その一
思い出とは常にあの時に有ったはずのそれ自体ではない。夢や創作の原点とは常にこのことなのだと思う。なるべく、自分の生きた、血肉の名残から物語を立ち上げるので在りたいものだ。
確かに以下の小説もその為に顕れたものである。
楽しんで読まれるものかどうか、判らないが、子どもの大人への理解のなさという当たり前のことが反って大人の側にも当て嵌まる、という示唆をこの作品に持たすことの出来たのであれば、一応、僕の目論見はそれで達成をされたのだということになるだろう。
雨の行き去った空は未だ灰色にふくれていた。更にもう一降りは必ずありそうだという一帯の先に、行き去った雨はまた新たな場所を頻りに降り注いだ。
町ダ良ツは悪い予感を的中させようとしていた。若しくは彼は、悪い予感はぜったいに的中をするのだと、幼い彼自身に信じ込ませていた。激しく降った雨のあとに、必ず昨夜のあいつが何処からか、不吉な徴のようにしてその丸い形をぼっと浮かび上がらせて来るのに違いない。良ツはそのようなことを思いまた、そのようなことを信じ込んでいた。
「座ってんの、疲れた」
「いつなの」
「まだわからない」
「本当に出るの」
出る、と良ツは確信していて、だから彼らへ出るんだと、再三念を押していた。
四人は寂れた社宅の駐車場にて円を描いて座っている。朝の八時だった。
現在雨は日曜の朝の八時に隣街を降る雨である。
未だ乾かぬ路上に雨水の浅い溜まりは、それらの今あるよりももっと低いところを流れて行こうとしている。
重力の為にだ。
しかし、良ツは見逃すつもりはない。雨水の、放っておけば低いところを流れ落ちて行くばかりであるはずのそれというものは、ある時に、ふいな逆流をし始める。彼は幼いながらにそう断言の出来る。雨上がりに地上を反り立つような不思議な雨水の姿を、彼は昨晩見たのであるからだ。
良ツの眼は皿になった。が、それでは直ちにそれとあいつに、きっと知られてしまうのだ。そうと思うと彼はすかさずに今度は頭を下げやった。まるで銃を片手に敵対組織のオフィスへと忍んでいる、スパイ映画の潜入捜査官か何かのように。
ニッケリはそんな空想にまみれた良ツを見た。途端、彼の、なになに、とやおらにはしゃぎ立てる笑みはそれで弾けた。長いニッケリの睫毛は、肉の潰れた目元を黒く覆った。
「しずかにして」
良ツは言う。だがニッケリは、なんかあるんだ、見つけたんだ、と鼻の詰まった声で良ツに対して言う。そうして更にもっと賑やかにはしゃぎ出している。彼の罪のない笑みのその罪のなさの故にこそ腹立たしく思われて来る良ツだった。
「しずかにしろよ」
良ツは居丈高にそう言って、俄にニッケリを怖がらせた。しかし、だってさ、と興奮の止むに止まれぬニッケリのことをピコは追い打ちするように、
「お前おしりつけてんの、なんで」
と言った。
するとニッケリは黙った。ニッケリは、鋭く彼へ当たって来るピコのことが苦手で仕方がなかった。もう彼はピコにも怯えてしまって居る。良ツはそんな彼の様子を見ては、やはり先まで満面であった彼の罪のない笑みのその罪のなさの故にこそ、ニッケリは皆に柔らかく許されて居なければならないのだともまた逆さまに思われて来た。
「ズボンが濡れちゃうよ」
大ヘイは、助言を与えてやりたい心をしてニッケリへとそうやって言うのだ。
「でも、もうすぐ乾くじゃんか」
「なにが」
「地面が。地面がもうすぐ乾くでしょ」
ニッケリがそのようなことを言うと辺りは静まり返った。そうして俄に平板でとてつもなく長く高い声が突き上がった。声はそれを一斉にして上げやる三人の子どもら自体をひょいと上へと引っ張り上げた。
今、ニッケリを見下ろしている三人は、空へ仰け反り仰ぐレゴブロックのようにして円形を開かせている喧しい花弁と成って居る。
ピコが指を指して何か言う。良ツも大ヘイもが口を揃えて何をか言っている。しかしながら三人は結局のところ何ごとも言い得て居はしない。ニッケリの言ったことはとにかく何かがやたらとおかしいようだが、それが一体どうしてどのようにしておかしいのであるのかを、三人は上手く言葉にすることの出来なかったのだ。
ふいに音が鳴り始めた。良ツはどきっとして遠くから鳴って来る音の方を見た。
社宅沿いの道路の向こうから、駆けて来る二つのでこぼこした姿が彼には見えた。
(うっ)
良ツは思わず指を指した。
駆けて来るものは木ウラの母と息子。
五分刈りの髪をした息子の額が膨張している。
それは青々とした鬱血のチアノーゼ、透明な水風船のようにその中身の青い血を走ると共に揺すぶって転がしているようなワイングラスの瘤だった。
いつもふてぶてしい面付きで無口な木ウラの息子は今は、母の手に引かれて走る危急の様に、ふてぶてしい面をそのまま、小さな眼に未だ溜まる一方の涙でその頬をしとどに濡らしていた。
「ああ、ああ、ああ」
我が身の走り、共に彼を走らせる母の息の急いて上ずった様は、少年たちを忽ちに沈黙させた。
そうして走るのである姿は、四人の子どもらの視線を凧の糸のように引き張った。
それだから四人の子どもらの恐怖心は、凧のように引かれ揚がった。
しかし彼らの小さな身体はと言えば、反ってその場に深く沈み込ませてしまいたいというほどに、更に小さく縮こまった。
先を急ぐ余りに幼い足もやっとで母には追随し切られぬその辿々しさにも、気の急いて道を行く母の心を止められはしない。
そうしてちぐはぐな二人の姿は子どもらの目前を通り過ぎ、見えなくなり、やがてはその慌ただしい足音も聴こえなくなった。
「すごい」
呆気にとられた大ヘイが、呟いてそう言った。今まさに彼の眼にしているもののとても信じられぬという気持ちのままに、大ヘイはそう呟いた。ピコは、うへっ、と息を漏らすばかりで、眼にしたものをそうして眼にすべきでは無かったという後悔に引きずり込まれた。彼は彼の頭が、地面へごろりと落ちかけるような気がした。
一目散に走って行った母子は、彼らの円形を過るその際にも決して振り向かなかった。ただにひた走りをする上、息の喘ぎに紛らせて、母は、ああ、ああ、と嘆かれている悲痛の独白をしていた。
木ウラタマ王はまるで膿で塗った人形であるかのようだった。彼は人形のように、自ら走るのではない、走らされているように彼らには見えた。
一過した雨の後にまた垂れ込めて来た雲は次第に分厚くなった。社宅の駐車場一帯は空から圧迫をされて彼らには息苦しかった。
「ねえ、あれって生きてるのかな」
ニッケリは言った。しかし、誰にも何もこれに返しては言われなかった。あれ、とはもちろん木ウラの男の子のことだった。彼を指して、あれ、としか言われないニッケリの感覚的の理解は、彼らの気持ちの上で他の三人にも判ることだった。しかし、あれ、が生きているのかどうか、は、誰一人として確かな答えの判ることではなかった。
細やかに背へと触れて来る、幽霊のような不気味の空気に彼らは支配をされていた。彼らは、木ウラタマ王が生きているというそのことを、上手くは信じられないという気持ちで居た。だけれど、
「でも歩いてたよね」
「いや、走ってたんだ」
「生きてるから走ってたんだよ」
「あんなになっても、人って生きてるの」
ニッケリのぼそぼそとする嗄れた声が、三人の胸の底部へと差し出されて来た。
あんなになっても、人は生きていられるのか。歩いてた、いや走っていたんだ、死んでいるなら走ることも歩くこともないだろう、それだからあんなになったって、人は生きているのである、そうだ、ピコは、生きてるに決まってる、とぴしゃりと言って、ニッケリを拒んだ。ニッケリが木ウラの子を死んでいるとつい感じてしまったそのことをピコは拒んだ。もし彼がそれを受け入れたのならば死んでいるものが母に拠って走らされているということに事態は成ってしまうのだからだ。
社宅の階段からゾウが降りて来て良ツたちを見つけた。かつてゾウ家は不用となったアコーディオンを町ダ家へとくれたのだった。良ツは、ゾウくん、と呟いたが、家と家との付き合いのほどにはゾウと彼との仲は進んでいない。ゾウはただこくりと頷いて降りて来たばかりの階段をまた音も無く静かに上って行った。
「あれ、大ヘイは」
ピコは言った。
大ヘイとはふいに居なくなるものである。
すると良ツは忽ちにピンと来た。彼は、ぜったいに早く彼を見つけ出さなければ、という意志を俄に燃え上がらせた。この駐車場をブロック塀で隔てた空き地のその先に、大ヘイの居るような気の良ツにはする。彼は立ち上がると、急がなくちゃ、と一人言った。それから一人彼はもう既に空き地を目指して走り出して居る。
ピコは怪訝そうだった。そうして彼の渋々と立ち上がって行くよりも先に、良ツのその燃え方からぼっと充てられたニッケリが、そうだそうだ、さがそうさがそう、と賑やかな追随をして行った。
空き地では、ナナ瀬の妹と彼女の友達とがたんぽぽを摘んでいた。三人はそこを突っ切ろうとして怒られた。
「お花を踏まないで」
気の強い少女が、ピコへ挑みかかるようにして言った。三人はにやにやとしながら、謝りもしないでそのまま彼女らを窺った。するとその少女は急に堪えかねて、お母さんに言う、と泣き出しそうになった。
慌てたのは良ツだった。反感から今にも怒り出しそうなのはピコだった。ニッケリはナナ瀬の妹の傍にしゃがみ込むと、うふふ、と笑いながらたんぽぽを指で爪弾いていた。
「これ摘んで、どうするの」
「ご近所さんに配る」
「どうやって」
「みんなポストに入れるんだよ」
そう言うと少女は摘み立てのたんぽぽを良ツの前で手のひらに広げてみせた。
「わあ、きれいだね」
彼女はただその一言の余りに機嫌を取り戻し、いっしょに配ろ、と三人を誘った。その暇が無いというのが燃え上がっている良ツの意志であり、使命感なのだった。彼は一先ずそれを断ってしまうと、大ヘイを見なかったかと彼女へと訊ねた。
「大ヘイくんは、あっちへ行ったよ」
答えたのはナナ瀬の妹だった。指し示す指先は方々に生え育った薄い金色の茂みに向けられた。するとニッケリは、ぶるぶると震えながら立ち上がり、探検だ、と言った。その時、くしゃりと相好の崩れた顔が初々しい皺にまみれて見物であった。
良ツは大人に成った時にもこの表情のことを決して忘れ去ってはしまわれずに、ふと思い出すのである。
思い出す時には、彼の色鮮やかな笑みのただ一色に伴って、そうと見える茂みの金色の照り返しているような燦然たる輝きをも、だった。
しかし、そうして思い描かれる画に拠って晴れ空の下に在るとされたその光景は、記憶に拠って掘り起こされる事実の下に於いて偽りなのである。
当時は曇り空。群雲の分厚さが太陽光を遮断している空に群れ為するそれらは一体となって全面にひしめき合って居た。
まるで、空は積雪に白く、引っくり返った山脈のようだった。その空のことも良ツは忘れ去られない。
「きみらも、気を付けるんだよ。帰ったほうが良いよ」
良ツはそこで思い出したかのように少女らへと忠告した。彼の真剣そのものといった表情が如何にも相応しくない年頃の良ツである。たんぽぽの子は良ツをまじまじと見ると、なんで、と不服そうに訊ねたが、良ツはそれに答えることをしなかった。代わりに彼は、帰っちゃいなね、と念を押して彼女へ言うと、茂みへ突入して行こうとした。
ピコは見るからに気の進まない様子であった。ニッケリは全身の飛び跳ねてしまわれそうな躍動を胸へしまい込んで居りながら、ただ良ツが次に何をするものかを期待して待つばかりであった。
茂みとは、合して茂みと成する草の荒っぽいユニゾンコーラスである。これの奥を人跡から秘したる背の低い木々は、それらの懐を暗く沈ませながら在る。
冷え冷えとした底だ。あそこを目指すのであろう。
良ツは、ぶんぶん、と言い始めた。そうして掻き分けて行く腕を一振りの刃物のように回転させた。生え衰えて乾いた草の束が、する度、反れる身をまた反して戻って来るのが鬱陶しい。良ツは、踏みつける為に足も振り上げた。彼は先ず高くを踏もうとしてそれが上手く行かれないのをニ、三は繰り返し、すると、下の方からだ、と思ったピコが茂みの根をぎゅうぎゅうに踏み潰している、それを見ては良ツもまた倣ってそうして、事も次第に彼らは茂みへと入り込んで行く。ピコは楽しくなって来た。思っていたよりも大変そうに思われたニッケリは、途端に萎ませていた心をままに、ああ、と薄らぼけた声を漏らした。
ああ。
彼はそれで知らせたつもりだった。
「なにしてるの」
後ろから大ヘイが声を掛けた。
「あれ、いたの」
「いるじゃん」
「なにしてたの」
「ええ」
なにしてたの、と言われても妙に何をしていたものかを言い出しかねている大ヘイだった。と、後ろからたんぽぽの子がぱかんと喉奥の開き切ったような快活な声で言った。
「あのね、この人、さっきここで、おしっこしてたんだよ」
わっ、となって茂みより真っ先に抜け出したのはピコだった。が、より大きな声を出して、うわぁ、と茂みを荒ぶらせながら飛び出して来たのは良ツであった。
その時、良ツ自身がまるで慌てふめく茂みそのものなのであるかのように、全体を激しく揺動せしめたその為に、見ていたニッケリはもっと沢山の小さな人がそこから無数に飛び出して来るような気持ちがふいにして、思わずびくっとした。
「きったなーい」
少女は鼻を摘まんでそう言うのだ。大ヘイは、ごめん、と言って、そう言ってしまうと後は少女に釣られて笑い始めた。
笑ってんじゃないよ、とひくついて居ながら言うピコは汚さというものへ対する心底からの実感のようなものを覚えた。全ての汚れが彼へと今にも駆け上がって来ているような気のピコにはした。身体全部でじたばたとさえしたくなる。
そうして彼は空き地の脇へと歩み寄ると、そこの土の窪みに出来た水溜まりへスニーカーを少し浸した。
大ヘイのおしっこが付いていたのだとしても、良ツはそれを洗い流すのには土に含まれた水でだけでも充分だと思わないでもなかったのだ。だがそうしたピコの、神経症的な、潔癖そうな振る舞いの内にやや、彼の未だそれとは知れぬような大人らしさ、大人ならではに正しそうな振る舞いというものを見たような気がし出して、それなら、と良ツはピコに倣って彼へと引き続こうとしたのである。
その時だった。
わあっ、と先の良ツに負けず劣らず、ピコの声の張り上がった。
それから良ツらの見るピコの背中が折れ曲がったままひどく硬直をしていた。
ピコは何かを見つけたらしい、見つけたものを決して見逃すまいとして集中しているのであろうか、全く微動だにすることの無い。
すると良ツにはピンと来た。水がいよいよ動き出す。水がピコのことを渦中に引きずり込んでしまう。それで彼は死んでしまう。
そのような観念的の危機感が、彼を圧倒した。或いはそのような観念的の危機感を以て彼は、彼以外の夥しい世界を圧倒しようとした。
(あぶない)
良ツは一息に駆け出した。そうして辿り着くなり水色と白色のボーダー柄をしたピコのポロシャツを両手でぐっと掴んだ。
大丈夫かぁっ。
ピコはもの言わぬ。
「大丈夫かっ」
と良ツは再び、声高に言うのだった。
しかしそれでも動かぬのだからピコの視線を彼は後ろからなぞりたいように追おうとしてみる。すると、水溜まりの内に見たこともない大きさの蛙が泳いでいるのを良ツも発見した。
それは信じがたい大きさをしていた。
水の中で足掻いている醜い肉の塊である。
どうも良ツにはその蛙が、木ウラの額に出来ていたあの痛々しい膨らみのようにも見えた。それがいつの間にやら引き剥がれてしまい、今はこうして水溜まりに浸って、あまつさえまるで生き物であるかのようにそこを水泳しているのだ。
「なんだこいつ」
「うげぇ」
「それはヒキガエルだよ」
大ヘイが言ったのである。
良ツは、ふとした時に披露せられる大ヘイの、子どもながらに落ち着き払ったその博識ぶりに、このとき仄かな嫉妬を覚えた。すると彼は何やらがらんどうな自身の内から埃をすら精一杯かき集めるような苦労を秘密裏にして、いや、これはトノサマガエルなんじゃないか、と言い出した。
カエルが大きい、大きいは偉い、偉いは殿様だ、だからこの大きなカエルはトノサマガエルだ、というような思弁が実に、彼の知る限りを唯一つの正答とする乱暴さで行われたのである。
「いや、トノサマガエルはもっと小さいよ。もしかしたらウシガエルかもしれない。でもきっとヒキガエルだね」
「なんで」
「生き物図鑑にそう書いてあったよ」
大ヘイのそれから彼の知っている蛙の名をいくつか追い打ちかけて来るその披露に良ツは覚えていたはずの嫉妬も忘れて、うん、うん、とよそよそしい相槌を打っていた。
たんぽぽの少女は、そうしたいたいけな様に目敏かった。
彼女はその内心に謂わば膨張を来した。
彼女は一見とぼとぼしく彼らの集いに寄って来ると、わあ大ヘイくんはすごく物知りだね、すごいんだね、と彼の方への称賛を送るその一方で、良ツの方へとは、その称賛を以て心へちくりと刺してやる棘と為するつもりでそう言い放った。
良ツは無表情では居たかった。しかし少し尖らせた唇の形に彼はうっかりと寂しさを湛えた。従ってその唇を盗み見るたんぽぽの少女のことを、良ツはそれで充分に満足させてしまった。
ピコは棒切れを持ち出して、カエルを先端で突っついていた。その表情は醜悪を見て取ることで感覚のされるおぞましさの虜であった。また一方、ニッケリも突っつき始めるその手に青色のハンガーを持っていた。恐らくコーワセイコー社宅のベランダから吹き飛んで来たものであろう。それは幾日かの野晒しを経て、ひび割れた土の色に汚れていた。
「ねえ、カエルをいじめないで」
四人が水溜まりに沿い、半円を描いているところ、またぞろたんぽぽの少女が口を出して来た。
もう辛抱ならないと思われたのはピコだった。だが、もう辛抱ならないと思われたのは良ツもだった。
「うるさい」
そう言うと良ツは少女の肩を押しやった。すると少女は忽ちに泣き出した。まるで滂沱に注ぎ落ちて行く滝にその小さな身体を打たせているかのように、たんぽぽの少女は悉く泣くということをして声を張り上げ続けた。
「うるさいよ」
良ツは既にきっとさせた怒りをもう彼の心からは去らしめた。今彼にあるものは、後悔と事態収拾の為に為し得よう対策とばかりであった。だが、それでも少女へと謝ることなどは自ら省みてもその理由があるなどとは決して思われない彼であるのだから、その言葉は如何にしても少女を泣き止ますほどには有効なものとは成り得ない乏しさの内に空転をし続けた。
「あれぇ」
「えっえ」
「わっ、どうして」
すると、彼の背後からそうした驚きの声が沸き立って来た。
振り向いた良ツが見たものは水溜まりに浮いている大きな蛙であった。それであるのなら先と何事も変わらぬという地面を彼は見たのだ。しかし、事実はそうでない。事実、良ツや彼らの見たものは、浮いている蛙がひっくり返って浮いている、しかも、恰かもその蛙の口から生え育ったかのようなあらゆる色の臓物のぺろりと飛び出している、というその姿を、だった。
「えっ、なんでだ」
一際、ニッケリのそう言う声が、謎めいているこの事情を囁きの下に代弁した。ピコの黙って見下ろしている眼差しは、小さくも酷たらしいのであるこの非情な現実に突き掛かられて、ひどく恐れ戦いていた。大ヘイに聞いても何も判りはしないだろう。カエルへと見舞い得るこのような事態に就いて、生き物図鑑には記述のされてなどはいないのだからだ。
良ツは、これだよ、と言った。
「何がこれなの」
ニッケリが問うた。これと言えばもうこれ以外にあるはずがないじゃないか、とそういうもどかしさに顔をしかめながら良ツは、
「悪い水がいるんだ」
と言った。悪い水が、居る、んだ。おや、しかし、もしかしたら悪い水は、在る、ものなのかもしれない。いやだけれど、と良ツは記憶の内の一等席へと出没をさせたままのあのおぞましい姿を改めて想起せしめた。
そいつは。そいつは、居る、のである。
それならばやはり悪い水は、居る、で彼にとってはそれで良いのである。
「あっ、カエルを殺したっ」
泣き叫んでいた少女は泣き叫ぶことに飽いてしまったかのようして泣き止んで居た。そうして、水溜まりを指差しながら彼女は更に続けた。カエルを殺した、この人たち、カエルを殺したんだ。
その眼のらんらんと光る丸っこい模様に、取り憑いている何ものかの有るような興奮がはち切れんばかりだった。
「ああ、カエルを殺した、カエルを殺した。あんたたち、カエル殺しだ」
「うるさいな」
「悪い、悪い人たちだ」
「おい」
「うるせぇなって」
この度、急速に詰め寄って行ったのはピコだった。すると良ツでは好き放題に泣き叫んでみせていた少女の顔がまた別の色を見せ始めた。その色の下に俯いて、たんぽぽの少女は黙りこくった。やがて彼女は赤面して行った。ピコも押し黙ったままだった。
果たして、少しの間をおき、やがてナナ瀬の妹が、
「エム香ちゃん、おうち行こ」
と細々と言った。行こ、と答えたたんぽぽの少女は忽ちに後ろを振り向いた。それからまた先の忽ちのほどに素早く四人の方を振り向き直ると、
「大ヘイくん、ばいばい」
と如何にも取り繕った快活さをして彼女は言った。少女は恰かも大ヘイには思うところのないということを伝えたいかのようにしてそう言ったのだった。
良ツはふいに憎たらしい気持ちになった。彼の彼女へ憎たらしく思うその気持ちはふんだんである。彼は悪い水の邪悪を発見した者であった。が、今は悪い少女の邪悪をも発見していた。そうして彼は邪悪からは人を守らねばならないのだし、その為にも邪悪は打ち倒されねばならないのだともまた信じている。
見ると、摘んだままに放られたいくつものたんぽぽが空き地の土肌に力のなく寝そべって在った。良ツはそれを指差ししながら、おい、と少女に声をかけた。
「これは良いのかよ」
良ツは言った。
「はあ」
「やるんじゃなかったのかよ」
「なにぃ」
「ご近所さんに配るんじゃなかったのかよ」
「はあ。何言ってんの」
「おい」
自分の喉へ噛み付いているかのようにがなり立てるその声は、がなりとして成功したのである。しかし少女の言うように、自分でさえ何を言わんとしているものかのまるで判らぬというようなその内容は、内容として敗退していたのである。とにかく良ツは何だって良い、あいつを攻め立てられるものならば何であっても、という洗い出しで乱暴に摘まみ上げたものを戦わせようとしたのだからこれは仕方がない。それに一度、正しいのだと信じて突き出してみたそれが相手を攻め立て得る彼の唯一の根拠となっていたのだとすれば、それをおかしいのであるからといって取り止めてしまうのでは彼自身彼女へと立ち向かわせて行く意義のその大方を手元から滑り落としてしまうことになるだろう。つまり彼は結局は自らに有るとしたい怒りの正当性を選ぶその上で選ぶものをつい間違えてしまったのだと今そう痛感をしているところなのである。そうして間違えたは間違えたのにもせよ彼の根本にそれこそ真の根拠として有る怒りまでもがそれで消えてくれるという訳では勿論なかったのだから、従って、彼はもっと単純でわざわざと自己正当化をしないでも済み、しかし相手へとはその効果を必ず発するであろうという攻撃方法への転換をせざるを得なくなっていたのだった。つまり良ツは、
「ブスッ」
と叫んだ。するとそれまで黙っていたピコもが一緒になって、
「ブスブス」
とやり始めた。良ツは味方を得て心強くなると同時に、その為に楽しくもなって来た。
こうなると楽しいことの大好きなニッケリがこの催しへと参画をせぬはずがない。そうして三人は、ばっと前へと踊り出ながら、
「ブスブスブス」
と思い思いにちゃちな悪意の一斉贈呈をし始めるのだ。
「お母さんに言う。ぜったいに言ってやる」
ブスとは、その容姿を醜いとする侮蔑の言葉であるのだと、皆何処でそれを知ったものかも知れぬことだが、嘲る方は元よりそうして嘲りせられる少女の方も当然それを知っていた。
お母さんに言う。
立場の悪くなる一方である良ツは、向こうの返すその言葉の聞こえて来るなり直ちに自分の立場の悪くなって居るというそのことを益々と実感し出すのである。すると彼の気分は見る間もなく鬱ぎ込んで来た。丁度今、柔らかな華やぎである少女らの去って行った地上に覆い被さるような雨雲の垂れ込みが、再びその巨大な図体の裏に太陽を隠して彼らの一帯を今しも陰らせているように。
良ツはぽよぽよと、前方へ引き延びた道路に遠ざかって行く少女らを、無性に追い掛けたくなった。そうして彼女らを思い止まらせたいという焦りを覚えてならなかった。しかし先ずニッケリも、ピコでさえもう、去って行くものへの興味などは既に失ってしまって居た。彼らは詰まるところ、蛙の突然死にだけに集中する彼らの気をそこへ当然及ばしたいのであるから、実際にそうしている。
あぁあ、と言って消えてしまった命を惜しむのでも儚むのでもない落胆は、その亡骸を突いて弄ぶニッケリの口から漏れ出でた。
「やめろよ、かわいそうだ」
良ツは言った。そのように言って救われたい自らを、現に彼は救っているその真っ最中である。
「だってもう死んでるよ」
「死んでたって、そんなふうにしたら、かわいそうだろ」
良ツは殊更にニッケリへとは厳しく当たって言うのだった。ニッケリがそうすれば黙るのだと彼は知り抜いているのだからだった。
またそうして失われてしまった生命をそれでもそれを死とはし切れずに尊ぶような心が自らの内に在るということを、今こそ彼自身知っておきたいのだというその時である。その時に引き摺り当てたものとて、確かな正当性を自らへ与えるのにニッケリを黙らせてしまうことほど、良ツにとって有用となる弾みはないのだった。
ピコの時に彼へと見せる故ないようにも思われる怒りはしかし、実際はそのような故に見せねばならぬという怒りであったろう。ピコは良ツの時折に露呈をさせるそうした横暴さに人一倍勘づくのである。しかし、彼はこの時は黙ったままで、誰も触れて居はせぬそこに浮浪をしている蛙の死骸へ、再来する雨の最初の一粒がぷつんと落ちかかるのをただ見ていたのだった。
続きます。無論のこと。