第4話
彼は天野くんという名前で、高校二年生で同じクラスになるまでは関わったこともなかった。新学期最初にクラス内で一人ずつ自己紹介をさせられ、彼の名前とテニス部に所属しているということを知ったが、肩まで伸ばした髪型と軽薄そうな話し方は、どちらかと言えば日陰に寄った学園生活を送っていた私には縁遠いものだと感じた。
二年生に上がって明美とはクラスが別になってしまったので、休み時間の過ごし方は読書になった。本を読むことはもともと好きだったし、明美とも昼は毎日一緒にお弁当を食べていたから、退屈や寂しさを感じることはなかった。
その日、鞄に本が入っていないことに気付いたのは、一時限目が終わった後の休み時間だった。前日の夜、寝る前に読んでいた本を、鞄に入れ忘れてきてしまったのだ。仕方なく、携帯電話で適当にゲームをしていると、突然、目の前から声がした。
「あれ、今日は本読んでないんだ」
はじめは、それが自分にかけられた言葉なのだとは思っていなかった。おおかた、自分の後ろにいる人にでも話しかけているのだろう。そう思い携帯電話をいじり続けていると、「ちょっと無視しないでよ、月島さん」と声は続けた。驚いて顔を上げると、机の前に天野くんが立っていた。
「え?えっと、どうして…」
あからさまに戸惑っている私に対して、彼はまったく動じない。
「いつも休み時間は何か読んでるじゃん?ケータイいじってるなんて珍しいと思って」
私が聞きたかったのは、そもそもなぜ彼が私の休み時間の過ごし方を把握しているのかということだったのだが。
「あの、家に忘れてきちゃって…。昨日の夜読んでたから…」
「なんて本?」
「あまり有名なやつじゃないよ」
「でも、家でも読んでたってことは面白んでしょう?教えてよ」
やけに食い下がることを不審に思いつつ、私は渋々、本のタイトルを教えた。
「…ポール・ギャリコの『ジェニィ』っていう小説」
「ギャリコかあ。月島さんって結構渋い趣味なんだね」
私はまたしても驚かされた。ギャリコは決して無名な作家ではないが、少なくとも彼のように軽薄そうな人が知っているとは思いもしなかったからだ。
「ギャリコ、知ってるの?」
「その小説は読んだことないけど、前に『幽霊が多すぎる』っていう作品を読んだことがあるんだ。月島さんは読んだ?」
「読んでないけど…天野くんって本読むの好きなの?」
「親父が本好きでさ、俺も親父の本棚から時々借りて読んでるんだ。まあ、そのせいでやや渋い読書傾向ではあるんだけど」
彼はそう言うと、自分の好きな作品をいくつか挙げた。アガサ・クリスティ『五匹の子豚』、パトリック・クエンティン『女郎蜘蛛』、シャーリィ・ジャクスン『山荘綺談』など。渋い、というより、そもそもクリスティ以外は作者名すら知らなかった。
「なんだか、意外。天野…くんって、小説を読むようなタイプの人じゃないと思ってた」
「いつも一緒にいるヤツらは読まないからさ、話さないだけだよ」
「そう、なんだ」
「あ、そうだ。月島さん」
そう言って天野君はおもむろに自分の携帯電話を取り出した。
「連絡先、交換しない?本の話なんて出来るの、月島さんしかいないからさ。おすすめの本とか、いろいろ教えてよ」
「天野くん、私より全然たくさん読んでそうだし、おすすめ出来るのがあるか分からないけど」
とはいえ、断るほどの理由も特に無かった。どうせ、今この場のノリで連絡先を交換しただけで、実際に彼から連絡が来ることなどないだろう。そう高を括っていたのもある。
現実には、その日の夜に彼から連絡が入り、週末に隣町で開催される古本市へ一緒に行かないかと誘いを受けることとなる。そして、その帰りに寄った公園で、彼は私へ告白をするのだ。