6.失礼な女
「ジェラルドはいつ帰ってくるのかしら。ジェラルドがいないと、屋敷の中が暗くなったような気がするわ」
アンヌは使用人の食堂でウダウダしている。最初は止められたが、「ひとりで寂しくて泣いちゃいそう」と言ったら、入れてくれた。本当に涙がこぼれたのがよかったのだろう。
「奥様は、本当に旦那様がお好きですねえ」
使用人たちは呆れたようにアンヌを見る。
「だって、あの人、かわいいじゃない。たまにね、犬を運んでくるでしょう。そのときのうろたえた様子がいいのよねえ。あ、もちろんすぐに隠れて、こっそり見てるから。ジェラルドは私が見てるって知らないのよ」
「こじれてますねえ」
皆が同情の目でアンヌを見る。
「いつもは無表情で、なんでも卒なくこなすでしょう。でも、動物の扱いは慣れてないから。すごくワタワタするの。色んなものひっくり返しちゃったり。猫にすり寄られて硬直しちゃったり」
アンヌは思い出して、ムフフと笑う。
「旦那様は、好意を見せられることに慣れていらっしゃいませんから」
「そういうとこ、不器用でいいのよねえ。早く、私に心を開いてくれないかしら。手紙は読んでくれたのかしら」
「とっくに読んでいらっしゃいますよ。律儀なお方ですから。きっと、奥様の気持ちを受け止めてくださいますよ」
使用人たちは、勇気づけるようにアンヌに笑いかける。
じりじりとジェラルドの帰りを待ちわびているときに、ちょっとした事件が起こった。屋敷から出て、犬猫の家に向かっていると、高級そうな馬車がアンヌの前で止まったのだ。
「え、まさか誘拐?」
アンヌは息を深く吸って、叫ぶ準備をした。そう簡単にさらえると思うなよ。
「あーれー」
「誘拐ではありません」
慌てた声が馬車の窓から降ってきた。
アンヌは口を閉じた。が、油断はせず、鼻から息を吸う。いつでも叫べるように準備だ。
「ジェラルド様のことでお話が」
窓から、かわいらしい令嬢が少し顔をのぞかせる。
「なんでしょう?」
アンヌは用心深く聞き返す。
「ここではなんですから、わたくしの屋敷でお話させてください。さあ、どうぞお乗りください」
「いやー、それはちょっと」
知らない人の馬車に乗ってはいけない。子どもだって知っている。どこに売り飛ばされるか分からないではないか。
「近くにおいしいパン屋があります。そこにしましょう。中で飲食できるんですよ」
令嬢は困っているようだが、アンヌは返事を待たずにさっさと歩き出した。馬車はノロノロとアンヌの後ろをついてくる。
アンヌは険しい顔でパン屋の扉を開けた。
「奥の個室を使わせてください」
アンヌは他人行儀な顔で、母に声をかけた。母は接客用の笑顔を貼りつけると、奥の部屋を開けてくれた。滅多に使われない、賓客用の個室だ。たまに、貴族のお忍びデートで使われるらしい。
令嬢は戸惑った様子で入ってきた。
「今日のオススメをふたつ、お願いします」
アンヌはさっさとふたり分の注文を済ませた。どうせこんなお嬢さん、平民のパン屋で何を頼めばいいかなんて、分かるはずがないもの。
「それで、ジェラルドのことでなんでしょう? まさか、ジェラルドの子どもができたなんてことは……」
ないと信じたいが、最悪の可能性から切り出した。ちょうどよく、母が今日のオススメを運んできた。母は顔色も変えずに、お皿と紅茶を置く。
「本日のオススメ、燻製鮭とクリームチーズのバゲットでございます」
貴族のお嬢さんは絶対食べないであろうものが出てきた。よしっ、お嬢さんの分は持ち帰ろう。
アンヌはバゲットを少し押しつぶすようにして口に運ぶ。どうやってもお上品には食べられないシロモノだ。案の定、お嬢さんは手をつけない。
「子どもなんて、もちろんできていません」
お嬢さんは、アンヌに顔を少し近づけささやく。
「よかった。では、どんなご用件ですか」
最悪の事態は免れそうなので、アンヌは落ち着いてバゲットを味わう。塩気のきいた燻製鮭と、濃厚なクリームチーズ。最高の組み合わせである。
「あの、失礼ですけど、いつジェラルド様と離縁されますか?」
「まあ、本当に失礼だわ。離縁なんてしません」
アンヌは怒りで手足が冷たくなるのを感じた。平民だからって、バカにしてる。
「困るわ。だって、本来なら次はわたくしだったのですわ。なぜだかあなたに先を越されてしまって。もう、お金がないのよ」
「んまあ。信じられないぐらい失礼だわ。ジェラルドのこと、なんだと思っているのかしら。ジェラルドが優しいからって、つけ上がりすぎよ。ジェラルドと、金目当てで結婚しようだなんて」
アンヌの手から、パラパラとバゲットのかけらが落ちる。
「あら、あなただってそうでしょう? 借金がおありになるとか」
「我が家の借金は、家族で返済します。ジェラルドには一切頼みません」
「まあ」
お嬢さんは口を開けて、間抜けな顔をしている。
「お話が以上でしたら、私、もう失礼します。用事がありますから」
アンヌは食べかけのバゲットをハンカチに包むと、ツンッとしながら部屋を出た。売り場には、母と、素知らぬ顔をした姉がいる。アンヌは母に、バゲットの包みを見せながら、バゲットと口を動かして伝えると、外に出た。
ぐるーりと通りを歩き、元に戻って、パン屋の様子をうかがう。馬車はもういないようだ。
アンヌがパン屋に入ると、待ち構えていた母と姉に、さっきの個室に押し込まれる。母が、お嬢さんが残したバゲットを紙に包んで渡してくれた。
「お代はあの人が払ったわ」
「当たり前よ。もっと高いの注文すればよかった」
「これが、最高値よ」
母がしれっと言う。母はちゃっかりしているのだ。
「聞いてたわよね」
「もちろんよ」
母と姉は頷く。パン屋で働く女性たちは、みんなウワサ話が大好きだ。個室の壁には小さな穴が開いていて、会話は従業員室に筒抜けなのだ。
「どう思う?」
「あなたが心配する必要はないわ。ジェラルドが帰ってくるのを待ちなさい。そして、子どもを作るのよ。あなたたちが本当に愛し合ってるって分かれば、バカな女はいなくなるわ」
母がアンヌの肩を抱いて、軽く揺さぶる。
「いつ帰ってくるって?」
「もうそろそろだと思うんだけど」
「楽しみね。がんばるのよ」
姉はアンヌの頭を撫でた。
「クソったれ」
アンヌは、外では決して言えない言葉を吐くと、猛然と食べかけのバゲットにかぶりつく。母と姉は黙って、アンヌが食べ終わるまでつきあってくれた。
犬と猫の世話をしてから屋敷に戻り、使用人たちに愚痴をこぼしまくった。皆、いつまでもアンヌのグチグチに耳を傾けてくれた。