未来への約束
「いつか、一緒に海に行こう」
そう九条新が言ったのは、六月十六日のまだ初夏のことだった。
「海?」
「そう。行くならやっぱり今くらいの季節がいいな。八月じゃ暑すぎるし、人が多そうだ」
私の疑問をよそに新は勝手に話を進めていってしまう。
「どうしてまた海なの?」
「だって、美咲は行ったことないんだろ?」
「新はあるの?」
「うん。小さい頃だけど家族で行ったんだ。東京だし、そんなに綺麗な海の色じゃなかったけど、やっぱり流れてくる波の音とか海に入った時の湿った塩っぽい感じとかはプールとは違っていて面白かったよ」
私は生まれてから一度も海に行ったことがない。
テレビや本の中でしか見たことのない青い海。
夏には多くの人が押し寄せる雄大な海は、生命力の象徴のようで実はあまり好きではなかった。力強い海を前にすると自分の欠陥が浮き彫りになりそうな気がして、つい一歩引いてしまう。それでも新に言われると、なんだかとても良いもののように感じられるから不思議だ。
「そうなんだ。でも私はここからは出られないわ」
「そうなのか?」
「うん…新はもう少しで出られるかもね」
「……」
高校生同士のなんてことのない約束。夏に海へ遊びに行く。世間ではわりとよくある、ありふれた約束なんだろう。けれど、それは私達には当てはまらない。当てはまるどころか、いつまで生きられるのかも分からない。こんな体で海どころか外へも滅多に出ることができない、長期入院患者の私達には。
新に初めて会ったのは、三年前の春だった。
ちょうど桜が咲く季節。
定期的にある診察を終えて、時間が有り余っていた私はフラフラと病院の中を歩いていた。こんな病院の中でも窓から外を覗けば、中庭や道路の端に植えられた数本の桜が今を盛かりと咲き誇っているのが見える。実際、歩いている途中で桜が咲いているのが何回か見えた気がしたけれど、私の目には満開の桜も青い空も何も映ってはいなかった。目には入っていてもそれに割く心の余裕なんてない。目的もなくただ歩いていると、嫌でもさっきの担当医との話を思い出す。仕事で忙しい両親は頻繁に病院へは来られず、私は一人で診察を受けていた。
「うん。少し数値が不安定だけど、他は変わりなさそうだね…体調はどうだい?」
「怠いし、少しめまいがします」
「そうか。薬を調整するからまた飲んでみてね。動機が激しくなったり、息苦しさを覚えたりしたらすぐに誰かを呼ぶこと。分かったね」
「…はい」
一礼をして、担当医と別れる。
診察が終わっても部屋に戻る気は起きなかった。
生まれつきの心臓の不具合。一言で心臓の病気と言っても実際にはたくさんの種類がある。私の場合、生まれつき心臓が機能不全で症状がでると息切れに疲労感、激しい動悸、呼吸困難が起きる。いつ突然死するか分からないし、血液を体内に送り出すポンプ機能が徐々に弱くなっていくことから命を縮める病気とも言われている。実際に予断を許さない状況になったことも一度や二度ではなかった。そのせいで学校にも行けず、物心ついてからはずっと入院生活だ。…数値が不安定。その言葉は途方もない威力を持って私の体内で何度も反響していた。担当医は何気なく言っていただけだから、深刻なものではないのだろうと頭では分かっている。本当にまずい状況であればこんな風に自由に散策なんて出来ないし、親だって呼ばれるはずだ。分かってる。分かってはいるけど、良くない方向に考えるのをやめられない。体は怠いしめまいもするけど、歩いていないと不安に押しつぶされて叫び出してしまいそうだ。
「わ…」
急に強い風が体を撫でて思わず声を漏らした。気がつけば、あまり来たことのない病棟の廊下にいた。歩くことだけに集中していたせいで、ここがどこだかすぐに分からない。距離にしておよそ十メートルくらい先。見慣れない廊下で誰かが窓を開けている。
その人物を一目見て、綺麗だと思った。
色素の薄い髪に滑らかな肌。大きな瞳。すらりと伸びた華奢な手足。年齢は…どうだろう。十三歳か十四歳か。自分と同じくらいに見える。
「ああ、ごめん。寒かった?」
「え、いや、大丈夫だけど…何で窓を開けているの?」
まじまじと見ていたら声を掛けられた。見ていたというより、見惚れていたというのが正しい。久しぶりに綺麗なものを見たと思った。若干の気まずさもあって慌ててその子に答える。
「ん?桜が綺麗だったから、つい。窓の外だと遠い感じがしない?」
「…そう?」
「うん。窓を開けると外の空気が流れ込んでくるだろ。同じ世界にちゃんといるんだって実感するよ」
変わった子だ。感性が豊かとも言うのかもしれない。外見だけだと男の子なのか女の子なのか分からなかったけど、その話し方や声質で男の子だと分かった。
「貴方もここに入院しているの?」
「うん。二週間前からここにいるんだ。君も?」
「私はもうずっとここにいるわ。人生の三分の二はここにいる」
「そんなに?じゃあ大先輩だな」
「…そうとも言うのかも。敬ってくれていいわよ」
「ははっ。分かったよ先輩」
体調も気分も悪くて笑顔も作れない私に対して、彼は明るく笑った。その楽しそうな笑顔には憂いも不安も一切ないように見える。きっと数週間くらいで退院できる軽い病気なんだろう。
少年は髪と同様に色素の薄い瞳でこちらを見て言った。
「君の名前は?」
「私は加藤美咲。貴方は?」
「僕は九条新。よろしく先輩」
「うん。短い付き合いになるといいね」
「縁起でもないこと言うなよ」
「え?貴方は早く退院できた方がいいでしょう?」
「残念ながらそう簡単には退院できそうにない病気なんだ」
「そうなの?」
「うん。君もそうなら長い付き合いになると思うよ」
柔らかく微笑みながら新は右手を差し出してきた。吸い寄せられるようにその手を握り返す。新の手は私と同じくらいに冷たかった。何となく照れ臭くなって視線を外すと、視界に新が開けた窓の外が映った。薄紅色の桜が静かに咲き、風に揺られて花びらが舞っている。
さっきまで見る余裕さえなかった桜がそこにあった。
今までも視界に映っていたはずのそれは、今日初めて鮮明に美しく見えた。
(あの桜の木。こんなに満開に咲いてたんだ…今までしっかり見る余裕がなかった)
相変わらず体はだるいし軽くめまいもする。 でも今日は綺麗だと心の底から思えた。
その日から私と新は度々会うようになった。
新の病室は大部屋ではなく個室で時々家族が見舞いに来る以外は誰も来なかったから、私達は大体の時間を新の部屋で話をして過ごした。
「骨肉腫?」
「そう。悪性の腫瘍が周囲の骨を破壊しながら、その腫瘍がまた骨を作っていく。そういう病気」
おもに十代の成長期に発症する希少がんの一種だそうだ。
「…痛みはあるの?」
「うん。やっぱり痛いよ。もともと膝のあたりが痛かったから、最初は成長痛だと思っていたんだ。けど全然治らなくて病院で検査したらそう言われた」
骨肉腫の治療は主に抗がん剤の服用と手術を組み合わせたものになる。なによりも遠隔転移させないことを目標に治療は継続して行われていくそうだ。それでも現代の医学は大したもので、がんが転移さえしなければ五年後の生存率は七割を超えるという。新はまだ転移はしていないし、私よりは希望のある病気だ。それでも発症する前まで元気に学校に通えていた分、それが分かった時はきっと辛かったに違いない。想像すると辛くなり、私は別の話題をふった。
「そういえば新、今度誕生日だよね」
「うん。覚えていてくれたんだ」
「当たり前でしょ。何か欲しいものある?」
「欲しいものかあ…。そうだな、何かボードゲームが欲しいかな」
「ボードゲーム?オセロとかチェスとか?」
「うん、それ。何回でも遊べるやつ」
「ゲームならDSとかスイッチとかの方がいいんじゃないの?ボードゲームなんてこの病院の売店でも売っているじゃない」
県内でも有数の総合病院であるここは、様々な専門病棟の他に多くの施設を兼ね備えている。院内にはカフェや売店、小さな花屋に軽い運動ができるレクリエーションルームまであった。特に患者だけでなく医療従事者のためのものでもある売店は品揃えが豊富で、オセロやトランプなどのゲームもいくつか置いてあったはずだ。
「いや、ボードゲームがいいんだよ。二人で遊べるだろ」
「二人で…私と?」
「ああ。せっかく会えたんだし、もっとこれからも遊ぼう」
もっと。これから。その言葉になんだか泣きそうになる。一体後どのくらい私は新と遊べるのだろう。何回新と話せるのだろう。新の病気と違って明確な完治の術がない私は、暗い気持ちを振り払うように頷いて言った。
「分かった。じゃあ、すっごく頭を使うゲームを贈って貴方に徹底的に勝ってみせるわ」
「はははっ。それは僕の台詞だよ」
「絶対私が勝つから」
「僕だって負けないよ。これでも成績は良いんだ」
「それは学校のじゃない。ゲームには反映されないわ」
「そんなこと分からないだろ」
他愛もない言い合いをしていると、あっという間に時間が過ぎた。
新の十四歳の誕生日当日。私は病院の売店で買った一つのチェスセットと手作りの小さなマスコットを渡した。フェルト生地で作ったマスコットは蒼い鳥の形をした自信作だ。何度も失敗して形の歪んだ鳥が量産されたけど、やっと綺麗なものができた。私自身は難しいかもしれないけれど、新にはこの病院から出て自由に生きて欲しい。そんな気持ちを込めて蒼い鳥を作った。
ちょうどその時、新は薬の副作用で辛そうだったけど、私がチェスとマスコットを渡すと笑ってくれた。新の治療が落ち着いてから、私達はチェスをして遊んだ。
最初こそ私が勝ったけれど、次の勝負では新の方が勝った。それ以降はお互い駒の運び方を練習しながら勝負をした。何度も。何度も。勝っては負けてを繰り返した。
「次は美咲の誕生日だな。何が欲しい?」
チェスの駒を指しながら、新は私に聞いてきた。
先の約束はあまり得意じゃない。
「……。別に何でもいいよ」
「それが一番困るんだよ」
「新が選んでくれるものなら、なんでも嬉しいよ」
「分かった。美咲が喜ぶものを考えておくよ」
二か月後の誕生日、今度は新が私にプレゼントをくれた。
可愛らしいピンク色の花束と蝶の模様の髪飾りだった。
「ふふっ」
「なんだよ…」
「ううん、貴方がどうやってこれを買ったのかと思うと楽しくて」
「蝶のバレッタはネットで買っただけだし、花は病院の近くにある花屋のやつだよ」
「病院の外まで買いに行ってくれたの?ここの一階にも花は売っているのに」
「…あそこでピンク色の花なんて買えるわけないだろ」
「ふふっ。そうね。あっという間に看護婦さん達に噂されそう」
「あれ、やめて欲しいよな。ちょっと一緒にいるとすぐ揶揄ってくる」
よく笑う新にはしては珍しく、げんなりとした顔をして彼は呟いた。
「ここは娯楽も少ないからね…。どうしても目立つのかも」
新と一緒に話をしていると何人かの看護婦さんに新との関係を揶揄われるようになっていた。最近は私の担当医にまで「本当に仲がいいなあ」と冷やかされることがある。仲がいいことは否定しない。これだけ会っていて仲が悪かったら、逆に怖い。新と一緒にいるのは楽しいし、もっと一緒にいたいと思う。でも、それを冷やかされるのは嫌だった。まるで微笑ましいものを見るような目で見られると恥ずかしいし、新が私に会うことを嫌になってしまいそうで怖かった。
「まあいいや。それより十四歳の誕生日おめでとう。これからもよろしく、美咲」
「ありがとう。新」
私も新も病状は一進一退を繰り返していた。治療や検査のせいでお互い会えないこともあったけど、それでもこうしてお互いの誕生日を祝えることは嬉しかった。
あれから数年。
今でも新の枕もとには私が作った蒼い鳥のマスコットが置いてある。私も髪が伸びて蝶のバレッタで髪を結うことが多くなった。十四歳の時から新は背が伸びて、昔は同じくらいの実力で勝負できていたチェスも新が圧勝することが多くなっていた。
私達は十六歳になった。
新の治療は順調で一週間後に控える手術が終わり、経過が良好なら退院ができるところまできていた。対する私は以前のまま。特別良くなっているわけでも、大きく悪化しているわけでもない。ただ発作を起こす頻度が徐々に短くなっていた。年に数回夜中に発作を起こし、息が上手くできない時には冗談ではなく死を覚悟した。
…命を縮める病気。
前から思っていたけれど、最近その言葉が重くのしかかる。子供の頃よりもずっと、先のことを深く考えるのが怖くなっていた。いつ、私の針は動くことを止めるのか。いつまで時間が残されているのか。そういったことを考え出すと止まらなくなって、夜になると涙が止まらなくなることもある。
ただ、自分自身の先のことを考えるのは怖くても新の病気には希望を持っていた。きっと新は完治してここから出て行ける。幸せな人生を歩いていける。そう思うと不思議と心が安定した。
いつものように私は新の病室を訪れていた。
ベッドの横の椅子に座って他愛もない話をしていた時、ふと新が言ったのだ。
いつか海へ行かないか、と。
「どうしたの急に。新、そんなに海に行きたかったの?」
「先の約束が欲しいんだ、美咲」
少し低くなった声。けれど、色素の薄い瞳や穏やかに響く言葉は何も変わらない。
新は真剣な面持ちでこちらを見ていた。
「美咲はいつも先の約束をしたがらないだろ?病気のことで未来に期待していないことは分かってる。でも僕は美咲に希望を持って欲しいし、美咲と未来の約束がしたい」
「…どうして?新はもう大丈夫だよ。手術だって必ず成功する。きっとすぐに海だってどこだって行けるようになる。学校にだって行けるわ。私はもう十分新に支えてもらったし、楽しい時間を貰った。だから後は自分の好きなように自由に生きていいんだよ」
「その時には美咲と一緒にいたいんだ」
「…!」
「本当は出会ってからずっと思ってたんだ。どうすれば美咲が笑ってくれるのか、どうすれば未来への希望を持ってくれるのか。ずっと考えてた。こんな病院の中でしてやれることはあまりなかったけど、せめて美咲が笑えない分は僕が笑おうと思ったし、美咲が先のことを不安に思うならその分僕は未来に希望を持とうと思った。僕だってずっと君に支えられてきたんだ。辛い治療も薬の副作用も鎮痛薬じゃ効かない痛みも、君がいると耐えられた」
欠陥だらけの心臓を掴まれたような気がした。
発作の時と同じくらい、もしかしたらそれ以上に私の心臓は脈を打ち始める。
「ここには一流の医者がいるし大丈夫だとは思っているけど、それでも不安がないわけじゃないからさ。手術の前に今伝えておくよ」
抗がん剤治療で疲れているはずの体を静かに起こして、新は私の目の前まで歩いてきた。そのまま私の目線に合わせるように少しだけ屈む。
「好きだよ、美咲。僕と付き合って欲しい」
声が出せなかった。
ずっと、自分の未来を諦めていた。期待しないように誰かに迷惑をかけないように生きなければいけない。そうでないと自分が辛い。例え私がいなくなっても、新や家族には幸せに生きていってほしい。その時に私がいなくても自由に生きていて欲しい。下手な約束なんてしたら、きっとお互い苦しむことになる。だから約束なんてしたくなかった。ずっと、そう思って生きてきたのに。期待なんかしたら辛いだけなのに。
「…美咲?うわ、泣くなよ」
新が慌てた様子で私の顔を覗き込んでくる。
後から後から涙が溢れて止まらない。嗚咽を漏らし始めた私を新はそっと抱き寄せて、背中をさすってくれた。優しくされるとますます涙が止まらなくなる。
「私も…新と一緒にいたい」
涙で前が見えない。しゃくりあげてしまって息が整わない。それでも伝えたい。
「私もずっと好きだった。でも言えなかった。私がいなくなっても、新には好きなように生きていって欲しかった」
新は私を抱きしめたまま、ぎゅっと腕に力を込めた。
「一緒に生きよう」
「…!うん。うん。私も頑張る」
「僕も頑張るよ。まず手術に勝ってくるから。次は美咲の番だな」
「うん、待ってる」
「ああ。美咲が待っていてくれるなら勝ったも同然だ」
「ふふっ。何それ」
「当たり前だろ。僕は美咲のためならできないことはないんだ」
「…それなら私も。新のためなら何も苦じゃない。どんなに辛い治療にも耐えてみせる」
私達はお互いを抱きしめ合ったまま、しばらくその場から動けなかった。
一週間後、新の手術の日が来た。
手術着に着替えた新を私は新の家族と一緒に見送った。手術中はずっと、蝶のバレッタを握り締めていた。大丈夫。絶対大丈夫だ。未来の約束が嫌いだった私と違って、新は約束を守る人だ。新は私を置いていったりしない。
「ああ…」
隣で新のお母さんが神に祈るように溜息を洩らした。
新のお母さんとは今までも何度か会っていた。新の前ではいつも明るく振舞っていたけど、新がいないところでは心配そうな顔をしているのを私は知っていた。
おばさんの気持ちが今は手に取るように分かる。
「大丈夫ですよ。絶対。新は大丈夫です」
「美咲ちゃん…。そうね。そうよね」
私達は祈ることしかできないけれど、それでもここに集まった人たちの気持ちは一つだった。絶対に大丈夫。また同じように新は笑ってくれるはず。絶対に大丈夫だ。私は片手でバレッタを、もう片方の手で新のお母さんの手を握り、祈り続けた。
永遠にも思えた数時間後。
「終わりましたよ」
医者がマスクを着けたまま手術室から出てきた。マスク越しでも分かる優しそうな声に少しだけほっとしながら、私と新のお母さんはその医者に駆け寄った。
「先生!」
「先生!新はどうですか?何もありませんでしたか?!」
「大丈夫ですよ。お母さん。手術は無事に終わりました。今はまだ眠っているので、目が覚めたら顔を見せてあげて下さい」
「ああ…ありがとうございます。ありがとうございます…!」
新のお母さんの目には涙が光っていた。私も泣きそうだった。
次の日。
私はやっと新との対面が許された。病室のベッドで横たわっている新に声を掛ける。
「新…!」
寝巻姿の新は私の顔を見て笑った。
「美咲、言ったろ。大丈夫だって」
「うん…。良かった。本当に良かった」
涙が溢れる。
お互いの気持ちを伝えあってから、私の涙腺は壊れてしまった。
涙が止まらない。止めようとも思わない。
手術は成功した。新の膝にできていた悪性腫瘍は他に転移することなく、無事に除去された。
このまま何もなければ退院できる。
定期的な通院は必要でも普通の生活を送れるようになる。
こんなに嬉しかったのは人生の中でも初めてだった。どんな贈り物よりも嬉しい。世界中にお礼を言いたい。蒼い翼を広げて、新はこの病院から飛び立っていく。それをこの目で見ることができる。それが何よりもどんなことよりも嬉しい。
「じゃあ、次は美咲の番だな」
「うん。私も病気を治すことを諦めない。できる限りのことをしてみる」
そうは言っても医療に詳しくない私にはできることは少ない。医者の指示を守って心臓に負担を掛けないように暮らしていくしかない。それでも気持ちだけは負けない。健康に生きることを諦めたりしない。新とずっと一緒にいられるようにできる限りのことをしていく。未来への希望を持って生きていく。うじうじと悲観していただけの私が、新のおかげでそう思えるようになった。絶対にこの気持ちは投げ出さない。
「ありがとう。新」
「なんだよ、急に」
「いいでしょ。私も頑張るね」
「ああ。僕も退院してからも会いに行くから」
「うん。待ってるね」
「美咲の欲しいものなんでも持っていくよ。考えといて」
「ふふっ。ありがとう。考えておく」
どんなものよりも新が来てくれることが何より嬉しい。
それにまた一つ先の約束が増えたことも嬉しかった。
新はきちんと約束を守ってくれた。こらからもきっと守ってくれる。だから今度は私の番だ。
新の経過は順調だった。激しい痛みは無くなり、足も少しずつ動かせるようになってきた。
新が退院する日、私は病院のホールの入り口で花束を渡して新を見送ろうとしていた。新は蒼い鳥のマスコットと花束を持って嬉しそうに笑っている。
「美咲!ちょっと来て」
「お母さん?」
急にホールに母が姿を現した。県外に住んでいて仕事もしている両親はなかなかこの病院へは来られない。昔は母だけは毎週のように来てくれていたけど、最近は私の方から大丈夫だからと来訪を断っていた。そんな母の急な登場に私は驚きを隠せなかった。
「お医者様から大事な話があるって」
「!大事な話…?」
仕事で忙しい母を呼び出すなんて、ただごとじゃない。
また心臓の数値が悪化したのか、病気のことで何かあったのか。
「僕も行っていい?」
「うん…」
「ごめん、母さん。これ持って先に車に行っててくれる?」
「分かったわ」
よほど私が不安な顔をしていたんだろう、おばさんに花束を預けて新も私達についてきてくれた。
「心臓移植?」
私達を呼び出した担当医はおもむろに告げた。
「どういうことですか?」
「あくまで方法の一つとしてですが、先日、臓器提供者であるドナーの方が亡くなられました。その方の心臓を美咲さんの体に移植する手術をしてみないかというお話です」
「待って下さい!娘は今までずっとこの病気に耐えてきました。これまで明確な治療法はないと先生はおっしゃっていましたよね。何故急に今その話をされるのですか?ドナーの方が見つかったからですか!?」
「それもありますし、我が国の法律上、臓器移植をできるのが十五歳以上と原則決められていることもあります。今美咲さんは十六歳ですし、徐々に発作の頻度が高くなっています。資格は十分にあると見受けられます。もちろん移植にはリスクがありますが、手術が成功すれば健常者と同じ生活を送ることができるかもしれません。費用については…」
「…娘が普通の生活を送れるようになるのなら、費用はいくらでも支払います」
母は泣いていた。
「成功したとしても定期検査や免疫抑制の薬の服用が必須となります。他にもいくつかの注意事項がありますが、続けますか」
子供の頃から診てくれていた担当医が私に視線を合わせる。
閉ざされていたと思っていた道に急に光が見えた。
私は思わず新の目を見た。
新も希望に満ちた力強い目でこちらを見返してくれる。
今までいつも不安だった。楽しいことがあっても嬉しいことがあっても、心の片隅ではずっと恐怖が渦巻いていた。私の心臓は時限爆弾のように、いつその機能を停止するか分からない。毎日を今日が最後かもしれないと思いながら生きてきた。
それがもう怯えずに生きていくことができるかもしれない。
新と一緒に海へ行けるかもしれない。
私達はどちらからともなく手を繋ぎ、担当医に向き直った。
「…続きを聞かせて下さい」
期待と緊張で震える声。けれど、しっかりと繋いだ温かな手がこれは現実だと教えてくれる。
「分かりました」
担当医が軽く微笑みながら、口を開く。
大好きな人が今隣に居て、一緒に話を聞いてくれる。
近くには私の将来を望んでくれる人達。
そして大事な人との未来への約束。
物心がついてから生まれて初めて、もう何も怖くはなかった。