第二話『だから、薬が欲しい! 身体の調子が良くなる、魔法の薬が!』02
店の外に出てみると、何とも腹立たしくなってきた。思い返せば返すほど、馬鹿馬鹿しい詐欺師女だった。それなのに何度か気圧されたことに恥ずかしさと怒りが沸いてくる。それでも男は小瓶が入った袋を落とさないように気を付けながら抱えこんだ。
薄暗い路地に僅かに差し込む日に、今が日中であったことを思い出す。入ってからそこまで時間はたっていないはずだ。あの店の中は昼か夜かもわからなくなりそうな内装だった。昼食を買いに外へ出たのだったと、男は足早に近くのパン屋へ駆け込み、職場へ戻った。
戻るや否や、早速買った薬を飲むことにした。苔色の液体が入った小瓶の蓋を開ける。青臭い、見た目に則した香りが漂ってきた。何の薬草を混ぜたのだろうか。沢山の滋養強壮剤を嗅いで飲んできたが、男は香りだけで特定することが出来なかった。小瓶の液体は粘稠性があり、揺らしていないのに液体が動いているように見えた。男は気のせいと言い聞かせ、それを一気に飲み干した。
ああ、苦い……!
それでも飲み込めないほどのものではなかった。以前、怪しげな老婆に売り付けられた薬よりはずっと飲みやすかったし、今回のものは全く金がかかっていない。
軽くげっぷを吐き出し、男は昼食を急いで取る。液体の苦味をパンで上書けば、すぐさま仕事道具を手に取った。
身体の変化は特に感じない。妙な詐欺薬師に会ったものだ。雰囲気を演出したいだけの自己顕示欲の強い女店主。美しさだけは、彫って造り上げたいと思う程だった。
「あれ、お前……」
同じ作業場の仲間が声をかけてきた。作業に取りかかる前だったので男は振り向くと、目を丸めて彼は見ていた。珍しい。男はそう感じた。普段はあまり仲間から声かけられない。
「風呂でも入ってきたのか?」
「は?」
必要以上に関わらない奴から妙で馬鹿げた質問が来たものだ。男は眉間にシワを寄せた。
「そんなわけないだろうが。仕事中だ。阿呆かよ」
「……そうだよな」
おかしな質問をした同僚はそれだけ言うと首をかしげながら去っていった。男も首をひねり、だが深く考えずに仕事に取りかかった。
作業場で一つのニュースが飛び交った。
長年、体臭が臭すぎた男から一切不快な臭いがしなくなったことだ。
それは仕事に集中している男の耳に入ることはなかった。
男が自分の身体の変化に気付いたのは、四日目だった。その日の昼、彼はまた薬を飲んだ。その途端に、痛かった歯や欠けていた歯、多くの歯が抜けた。口の中の異変に、彼は硬直した。口の中に転がるものを手に吐き出せば、ぼろぼろと汚い歯が出てきた。そして、あろうことか、新しい歯が急激に生えてきたのだ。
あまりのことに、バケツに溜めた水に顔を映した。何度確かめても、すべての歯が綺麗に生え揃っていた。なくなっていた歯さえも生えてきたのだ。顔の形さえ変わった気もした。
男は半信半疑で手の中に吐き出した汚れきった歯と生えた歯を触り続けた。それからようやくして、歯をポケットに入れ、仕事道具と一緒に置いていた残り一つの薬瓶を、震える両手で包み込んだ。
――五日目の薬による変化はわからなかったが、その夜は昨日抜けたいくつもの歯を目の前に、男は悶々と過ごした。白んでいく空の下、窓からの霞んだ景色に、男は呆けたまま、自宅から出た。立て付けの悪い扉が軋みながら閉まれば、小汚ない独り者の家のテーブルに置いた、男が一晩中見つめ続けた歯が僅かに転がり、空になった薬の小瓶に触れた。
「いらっしゃい、お客様。お身体の加減はいかがです?」
幽鬼のような表情で再びやってきた男に、女店主は微笑んだ。ごく自然な、天気の話をするかのような、爽やかな笑みだった。店のドアを開けたまま、一歩踏み出せずに、店内に入らない男に、女店主は変わらずの笑みでカウンター前の席を示した。
「いい加減な薬でしたけど、二つほどはっきりと私にもわかる変化がごさいますわね。腋臭がなくなって、歯も綺麗に生え揃ってますわね」
「……腋臭?」
「ええ。…………あら、失礼しましたわ。御自覚なかったのですね」
どことなく女店主の笑みが蔑むような嫌な笑いに見えたのは、自分がまるで知らなかった恥ずべき体質を指摘されてたせいなのだろうか。男は顔をしかめ――しかし、店内に足を踏み入れた。
扉が閉まった。鈴が鳴る。すると朝の喧騒のする外界の音がまるっきり遮断されたかのように、耳が痛むほど静かになった。男はふらふらとカウンター前の席についた。
「それで、お客様?」
女店主はやはり行儀悪くカウンター越しに頬杖を突きながら男に話しかけた。
「お望みのお薬は?」
男は一ヶ月分の薬を要求した。小瓶のままだと運ぶのが大変、とおかしそうに笑いながら緑色の液体の中瓶を出す女店主に、男は急かした。
「一回分は今ここで飲む。それ以外はそれでくれ」
「あら、じゃあその分はサービスいたしますわ」
女店主が差し出した小瓶をひったくるように取りすぐさま飲み干すと、ああなんということか、男は長年悩まされてきた肩の凝りがほぐれていくことに気付いた。
「おお……おああああ……!」
感動に吼え、男は両目から涙を流した。腕を意図も容易く上がる。若く精力溢れていた頃のように。肩がなんと軽くなったことか。その様子に女店主はにっこりと目を細めて笑んだ。
「あら、あなたにとって良いところが治ったご様子ですわね。博打のような薬ですから、大当たりしてくれると私としても嬉しい限りですわ」
中瓶と、小さな薬杯をつけ、それを紙袋に入れる。相変わらず、緩衝材などなく入れるので男は大声で制止し、何か布でもいいから入れろと注文をつけた。女店主は変わらぬ笑みのままその通りにしてくれた。そしてようやく手渡される。男は震える手でそれを受け取り、生まれたての赤子を抱くかのように抱え込んだ。
「その薬杯で一日一杯。それ以上飲んだところで変わらないので無駄になるだけですわ」
「わ、わかっている!」
「それでは、お代を頂きますわね」
女店主の言葉と同時に、何が抜ける感覚が確かにあった。だが、些細なことだった。男には肩にあった慢性的な痛みが消えた感動が大きかった。
外界に出れば、早朝の霞は消え失せ、晴天が男を出迎えた。
ああ、なんと素晴らしい朝か。
続きます。