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リコリス魔法薬店  作者: 雨天然
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第八話『私が眠れる、ちゃんとした睡眠薬を出してちょうだい』04

 ヘレンは深い憎しみを全身に抱えて共同住居に戻った。暗い廊下でたまたまぶつかった隣人に怒鳴り散らされるが、全身を雨に濡らしたまま泣き喚いて言葉にもならない叫びを返すと、隣人は引き気味に部屋に戻っていった。

 呪詛のような独り言を繰り返し、ヘレンは自宅の鍵を開けてて倒れこんだ。掃き掃除はしているが、鼻につく臭いのする床が頬に触れれば寄り一層惨めになった。明かりをつけるどころか、もう立つことさえも出来ない。ヘレンはただただ涙した。

 このままでは眠ることはおろか、明日から生きていけるかもわからない。

 私が一体何をしたと言うのか。努力して自分を奮い立たして慎ましく生きてきただけじゃないか。それなのに誰も愛してくれない。誰も優しくしてくれない。欲しいものはすべて人の手に渡り、自分はおこぼれすらも貰えない。

 懊悩に心身がどろどろに溶けていくような感覚を味わいながらも、そのまま消えることも意識をなくすことさえも許してくれない現実。ヘレンはなんとか臭い床から離れて立ち上がる。

 薬を飲まなくては。ゆっくり眠り、幸せを感じて生きたい。ヘレンは暗い部屋をうろついた。決まった場所に置いてある小瓶を探すことは容易かった。

 薬瓶の蓋を開けて逆さまにし、手の上に三粒、その薬を取り出す。

 そこでヘレンは、はたと気付いた。瓶を振る。からから、と錠剤が瓶の中で転がる音が聞こえた。その音が昨日までと違うことにヘレンは震えた。

 ヘレンはカーテンが開いている窓際までよたよたと歩き、瓶の中を見た。


 一粒だけ残っていた。


 手の中の三粒と、瓶に残った一粒を、ヘレンは大きく見開いた目で見た。

 一粒ならば、望んだ快適な睡眠が得られた。二粒ならば、現実で幸福を感じられた。三粒ならば、夢で現実に近い感覚で幸福を手に入れていた。


 では、四粒ならば――?


 ヘレンは瓶を逆さまにした。薬は落ちてこなかった。

 ヘレンは何度も瓶を振り、最後の一粒を取ろうとした。しかし、いくらやっても最後の薬は出てこない。

 三粒で起きた不幸を乗り越えるには、これしかない。明日のことを考えればこれしかない。ヘレンは歯を食い縛り鼻を膨らまして、何度も強く瓶を振った。


 からから。からから。


 薬は一向に彼女の手の上に落ちない。薬が瓶を転がる軽い音が、ヘレンにはこの薬を提供したリコリスの嘲笑に聞こえてきた。


「馬鹿にしやがってあの女、馬鹿にしやがってあの女、馬鹿にしやがってあの女馬鹿にしやがってあの女馬鹿にしやがってあの……っ!」


 最初から効能を騙していた。確かに睡眠ならば一粒で十分だが、飲めば飲むほど得られる効能を隠されていた。

 店長も騙していた。長く勤めている自分を蔑ろにし、店を姪に譲るなどあり得ない。マイクも騙していた。自分を弄び、店長と共謀していた。あの若い女も許せない。若い上に何もしないで自分の欲しいものを全て持っていった。

 忘れていた憤慨を、ヘレンは全身に満たしていく。

 ヘレンは持っていた小瓶を思い切り、振り上げた。


「夢の生活を手に入れるのは私なのよぉぉ!」


 ヘレンは悲鳴のような声と共に渾身の力で窓の床板に小瓶を叩きつけた。小瓶は呆気なく、音を立てて割れた。ヘレンの目が爛々と輝いた。

 窓の床板の上、小さな硝子の欠片の中、一つ。苔むした小石のような、あの薬が転がっていた。

 ヘレンはそれを指でそっとつまみ上げ、手の中に転がした。

 四粒の薬がそこにはあった。

 ヘレンの高笑いが、暗く狭い部屋から外へと響き渡った。




 はっと目を開ける。

 窓から差し込んだ日の光が実に爽やかなことに、ヘレンは混乱さえした。ヘレンは自分の頭や身体を触った。

 昨夜のことは思い出せる。悲惨な夜だった。狂ったように泣き笑い、そして薬を飲んで寝た。その証拠にずぶ濡れだった服や髪は汚れたまま乾いており、ベッドを汚していた。窓には、朝日を受けてキラキラと光を見せる硝子片や、割った薬瓶があった。しかし、二粒の時のような起き抜けの幸福感や、三粒の時のような幸福な夢はなかった。

 これはどういうことだろう。

 ヘレンは半ば寝惚けているかのような気分で首を傾げた。

 するとドアが叩かれた。激しいノックにも反応出来ずにいると、部屋のドアが開けられた。


「ヘレンさん!」


 ドアを開けて勢い付いて部屋に入ってきたのは――、マイクだった。ヘレンは目を見開いて固まった。

 マイクは血相を変えてベッドに近付き、ヘレンを抱き締めたのだ。


「ああ、よかった……!」


 そのきつく温かい抱擁にヘレンは目を白黒させた。耳元に聞こえるマイクの声や嘆息はヘレンが初めて感じるものだった。


「マイク、あの、これはどういう……」

「君が店に来ないから、俺はすごく心配したんだよ」


 マイクは一度ヘレンから身を離し、彼女の瞳を真っ直ぐ見つめた。ヘレンは自分が見られていることをようやく意識し、自分の姿を思い出した。服は汚れたまま皺くちゃで、自慢の黒髪も今日ばかりは整っていない。慌てて手櫛ですくが、すぐに綺麗になるものではない。ヘレンは羞恥で顔が赤くなった。

 どういうことなのか、まるでわからない。ヘレンは強く注がれるマイクの視線に、目を落とした。

 脳裏に昨夜の記憶が過った。

 また自分は誑かされるのだろうか。


「私の心配なんてするわけないわ」


 思ったと同時に、ヘレンの猜疑心は口からそのまま出た。マイクを上目で見る。

 マイクは困惑していた。わからないと言わんばかりの純粋な表情に、ヘレンはまた自身の腹に火が点るのを感じた。


「あんた、店長の姪とできているんでしょ! 私は知っているのよ! 馬鹿にしないで……!」

「それはちがう!」


 マイクは心外だと言わんばかりの大声を出し、ヘレンの肩を掴んだ。


「店長の姪は、店長に無理矢理紹介されただけですよ! 昨日はただ彼女を家まで送っただけ。俺も困ってたんだ!」


 ヘレンはまた呆然とした。マイクの声色は嘘に聞こえないほど迫真だった。

 マイクの顔がずいとヘレンに近付いた。


「疑わないでくれ。俺が本当に愛しているのは、ヘレンさん。あなたなんだ……!」


 ヘレンは、生まれてこのかた聞いたことのない、熱い男の声に固まった。活力を奪った氷のような絶望感が溶きほぐれていくようだった。溶けた氷は、ヘレンの目から涙となって溢れていった。


「私たち……、愛し合っているのよね?」

「そうですよ、ヘレンさん。俺たちは、愛し合っているんです……!」


 その言葉が合図だった。

 愛し合う二人は抱き締めあった。互いに涙を流し、互いの温度を確かめあった。実感を伴った愛情にヘレンは胸が熱くなった。

 もう二度と孤独や不安から来る災難に苛まれることはない。ヘレンはちらりと窓際を見た。

 割れた薬瓶と硝子片がキラキラと輝いていた。



 それから一年後。

 ヘレンはマイクと結婚した。

 やはり店長は目にかけていたマイクと自分の姪の仲を結んで、彼等に店を継がせたかったようだ。しかし、一年かけてヘレンとマイクは店長を説得し、そしてようやく仲を認めてもらえた。

 今宵は店の常連客たちを集めて、ヘレンとマイクの結婚パーティーとなった。ヘレンは多くの人々からの祝福を受けて、マイクと共に生きることを宣言した。

 店長と彼の姪も参列した。彼らは複雑そうな表情で愛し合うヘレンとマイクを見て、何やら話していた。内容までは聞こえなかったが、悔しげにも見える彼らの様子は、ヘレンにとっては幸せの光景となった。

 パーティーにはあの薬を提供した店主リコリスと店員も参加してもらった。あれほど苛立ちを感じていたはずの彼女らの涼やかな笑みを、ヘレンは晴れやかな笑みで受け流した。そもそも彼女の薬のおかげで、こうして幸せになれたのだ。憎しみはない。ヘレンが小さく頭を下げると、リコリスは深い笑みと盛大な拍手をヘレンへ送った。美女の拍手は合図となり、パーティーに来ていた誰もがヘレンに向かい温かな眼差しと拍手が注がれた。優越感はヘレンを蕩けさせた。

 ヘレンの幸せはそれでは終わらなかった。

 翌年、ヘレンは第一子を出産した。年齢を考えると危険な出産であると言われたが、そんなものは杞憂だった。生まれたのは可愛らしい女の子だった。利発で愛らしく、目にいれても痛くない。幸せの象徴をヘレンとマイクは大切に育てた。

 第二子第三子も生まれ、育ち、彼らは全員しっかりと大きくなっていった。時には病や苦難が家族を襲ったが、家族はそれを乗り越えて、幸せに絆を育んでいった。

 人生とは早いものね。

 ヘレンは窓辺に座って微笑んだ。日当たりの良いそこをヘレンは気に入っていた。

 子供たちも全員独り立ちをし、マイクと二人でやってきた店も畳み、二人は余生を過ごしていた。

 マイクは老いても愛嬌のある柔らかな表情でヘレンを見つめていた。

 ヘレンはマイクを見た。

 あの激しい感情や恋愛から始まった一生は、ようやくここまでやってきた。薬なしでも眠れるようになってからは、本当に濃厚で幸せな日々だった。


「どうしたんです、ヘレンさん」


 相も変わらず、マイクはヘレンをそう呼ぶ。でもそれがヘレンにはしっくり来ていた。可愛らしくも感じる。ヘレンは吹き出すように笑い、首を振った。


「……あっという間だったわね」

「そうでしょうかね」

「私ね、あなたの愛に触れなければ、きっとどん底のままだったわ」


 ヘレンは目を閉じた。長い年月はあの日の惨めな冷たさを忘れさせた。手から溢れ落ちた水ほども残っていない記憶だが、間違いなく自分の人生の分岐点であったとヘレンは思った。

 日当たりの良い窓辺は、妙に眠くなった。


「なんだか……寝てしまいそうだわ」


 ヘレンは薄目を開けた。マイクがブランケットを持って近付いてくる。ヘレンは思わず頬を緩めた。

 優しいひと。

 ヘレンは微睡みに抗えずに目を閉じた。

 窓辺に、あの日の硝子片を見た気がした。

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