繭
初めにことばがあった。ことばは神であった。
万物はことばによって成った。ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
(新約聖書 ヨハネによる福音書)
ある夏の日の夕方、総合病院の外来は閑散としていた。あかね色になってきた光が、病院の廊下を照らす。外はまだかなり暑いに違いないが、病院の中は空調が十分に効いており、視覚と体感温度のズレで変な感じがする。
待合室でわたしと姉は、二人で並んで座って呼ばれるのを待っていた。温度のせいではなく、緊張でじっとりと汗をかきながら、それでもしっかりと姉と手を握ったままだった。総合病院での精密検査の結果が、今日出る。
「ごめんね」
姉は周りを見渡し、いつもの口癖でそっとわたしに謝る。そんなに謝ることではないのに、物心ついた頃から姉はいつもわたしに謝っている。
「ことばさん、ご家族の方と一緒にお入りください」
診察室に通された姉のことばとわたしは、3面のモニターの前に座って何やら打ち込んでいる医師の前に座った。医師はずいぶんと大柄な、もっと簡単に言うと超肥満で、座っているだけでフーフー呼吸音が聞こえる。姉よりよっぽど、この医師の方が重症のように見える。
医師は姉のカルテを開きキーボードを打つ手を止めて、わたしたちの方を向いてゆっくりと話を始めた。医師の話し方は必要以上に丁寧で、逆にわたしたちを不安にさせた。
「残念ながら、すでにことばさんの30%は失われています」
わたしは医師の急な宣告に驚いて、思わず横に座っている姉を見た。姉は私に向かって笑顔を作った。しかしその笑顔は、いつもよりこわばって見えた。
「現在、ことばさんは本来のおおよそ7割になっています」
わたしは冷たい汗をかいた。
姉の3割が失われているとは、それは一体どんな状況なのだろう?姉の体には、一体何が起きているのだろう?
「症状が特徴的なのでわかりやすく、診断は比較的簡単なのですが、」
症状が特徴的?何か姉に特徴的な症状はあったのだろうか?
それは見落としていたわたしが悪いのだろうか?
そして、姉は一体どうなるんだろう?
「治療はなかなか難しいです」
医師はメモ用紙とボールペンを取り出した。むちむちとした彼の指とにつままれたモンブランのボールペンはまるでおもちゃの棒のようだった。
0.7x0.7=0.49
医師はメモ用紙に掛け算を書いた。
「現時点でことばさんは70%ですが、今後の治療でさらに3割が失われる可能性があります」
ボールペンで0.49の下に線を引きながら医師は言った。
「つまりことばさんは最初から見て、治療後は半分以下になる可能性が高いです」
医師の言っている意味がわからない。
半分以下の姉?
「まれに治療の副作用でさらに3割以上失われる場合があります。しかし、そのような重篤な副作用が起きる確率は統計学的には0.01%以下です」
わたしには、得体のしれないなにかかが進行していることは分かった。しかし、医師の話には全く共感できなかった。0.01%とは一万人に一人、ということだと思うけど、一万人に一人の姉がさらに悪化するというのだろうか。
「まずことばさんの残りを大事にしていただく、ということが一番必要になってきます。リハビリもあるのですが、現在の医療では限界があります」
眼の前にいる医師という名の呼吸の荒い肉塊は、わたしが姉を大事にしていなかった、とでも言いたいのだろうか?
世の中にたった一人の肉親が、こんな病気になってしまって、3割もかけているのに気が付かなくて、姉を大事にしなくてはいけない、なんて言われて。
まるでわたしが妹失格みたいな言い方だ。
わたしは両手を固く握った。指の爪が汗ばんだ手のひらに食い込むのを感じた。
「あと、治療にはご家族の協力が不可欠になります。ご家族はことばさんと妹さんの二人だけのようですから、治療方針については十分ご相談なさってください」
座っているだけなのに、巨大な医師は息を荒くしながら言った。
「何か聞きたいことはありますか」
私はあまり上手く働いていない自分の脳から、最初に浮かんだ言葉を口にした。
「姉の病気は、うつるのでしょうか」
言った瞬間にわたしは後悔した。伝染るのなら、なんだというのだ。わたしは姉の病気を恐れているような質問をしたことを恥ずかしく思った。姉の表情が一瞬こわばったように思えたが、姉は何も言わなかった。
医師はきっぱりと告げた。
「いえ、感染性の疾患ではありません」
医師はモニターに目を戻して、キーボードを打ちながら言った。
「主に高次機能の概念的な問題です」
わたしは硬い表情のままだった。それを見て医師は言葉を続けた。
「簡単に言うと、だまし絵に気付くような人間の認識部分の問題です」
分かったような分からないような答えに、わたしは困惑した。今日のすべてがちぐはぐだった。
「残念ながら、ことばさんはステージが進んでいます。失われている部分も多いです。早めの治療が必要です」
巨大な医師に、できるだけすぐに治療方針について連絡がほしいと言われた。わたしは事務で渡された家族欄に、ひかり、と名前を書いた。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
その日の記憶は、病院を出てからすっぽり抜けている。
わたしと姉は病院を出た、はず。
夕食はふたりで外で食べたと思う、多分。
二人きりで生活しているからあまり外食はしないけど、その日は家で食事をする気分じゃなかった。もしかしたら食事をしなかったかもしれない。でも姉は本当にきちんとしていて、食事を抜いたりするのが嫌いな人だから多分食事はとったと思う。しかし自信はない。ショックだったのだろう。姉の手をずっと握っていたことしか覚えていない。
「治療、しないかな」
姉は突然、わたしに言った。ずっと姉は考えていたことなのだろうけど、決心つかないように言った。
「なんで?」
治療をしないという言葉に私は動揺した。わたしはすぐに聞き返した。治療しない、という選択肢は全く考えていなかった。
「だって、ひかりに迷惑かけるから」
わたしは姉の右手を擦り切れるぐらいこすりながら謝った。
「気付けなくて、ごめんね」
「ううん、ひかりには迷惑かけるね。ごめんね」
姉はそう言った。
わたしは姉がとんでもない病気にかかってしまった責任を感じていた。自分のせいで姉が病気になったのではないとしても、自分は決して医学的には理想的な家族ではなかった。医師から姉はすでに3割を失っていると言われたが、わたしにはどこが今までと違うのか見当がつかなかった。多分、そういう気付けないところが、自分のいけないのだと思う。姉の変化に気付けない自分を呪った。
「お姉ちゃんのためだったら、なんでもするから」
「本当にごめんね。こんなになっちゃって」
姉は申し訳ない様子で言った。
姉は物心ついた頃から、ずっとわたしに謝り続けている。理由を聞いても、なんだかはっきりしない。わたし以外の他の人にはむやみに謝ることはしない。二人だけの家族だからだろうか、そう思いながらわたしはいつも姉の謝罪をクセのようにとらえていた。
姉は周りを見渡すくせがある。そして決して大きな声を出さない。誰かに見つからないように、こっそりとわたしだけに話をする。姉の口がわたしの耳に近づき、その吐息が耳に触れながらささやく声が好きだ。
わたしは姉と一緒に生きたかった。姉を愛していた。まだ見ぬ未来へ一緒に行きたかった。何も行われていない、未来というまっさらな強大な空白へ二人で飛び込みたかった。
姉のどこに異常があるのかわたしには分からず、いろいろと調べてみたのだけどピンとこなかった。しかし実際には姉は7割しかなく、すでに3割を失っている。このままだとさらに欠損部分は増えるらしい。割り切れない思いを抱えながら、わたしたちは治療をする覚悟を決めた。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
「この治療には大変な危険が伴います」
小柄なキビキビと動く治療専門の女医が移植の準備をしている。治療専門医はクルクルよく動く目で見ながら、わたしたち二人を安心させるように話しかける。内容は危険なことを言っているのだが、声の調子は本当に優しく安心感がある。
大変な危険、という単語がまるでジェットコースターは危ないので立ち上がらないでください程度の危なさにしか聞こえない。もしこの女医さんが、間違って詐欺師になっていたらとんでもない被害が出ていただろう、とぼんやり思った。
「今回の治療は、ことばさんとひかりさんをある意味において“融合”させます。それでお姉さんのおよそ3割が妹さんに置換されます」
つまり、わたしの一部を姉にあげる。わたし自身が、姉の残りの7割のうち3割を食いつぶす。
0. 7x0.7=0.49。そして姉の残りは半分を切るぐらいになって安定する、ということだ。
「生命は基本的に定常開放系です。これを一時的に閉鎖系に変換します。そのため、おそらくお二人の安定には72時間必要だと思います」
わたしたち二人は、一糸まとわぬ姿で徹底的に消毒され、一緒の狭い空間に入れられた。そしてわたしは、これから本当の意味で姉を愛することになる。わたしの姉に対する愛を試されることになる。
「治療中に摂食はできません。閉鎖変換では極端な飢餓状態になるので、睡眠は取れないと思います。でも、それが普通ですから気にしないでください」
72時間も眠らないのが普通なのだろうか。多分、治療専門医には普通なんだろう。わたしたちにはこんなこと、おそらく一生に一度しかないだろうけど。
ピッタリと姉の体に寄り添って、わたしの皮膚と姉の皮膚が密着して治療が開始した。
みずみずしい姉の胸がわたしの胸にしっとりとくっつき、姉の膝がわたしの足と足の間に滑り込む。わたしは思わず粘膜から甘い吐息を漏らしそうになるけど、我慢する。姉はわたしの体のこわばりを緊張か苦痛と勘違いして、
「ごめんね、ひかり。ありがとうね」
とわたしの耳元でささやく。わたしは姉の言葉でとんでもなく気持ちが良くなってしまい、うなずくけど言葉が出てこない。そのかわりに涙があふれてくる。
「コクーニングと呼ばれる治療です。繭はコクーンといいますが、その名の通りに繭のなかに二人で入っているような感じになります」
かけがえのない肉親で、そして愛する姉。わたしは姉に隠れた思いを寄せていた。その気持は普通だったら、決して明かされない秘密だった。
「白い繭が形成され、72時間たったら自然に薄くなって外に出られます」
「コクーニングでは、終了直後に記憶が混乱する場合があります。一方の記憶が他の人に移ったり、二人とも大事な記憶をなくしたりする場合があります。ほとんどすぐに良くなりますけどね」
昔は、姉にわたしの気持を知られるぐらいなら死んだほうがマシだ、そう思っていた時期もあった。しかし実際に姉が病気になり、姉がこの世を去るぐらいなら、わたしの姉に対する想いなんてどうなってもいい、そう決心したのだった。
もしもわたしの姉を思う気持ちが分かってしまっても仕方ない。たとえそれが、どんな結果になろうとしても。
「お姉ちゃん、頑張ろうね」
「うん」
視野が狭くなってくる。そのかわりに触覚と嗅覚だけが妙に鋭敏になってくる。姉の匂いが脳に直接流れ込む感じがする。皮膚はあまりにピッタリとくっついているので、一つになってしまっているように思える。わずかな体の動きが快感につながる。深い快感が脳内を駆け巡る。
(コクーニングでは脳の側坐核が活性されることで、エクスタシーを感じる状態になることがあります)
わたしは事前に読むべきだった分厚い注意事項の一文を思い出した。正直、その意味することはわからない。
とにかく、いまわたしは姉の腕の中で、薬物中毒に匹敵するような強烈な快感におそわれている。
(側坐核が必要以上に活性した場合、視床室傍核に刺激を与えることでリセットを……)
すでにわたしたち二人は繭化して、外からは中のわたしたちを見ることができない。
「第一回目の視床室傍核リセット入ります」
「はい」
外から事務的な声が聞こえてくる。脳に響くような微弱な電流でわたしは正気を取り戻した。強烈な快楽の波が引いていく。他の感覚が戻り、あとにはゆっくりと安心できるような心地よさを取り戻した。おそらくわたしは電気刺激で快楽のリセットをされたのだろう。わたしたちの繭もモニタリングされて調整されている。
わたしの胸の中に新しい血液が入ってくるみたいに、姉の記憶が流れ込んでくる。あいまいな昔の記憶。
姉の記憶は、わたしのよりはずっと鮮明だけど、やはりセピア色ににじんでいる両親の顔。わたしが大きくなったときにはすでに両親ともいなかったから、アルバムでしか知らない風景だ。姉の過去がまるで自分の過去のようにフラッシュバックする。
「お母さん……」
わたしは何年ぶりかにその単語を口から発した。黄昏時に立っている母の姿が見えている。姉が泣いているのがわかる。姉が流している涙が、わたしの頬に触れた。それでもわたしたちは眠ることを許されない。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
コクーニング開始から24時間が経過した。
飢餓と覚醒が続く。
快楽と記憶が続く。
わたしと姉は下半身がどろどろに溶けている。お腹は空いていて完全に覚醒している。獣のような状態だ。時々、とんでもない快楽がおき、外からのコントロールで落ち着きを取り戻す。常に飢えていて、姉のことを性欲と食欲で姉の体を口にふくみたくなる。
きっと姉も同じように思っているに違いない。姉がわたしの左の首筋に噛み付いて、ふと我に戻って口を離すことを何度かした。わたしは姉の顎の下から耳の裏にかけて口づけをして、それからなめる。姉の耳たぶをあまがみしながら、これ以上はいけない、そう思って我慢して身震いをする。
姉の記憶が時々流れ込む。わたしの心に、古い写真のような上手く形容しがたい感情を呼び起こす。
「お姉ちゃん……」
わたしは思わず口にする。姉はプールの中に入ったように無重力で、形がなくなりつつある腰をわたしに押し付ける。ごめんね、と姉は言いながら涙を流す。わたしは首を振る。
一体、わたしのどの記憶が姉に届いているのだろうか。わたしが姉を想う気持ちは伝わってしまったのだろうか。
そして、わたしたちのどんな記憶が失われつつあるのだろうか。最悪、わたしたちは家族であったことすら忘れてしまうのだ。コクーニングが終わると、まるっきりの他人となってしまうかもしれなかった。
「それでも」
わたしは口に出して言う。
「お姉ちゃんが好き」
姉はわたしのつぶやきを聞き、わたしをギュッと抱きしめる。
「ごめんね」
姉はいつもの口癖で謝る。治療終了まであと2日間。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
治療開始から48時間が経過した。
わたしたちは繭の中にいて、治療スタッフの話をまるで他人事のように聞いていた。わたしたちは自分たちが動かせる部分は、もう頭と腕しかなくなっている。胸から下は混然一体の液体となっていて、姉とわたしは混ざり合っていた。
飢餓が激しい。強烈に飢えている。
覚醒しているが、疲労している。
そして、記憶が混ざり合う。
「お母さん、お父さん」
黄昏の公園で両親がいる。姉がボールを持って遊んでいる。
(危険だ)
これは多分、姉の記憶だ。わたしが知らない両親の記憶だ。
本能的に、この記憶は怖いと感じる。危険だ。姉のずっと深いところにある、隠されているはずの記憶だ。いままで姉が強固に開こうとしなかった記憶の扉の向こう側だ。
(あぶない)
わたしはそう思うが、記憶の濁流に飲まれて逆らえない。
夕暮れの公園で両親と遊ぶ姉がいる。ボールが姉の手を離れて、父の方に転がっていく。父と母は笑いながら、そのボールを追いかけていた。
次の瞬間、スローモーションのようにボールが破裂する。乾いた弾けるような音が繰り返し響き渡る。気がつくと、黄昏のなかで父と母が地面に転んでいる。あとには時間が止まったような沈黙が残る。
「お母さん……?お父さん……?」
姉が呼んでも、父も母も動かない。
見知らぬ大きな獣のような男が、荒い息をしながら小さな姉を押し倒し、そのこめかみに銃を突きつけた。引き金を引く。狂人は姉に銃をおしつけて、何度も何度も向かって引き金を引くが、弾は出なかった。
父と母は事故ではなく、殺されたんだ。
こんな虐殺があったことを、わたしは知らない。いままで父と母が亡くなった理由は単なる事故だと聞いていた。そして大人たちはみな申し訳無さそうにその話を打ち切るのだった。
姉の記憶が流れ込んでくる。
あの時、ボールを持っていなければ。
あの時、公園で遊びたいと言わなければ。
あの時、先に自分が打たれていれば。
あの時、父や母と一緒に死んでいれば。
姉はいままでずっとわたしに謝り続けていた。それは狂人から父や母を守れなかった自責だったのだ。あるはずの両親との生活が奪われてしまった贖罪だったのだ。心的外傷後ストレス障害から逃れる姉の祈りの方法だったのだ。
「お姉ちゃん、もう謝らなくていいよ。お姉ちゃんは悪くない」
姉は不安定になっていた。姉の体が崩れ落ちそうになっている。
「お父さんもお母さんも死んでしまったのに、わたしは生き残ってしまった」
「それは違う」
「ごめんね。お父さん、お母さんの次には、あなたに迷惑をかけるなんて」
「お姉ちゃん、違うよ。違うんだよ」
繭の中の体の組織はもろくゼリーのようになっていて、ちょっとでも動くとふたりとも粉々になりそうだった。
「手が空いている先生方を呼んでもらえますか。エイサップ(ASAP: as soon as possible)で!」
担当の治療専門医は、緊張感を持ってはっきりとした口調で告げた。寝ぼけまなこだった看護師が、急に目の色を変えていろいろなところに連絡を入れている。この時点を境に、コクーニングの状態が急変した。
「緊急事態です。治療ガイドラインの危険水準です」
「ベースラインは安定している?」
「いいえ、不整がかなり出ています。念の為アーティファクトを取り除いて再検査しています」
治療専門医は急激に指示が増えた。スタッフが一気に増えて、わたしたちの繭を取り囲んでいる雰囲気がしている。いろいろな検査を行っているようだ。
「ICU(集中治療室)行きましょうか?」
「コクーニング中は、動かすのすら危険だから無理」
「でも有害事象の発生率って0.01%以下ですよね」
「小さいトラブルも含めて一万分の1だから、こんなこと報告にもない」
「REM睡眠なんでしょうか?覚醒しているのにまるで悪夢障害みたいなデータです」
「これたぶん複雑性PTSDですよね。繭層の安定度が低下しています」
「安定性が今以上に低下したらコクーニング、維持できません」
「複雑性PTSDの治療パッケージ、行きますか?」
治療専門医である女医が、上司の指示をあおぐ。この段階で治療を行わなくては繭が維持できない。なかの人間が二人とも命の危険にさらされている状況だった。
「よし、治療パッケージ、行こう」
治療スタッフの誰もが分かっていたが、これは大きな賭けだった。
事前に渡してある注意事項にも書かれていない治療だった。しかも集中治療室にも運べない状況で、治療を行うことは何が起こるか分からなかった。
「お姉ちゃんのこと、愛している」
わたしは一生、決して言わないと決めていたはずの言葉を口にする。
「わたしもよ。」
姉の言葉は愛からなのか、親密さによるものなのか、私にはわからなかった。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
コクーニングを開始してから72時間が経過した。
治療スタッフは疲労困憊していた。いつもは冷静な治療専門医も、疲れた目をしていた。本来なら、繭のなかに徐々に見えてくるはずの二人の姿が内部エコーでは見えてきていない。表面もコクーニング終了まで真っ白いはずの繭が、黒褐色に濁っている。
「これ、まずいですよ」
「中が全くわかりませんね。褐色の物質のせいで内部が見えないのかな」
「繭を外科的に切開しますか?」
「外科切開は最終手段だろう。繭を破った症例はかなり予後が良くない」
「でも、こんなに黒い繭、見たことありませんよ」
「心電図はまだふたつあるから、もう少し様子見よう」
私と姉は溶解した暗黒の中にいた。二人ともすでに首から下は肉体の形はなくなり原型はとどめていない。お互いにゼリー状に混ざり合っている。
シグナル伝達物質が繭の中で乱流を作っている。72時間もの間、性交をし続け、そして瞑想し、格闘し続けたような状態だった。二人が一つに混ざり合い、異常事態が続いていた。
暗闇はわたしたちを恐怖させた。快楽と空腹、そして恐怖が暗闇の中でとぐろを巻いていた。わたしたちは決して眠ることを許されない。眠れないという悪夢の中にいた。
「わたしのためにみんなが犠牲になる。お父さんも、お母さんも。そして、ひかりも」
姉のフラッシュバックがやまない。記憶の中で繰り返し、繰り返し、何度も殺され続ける父と母。そして姉のこめかみに当てられる銃口。空の弾丸と生き残る姉。黄昏の公園の残照。終わらない惨劇。
「もう、やめたいよう」
繰り返される両親の死の記憶の中で、姉は子供のように泣いていた。
私は繭の中の暗闇のなかで、もう姉の体がほとんど形になっていないのに気づいた。多分、わたし自身の体もほとんど残っていないのだろう。
わたしは目には見えないが、眼の前に小さな光の塊を感じた。
ヘドロのような液体の中で、小さな温かく光るような塊があった。すぐにそれが姉の中心部分だとわかった。
「お姉ちゃんは、ずっとわたしを守ってくれていたんだね」
いつも周りを見渡すクセも、わたしに謝っていたことも、声をひそめて大きな声を出さないことも、みんな、わたしのためだったんだね。
こんなに怖い世界で、自分ではなく、妹であるわたしを守ってくれていたんだね。
わたしは姉の光る核を口に含んだ。それは温かく滑らかだった。
わたしは姉の苦しみが消えることを祈りながら、その小さく温かい核をかみ砕いた。
「お姉ちゃん……」
口の中で姉の核は細かく砕けた。
甘く苦い味が口の中に広がった。わたしにとって72時間ぶりの味覚だった。そして生まれてはじめて感じる、姉の味だった。
繭の内部が急速に冷たくなっていった。
わたしたちの繭がやぶれて、破裂した。大量の黒褐色の液体が吹き出した。
「ラプチャー(破裂)!ラプチャー!」
治療スタッフが大騒ぎになる。大量に噴出している液体を目の前にして、マスクとゴーグルをつけ、手術用の滅菌手袋をつけたスタッフが部屋になだれ込む。
コクーニングの最後は、普通はゆっくりと白い繭が溶けて、なかから二人が出てくる。しかし、目の前にあるのは黒く濁った繭で、グズグズに腐ったような繭層が急に破れて、なかから液体が噴出していた。
「ICU準備して!もろいから、やさしく、やさしく!」
「体出た、出た」
「バイタルチェックして」
「ルート確保!カルチャーメディウム(培養液)、用意いい?」
「二人同時いける?体癒合してない?」
「フィーダーレス(支持細胞なし)で。pH気をつけて。体溶けるよ」
黒ずんだ繭の中から出てきたのは、二人だった。一人はわたし、もう一人は姉だったはずの小さなこどもだった。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
「ひかり、ひかり。これ!」
秋の公園は日が暮れるのが早い。夕暮れ時に小さな姉が黄色い枯れ葉を持って駆け寄ってくる。黄昏の光にあふれた公園を、小さな姉はもう怖がらない。
姉は繭から出たときには、体も心も小さく子供に戻っていた。
コクーニングは普通はゆっくりを傷を癒やすような治療なので、そのままの体で繭から出てくる。子供に戻ってしまうなんて初めてだといい、医療関係者を驚かせた。
「ことば、もう帰るよ」
わたしはマフラーに首をうずめながら、姉であるが子供に戻った小さなことばに言う。
「えー、やだー」
頬をふくらませる姉がかわいい。でも、もう寒くて限界だ。わたしは早く帰りたいのだが、小さな姉はまた何かを見つけて向こうに走り出す。
「寒いからカゼ引いちゃうよ」
コクーニングのあと、わたしたちは生死をさまよった。不完全な肉体形成のまま繭がやぶれ、体が外にでたことによるものだった。
今回の原因は精神的不安定による複雑性PTSDとも、体内細菌の異常増殖によるバクテリアル・トランスロケーションとも言われたが、はっきりしなかった。
「こら!」
ことばを後ろから抱きかかえる。きゃっきゃいいながら、ことばは手足をばたばたさせて逃げようとするが、本気の力は入っていない。
「ことばのほうが、お姉さんなんだよ」
「はいはい」
わたしはそう言いながら、ことばのほっぺたに自分のほっぺたをこすりつけて、キスをする。繭の中をかすかに思い出すが、コクーニングの記憶は遠くに行ってしまい、全てがおぼろげだ。暗闇から抜け出したことだけを覚えている。
「はい、は一回でしょ」
姉は大人ぶっていう。
「はい、そうですね」
わたしは妹だけど、お姉さんぶって返事する。
「今日、ご飯なに?」
「ハイお姉さん、シチューの予定です」
やっほー、と言いながら、ことばはまた駆け出す。わたしは、こらーと言いながら寒くて追いかけない。
「きのう、こわい夢見た」
帰り道、姉はボソリと言った。手をつなぎながら、ゆっくりと歩く。後ろから夕日がさし、影が長く伸びていた。
「暗いところにいて、怖い夢見たの。外から光ちゃんが呼んでいたの」
「呼んだね。いっぱい呼んだねぇ」
わたしは懐かしい感覚がよみがえってきた。繰り返される姉の記憶のなかにある悲しいお話、姉の核の口ざわり、そして暗闇からの脱出。すべてがつい昨日のようで、それなのに遠い昔のようにも思えた。
「光の中を歩きなさい、光を信じなさい、って言われたよ」
姉の言葉に、わたしは不意に涙がこぼれた。
それは姉の言葉ではなかった。わたしの心の中にあって、わたしの体の中にある言葉だった。一度も姉に言ったことはなかったけど、いつも感じていた私の心だった。わたしが姉の中にいて、ゆっくりと姉と一緒に成長しているのだ。
わたしは立ち止まって、姉に言う。
「最初にことばがいたから、お姉ちゃんが守ってくれたから、ここまで来れたんだよ」
わたしは姉が守ってくれていたことを忘れない。恐怖におびえながら、小さなわたしをいつも守ってくれていたことを決して忘れない。いま、わたしは小さな姉を守ろうと思う。そして今まで以上に、姉を愛している。
「お父さんもお母さんも、喜んでるね」
その言葉を聞いて、わたしは大粒の涙をポロポロ流した。お父さんとお母さんが喜んでいる姿が、姉には想像できるんだ。わたしのそばで、姉はわたしと一緒に成長している。
立ち止まったまま号泣するわたしの腰に抱きつき、姉はピッタリと手を回す。わたしのおしりをポンポンと叩く。その手の温かさがいとおしくて、また泣けてくる。
わたしは大きな妹で、ことばは小さな姉ですっかり子供に戻ってしまったけど、今だけはわたしが妹にもどって、大声で泣いている。
夕日は傾き、残照のなかにすこしずつ青い暗闇が混じってきていた。
冬がもうすぐそこまで来ていた。
<了>




