吸血鬼の住む山1
佐々木佳苗は、ある大きな肖像画の前で、足を止めた。
縦型で120号という大きな肖像画、油絵である。
背景は殆ど黒に近い色で、女性の立ち姿が描かれている。
その女性は、真っ赤なドレスを着ていた。
その赤は、朱というより、真紅。血の色に近い。
真紅のドレスに真紅な唇。
(まるで吸血鬼みたい。)
佳苗は、思った。
佳苗は、しばらく其処で肖像画と相対する。
女性は20代くらいだろうか。
自信満面の美しい顔、細い首、豪奢なドレス。
まるで中世の女王の肖像画だ。
男性を従えている女王様。
著者の妻だと書いてある。
どんな夫婦生活だったのだろうか。
「美しいでしょう?」
声をかけられ、佳苗はハッとする。
声をかけたのは、老年の男性だった。
佳苗の斜め前に立ち、肖像画を見ながら、佳苗に言っているようだ。
腰は曲がり、背が低い。
更に帽子を被っているので、顔が、見えない。
まさにお爺さんという感じ。
「私は、この絵を見にここへ来たのですよ。」
男性は、尚も言う。
「……この赤。まるで血のようだ。」
恍惚というような声に、佳苗は少し気味が悪くなる。
男性は肖像画に見惚れている様だった。
佳苗は、何故か移動できない。
そのまま、しばらく男性と、肖像画を無言で眺める。
5分程、立ち尽くしていただろうか。
男性は、「それでは。また。」と言って、佳苗の方に会釈して軽く帽子を上げた。
顔はよくわからなかったが、その口はゆるく弧を描くよう歪み、その唇が真紅だった。
佳苗は、背筋に冷たいものを感じる。
その時、佳苗の下の方から、
「……気をつけた方がいいな。」
少女の声が聞こえた。
しかしその声は少女らしからず、低く抑えた声。
佳苗は、下を見る。
すると、佳苗のすぐ後ろに黒髪おかっぱの少女がいた。
(こ……今度は、何?)
佳苗は焦る。迷子だろうか?
近くに大人が見受けられない。
それにさっきの声は?
この子が発した声?
それにしては、不思議な子だ。
少女は、もう暖かくなるというのに、首にはイタチのファーのマフラー。
服は白い、フリルのたくさんついたクラシカルなもの。
(ゴスロリっていうんだっけ?)
でも、あれはもう少し大きな女性が着たもので、本当に子供が着てロリータって言っていいのかな、と佳苗は不思議に思った。
手には日傘まで持っている。靴はブーツだ。でも厚底ではない。
(間近でゴスロリなんて、初めて見た。コスプレ?)
不思議に思っていると、もう一度少女は、
「気をつけた方がいいと言っている。」
少し怒っているようだ。無表情で笑っていない。
しかし顔は、モデルのように綺麗だ。
やはり、さっきの声はこの少女からだった。
「ごめんなさい。何を気をつけた方がいいのかしら。」
佳苗は、焦る。
自分よりはるかに幼い感じなのに、態度は高圧的だ。
「全部。身の回りに。山では特にな。」
佳苗が尚も不思議そうにしていると
「これを貸してやる。御守として肌身離さず付けるといい。」
少女はイタチ毛の小さなファーのキーホルダーを、佳苗の手に押し付ける。
首のファーと同じ色だ。
仕方なく佳苗が受け取ると、少女は踵を返し、佳苗から遠ざかっていく。
「え?まって!」
慌てて佳苗は、少女を追ったが、すぐに見えなくなってしまう。
歩幅は佳苗のほうがある筈なのに、少女は消えてしまった。
「なんなの?もう。」
立ち尽くして、佳苗は呟く。
でも老人と異なり、少女に怖さは感じなかった。
手の中にはイタチのファーが残っていた。
佐々木佳苗は、ある工場で、総務部の事務職員として働いていた。
24歳。独身。彼氏もいない。
大学を出て、知り合いの伝でやっと就職できた会社だ。
従業員200人の中小企業である。
割とボーッと生きてきたようで、高校、大学と彼氏が出来た試しがない。
(合コンの日に、インフルエンザにかかって休んだり、事故にあったりと運の悪さも災いしている。)
友達は次々と彼氏をとっかえひっかえしていたが、本を読んだり、美術館巡りが趣味の佳苗は、彼氏が居なくて特に困ったことは無かった。
困ったとしたら、会社に入ってから。
彼氏がいない事を、歓迎会や親睦会で、オヤジ達にからかわれること。
そういう時は、同じ事務職員のお姉様達(大分年齢が上の)が助けてくれる。
「これからよ!これから!とびっきりいい男を捕まえるんだもんね!佳苗ちゃん。」
そう!と勢いをつけてみても、実際、何処に行けばいい男なんて捕まえられるんだろう。
学生時代の友達は、皆、遠くへ就職してしまい、友人は期待できなかった。
その為、今度の社内親睦会のキャンプに期待をしている。
今回の親睦会は、部署に関わらず社内全体に希望者を募集しており、事務職だけでなく現場の若手や営業なんかも参加する予定だ。
佳苗は総務部としてホスト的な参加になるが、ワクワク感は否めない。
社内親睦会は、初夏7月初めの土曜日に行われる。
佳苗は、美術館であの少女に握らされたファーを、言われた通り、いつも肌身離さず付けている。
あの老人の事もあり、不安だったからだ。
(ちょっとヤンキーっぽいかな?)
と思い、見えないようにいつもポケットの中にしまっていた。
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「今回で、今年3例目か。」
渡辺はファイルを持ちながら、呟く。
山岳救助隊の詰め所で、渡辺剛史は報告書を作成していた。
山岳救助隊に配属され、既に5年目の渡辺は、27歳にして中堅クラスだ。
昨日、登山道の脇に人が倒れていると報告があり、駆けつけてみたら、一週間前に捜索依頼が来て捜索した遭難者だった。
発見時、既に事切れていた。
このような例が、今年に入って3例出ている。
山開きしてから、2ヶ月でだ。
ここ十年で数えたら、恐らく数十件になるかもしれない。
いつも、十代から二十代の青年か若い女性だ。
渡辺が今いる山は、標高2000m以上の山が連なっており、奥に入ると遭難する危険性がある。
しかし、中腹にキャンプ場やアスレチック施設等があり、夏はキャンプやハイキングで賑わう。
遭難者は、そのキャンプ場に来た客だったのだ。
(キャンプ場で遭難?どこかで、道に迷った?)
渡辺は頭を振る。
あのキャンプ場は、車で来て、炊事場も近い。トイレも少し歩くが近くにある。
余程濃い霧でも出なければ、迷う事もない。
「もしかしたら、何か悩んで、自分から山に入ったのかもしれない。」
と誰かが言ったが、昨今の山で山に入って自殺出来るとは限らない。
富士の樹海にも道路が通っていて、滅多に迷う事もないという。
更に、渡辺が異常に思う事は、何体か遭難者の遺体を見た監察医から、
「皆、血液が少なく、一部ミイラ化している。一週間でこうなる事は、おかしい。」
と言われている事だ。
遺体には多数の傷があり、血液がそこから流れた可能性はあるが、ミイラ化するという事は異常だ。
エジプトのミイラは、腐敗する臓物を取り除き、更に痛みにくくする処理を施し、何年も置いた物だ。遭難者には臓物が残っている。
渡辺は、刑事ではない。
捜査が仕事じゃない。
とにかく遭難を未然に防ぐ事を考え、上長に相談し、キャンプ場にできる限り監視員を置くことにした。
電話が鳴る。
また遭難者が出た、という事だった。




