞しい音が、空き地の方から吹き鳴らされた。つまりそれは、今回の大ヘイは口笛を吹くのに成功をした、ということを意味している。また同時に彼らは、隊長が口笛を吹くことで隊員ら二名へと合図を送り出し、近くを潜伏中の彼らのことをそうして呼び付けて居る、ということを意味させている。

「隊長だ。いくぞっ」

「え、大声じゃないの」

 それでも隊長だ、と良ツは理解をしていたし、実を言えば斯く言うニッケリにしても、そう呈してみた疑問をするのち忽ちに、隊長がそうして呼び寄せて居るのだと素早く理解をし直していた。大声で呼ぶよりも口笛を吹く方がもっとそれらしく様になるのだと大ヘイはそう思い直すことをして方針転換をしたのであろう。

 で、あるのなら隊長なのである。

 彼らは隊員なのである。

 それなら、

「いくぞぉぉぉっ」

 と地に伏した雨水を踏み荒らしながら飛び出して行く良ツはする後、

「ぎえっ」

 と言うと、踏み込んだ泥まみれの靴を上げて、そのまま二、三の跳躍をした彼はそうすることでむしろ、彼の全てを台無しにしてしまいかねない泥濘への大転倒をしそうになった。しかし良ツは後続して来たニッケリへと腕を翻すように伸ばすことで、彼の左肩をどうにかして掴んだ。すると、そのように掛かる負荷を予期して待ち構えて居などはしなかったニッケリの全身が大きく揺れ動いた。耐えられぬ。と、耐えられぬのは良ツも同じことで、彼は目一杯に支えとしたニッケリの身体へと更に力を加えるのでなければ彼の平衡を保ち得ぬのだった。

 従って良ツは力を更に加えた。それだから倒れ込んだのはニッケリの方だった。

「ごめん、ごめんよ」

 良ツはニッケリを助け起こした。ニッケリは虚ろな眼をしながらもう既に過ぎ去っているのではある危機の、それが訪れていた瞬間とまたそれが訪れたのちに瞬く間で消え失せて行った後とに残留をしている、二つの間の歴然とした感覚的の落差の為に呆然自失としていた。

 ともなれば心にそれだけ撃ち抜かれたような穴を、吹き抜けて行く風のように感じて居られるこの余裕は、彼が奇跡的にその転倒へ伴う何らの痛みも覚えずに済んだという事実に起因するものである。しかし良ツにはそれが一目に判るというはずもない。

「大丈夫、ほんとうに大丈夫」

 と彼は繰り返しニッケリへと訊ね、また、ごめんごめん、と何度でも繰り返すのだ。

「ねえ、大丈夫なの」

 大ヘイは水溜まりの傍にぽつねんと佇んだままだ。これに答えるニッケリはただ一言、濡れちゃったよ、と嗄れた声で言うばかりで後にはそれへ何も付け足されぬのだから良ツはやきもきとした。のろま、と思った。

 前から良ツはニッケリのことをのろまだと思っていた。良ツで思うようなことは、大ヘイでもピコでも当然、自然とそう思われているようなことである。殊にピコのする刺々しい詰りはよくニッケリを標的としてまたよく彼にぷつりと刺さるものだった。ニッケリがピコを苦手としているそれが理由である。だが実際にはそうしたピコでさえ未だニッケリを友だちとしているだけに、彼へと情愛のようなものを持って接するという判断以前の感情的な基底があった。それが詰り、一方詰られるという二人の間を本当には引き裂くまいとするかすがいなのだった。

 大人たちはそうではない。良ツはしばしば学校の先生のニッケリへとするその取り扱い方に、ふるまいの奥へ隠した嫌悪感情のようなものを見ている気がするのだ。それはつまりニッケリはのろまだから彼らに疎まれている、だけれど彼らはそれをおくびにも出さないのだ、と良ツは感じているということだ。

 その感覚を今、良ツはふと思い出している。覚束ぬようなニッケリの姿を見ている内に、不憫な気持ちで濡れそぼって来た良ツの胸は慰謝をしたくて仕方がなくなった。そうして突き飛ばしてしまった方の肩を優しく揺することをしながら、また同時に良ツは、結局何事にも至りそうにはないという平穏無事さをようやくニッケリのその姿に認め始めると、ああ、これで僕はそんなに悪くない、と内心で冷たく汗ばむような安堵に気を休ませることの出来るのである。

「見てよ」

 空き地脇の水溜まりへまで行くと、そこに立っていた大ヘイが指を差した。良ツは驚いた。相変わらずにその後から続いて来たニッケリも、そこを見るなり、ええっ、と声を上げた。

「いない」

 彼は面白い漫画をでも読んでいるかのようにそう言った。居ないのだ。内臓を吐き出して浮いていたあの大きな蛙の死骸は、そこから全く消えてなくなってしまっていた。

「新しい謎だよ」

 満足げにそう言っている大ヘイの横顔を、良ツは信じがたいといったような驚きの面持ちのままで見詰めた。生きていたのか、と思うのである。それでそう言った。しかし、

「いや、絶対に死んでたよ」

 とニッケリはそう言ったし、そう言われた良ツもまた同じように思って居たのだ。確かに以前生きていたあの蛙は、以後もう既に死んでしまった蛙であったはずである。死んでいたということは、もう二度と動かない絶命のさ中にあるそれは蛙の死骸であったということだ。そんなものが忽然と、独りでに消失をしてしまうというようなことなど起こり得るのだろうか。勿論、起こり得はしないだろう。良ツはそのように感想をする。ところが現に、死骸はそこに消えていたのだ。それならば、

(大ヘイがどこかに隠したんだ)

 良ツはそう思うのでしかない。そうと思われてみるとふいに、彼の胸へ苦いものの立ち昇って来たようにも感じられ出した。

 然は然りとて彼にはそれとは未だ判明のせられぬような、曖昧な不快感、が苦味の正体であったのだった。良ツは汚されたのだと感じ出す。世の中に謎めいた、有り得ぬようなことをその眼に見たという現実をなぞり辿ろうとする模倣、それは模倣、真似事である。それに因って彼の、覚めやらぬ夢幻のそれが現に行われているとされる現実というものは今、秘密裏に汚されてしまっているのである。

「大ヘイくん、やったんじゃない」

 ニッケリが言った。くしゃくしゃと笑っている。

「そうなの」

「違うよ」

 大ヘイはかぶりを振った。良ツは真実を突き止めようとする眼で眼差して、そのまま大ヘイへの視線を外されない。だが、それも見ていて判るというものでもないのだ。

「でも、変じゃない」

「嘘だって」

「そう」

「じゃあ、良ちゃんの言ったことも嘘だったの」

「嘘じゃないよ」

 良ツは、膨らんだ風船のように成って言った。ふいに触れさせたくはなくなった痛ましいものへと早速に触れて来た野蛮な指をそうしてはね除けるような彼の心境だった。

「そうでしょ。だから俺は良ちゃんは嘘を言っていないって、これを見て信じる気になったんだ。だってカエルは死んでたのに今はいない。それならきっと何か、謎みたいなことが本当にあるってことだよ」

 良ツは未だ納得しかねるような気をさせて居ながらしかし大ヘイの言うそのこと自体は当然気に入って居た。何故なら大ヘイは良ツの現実を汚そうとしていたのではなかったのだと、これで判ったからである。それどころか反って彼は、彼の手を良ツの心の助けとして差し伸べるようなことを今、言ってくれて居るのだ。

 そうとまで思われると俄然、消えかけていた現実の不思議への、豊かな意欲がまた良ツの内を復活して来た。続々と彼には思い、感じるということの力が、活発な作用をし始めた。

「これは第二の事実だね。僕はまだ知らなかった」

「どういうこと」

「第一の事実は僕が夜に見たことじゃん。これが第二の事実だよ。雨の水の中にある悪いものがカエルを殺して、しかも生き返らせたんだ」

「どうして」

 ニッケリは何でも訊いた。しかし、答えられぬものはどうしても答えられるものではない。だから良ツは暗い表情をさせて、わからない、と言うより他にない。すると、そんな思い憂うような顔付きが思いがけずニッケリをはしゃがせた。彼はまたふいに華やいで笑い始めるのだった。まるで良ツが火曜サスペンスや漫画によく出て来る探偵であるかのように、ニッケリには感じられたのだからだ。

 そうして良ツ自身も自らへ、そのような探偵に特有の閃きというものをこの瞬間おでこに走らせた。

 びかびか、とする。

 彼は胸を、その閃きに伴って来る動揺に圧し押されたようにして、

「タマ王くん」

 と一言だけ、した。ぽつん、と吹き出して来たその言葉に、大ヘイは小さな眼を見開かした。彼は急に飢えたようになって、

「それがどうしたの」

 ニッケリもまた、

「えっ、え」

 しかし良ツの口から次いで飛び出して来るはずであるものが、どのようなものであるものなのか、大方の察しということは既に二人にも付いて居ただろう。ニッケリは未だ良ツの何をか言い出すその前から、早くも打たれている硬直をずぶ濡れた彼の全身へとさせて居るのだ。

「タマ王くんは死んでいる。だけど生きているんだ。カエルみたいに、きっと悪い水のせいで」

 良ツは言った。

 三人の脳裏に焼き付いてしまって居た走り去る母子二人の、また今度は猛然と、何故だかこちらへ向かって走り寄って来ているという気のするその再現の姿が、もう既に彼らの目前へまで迫った。

 何時までも迫り来ようとするままであるそれは三人を脅かしているクライマックスなのであり続けた。

 そうした呪縛のような恐怖の下に彼らは沈黙を強いられて居る。その沈黙の切れ目ない数々だけ降り注いで来る雨粒は彼らを濡れそぼらせる無数の点点であった。

本当に、あれって何なん?眼の病気かね?

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