第八話『私が眠れる、ちゃんとした睡眠薬を出してちょうだい』03
――朝の訪れを感じて、今日もいつものように、ゆっくりとヘレンは目を開ける。本日の天気は生憎の雨模様であったが雨音にさえも心が踊る。雨の日になると必ず起きていた頭痛もまるで感じない。
鼻歌混じりに朝の支度をする。自慢の長い黒髪に丁寧に櫛を入れて、その滑らかさにうっとりとする。湿気の多い日だというのにうねることすらない。何度も手でそれを確かめて満足すると、ヘレンは朝食を取ることにした。
いつも買っている安いユドルパンを慎ましい量に切り分けて、安いハムとチーズと共に食べる。
ああ! なんて美味しいのかしら……。
ヘレンは何とも言えぬ多幸感に包まれながらそれを味わった。少し前まではこのパサついたパンも臭みのあるチーズも嫌々食べていたのだが、よぉく味わえば充分に楽しめる味だったことを知った。味への不満からついつい食べすぎていたが、それもなくなった。そのおかげか、身体の線も美しくなった気がする、とヘレンはほくそ笑んだ。
淹れた茶も薄いはずが、感覚の研ぎ澄まされた鼻はその茶葉の香りをしっかりと捉えて、ヘレンは出勤前の幸せを満喫していた。
身近にある小さな幸福に気付けるようになったのは、あの丸薬を二粒飲むようになってからだった。日常から苛立ちが消えたのだ。そこからヘレンに余裕が生まれた。暫くすると、職場での扱い方も変わっていった。あの店長ですら当たりが柔らかくなったのだ。マイクとの関係は中々進まないが、ヘレンはマイクがただ息をしているだけで幸せになれた。同じ空気を吸えているのだ。マイクもきっと同じ気持ちだろう。
そして、あの丸薬を三粒飲むようになってから、毎晩幸せな夢を見るようになった。自分が力を発揮し、誰からも一目置かれるようになる夢。自分の正しさを勇ましく主張し、悪しきを倒す痛快な夢。念願の自分の店を持ち、それが成功する夢。誰からも愛される夢……もちろんマイクにも。
かつて見ていた惨めな夢や現実味の薄いものとは違う。幸福で成功体験にも近い夢はヘレンに自信をつけさせた。
夢も現も、幸せに包まれたヘレンに怖いものなどなかった。
こんな素晴らしい効能を教えてくれなかったリコリスに僅かな怒りは沸くものの、長くは続かない。あんな怪しげな商売をしている女などに感情を向けるなど勿体ない。
ヘレンは仕事に向かった。赤い傘を雨空に掲げる。目が眩むような赤さにヘレンの心が弾んだ。共同住居の入り口に広がった水溜まりを軽快に飛びこえ、軽い足取りで道を歩きだす。
道すがら、会う人達は揃いも揃って雨に俯いている。しかしヘレンが通りすぎると、誰もが彼女を見た。その目が自分を羨むように見ているような気分にもなる。それをヘレンは優しく微笑み会釈していった。
仕事もどう立ち回るのが正しいのか、ヘレンはよく理解していた。夢で何度も『成功していた』通りにやればいいのだ。よくよく思い返せば、以前の自分は確かに至らなかった。相手が望むことを先読みして行動する。今は当たり前のことだが、以前は――特に眠れなかった日々では――そんなことを考える余裕もヘレンにはなかった。それでは人から小言を言われても仕方がない。ヘレンは店の誰よりもてきぱきと行動した。三粒の薬で見た夢には、店長より率先して働き、この喫茶店が自分のものにする夢もあったのだ。
外の雨足は時間と共に強くなっていった。常連も来ないまま閑散とした店には雨音とヘレンの動き回る音だけがあった。
店長は咳払いをした。
「……あー、今日はもうマイクもヘレンも帰っていいよ」
その言葉にヘレンは目を輝かせた。
「あらやだ。お気遣いありがとうございます店長。なら、そうさせてもらいます」
上機嫌な返事をして、ヘレンは早々に掃除を切り上げた。欲を言うのなら、もっとしたかった。なぜならこの店はいつか自分の物になるのだから、大事にしなくては。しかし、物事には優先順位がある。今日はマイクと一緒に帰ることが許された特別な日なのだ。逃す手はない。
雨が吹き付ける店先の看板を下げてきたマイクに、ヘレンは目配せをした。マイクが雨の滴る前髪を掻き上げて首を動かす。それが頷きであるとヘレンはわかった。
マイクはそれ以上は何も言わず、店長に顔を向けた。
「店長、俺はもうちょっといますよ。明日の仕込みもあるし。それに、ほら……」
「あーそうかそうか。そうだった。うっかりしてた。じゃあ残ってるといいよ」
二人の会話を聞いてヘレンは目を見開いた。まさに帰り支度に向かおうとしていた足が止まる。
「ヘレンは帰っていいからね。気をつけて帰るんだよ。お疲れさん」
「またね、ヘレンさん」
背後にかかる言葉の容赦のなさにヘレンは困惑したが、また笑みが浮かぶ。
そうだ、マイクは照れ屋だった。確かに夢の中ではもう少し慎ましく、一緒に帰っていた。店長には秘密の関係なのだから、店を出るタイミングをずらせと。だから、マイクは「またね」と言ったのだ。またあとで、と。
ヘレンは振り返り、小さく会釈をして軽い足取りでその場を離れた。
雨足は強かった。裏手から出て、真っ赤な傘を闇に向かって勢いよく広げる。厚い雲が月とエルクトゥルスの星を隠しながらも、空をいつもよりも僅かに明るくする。街灯の明かりは雨でより一層柔らかさを増して幻想的にも見えた。
ヘレンは店が立ち並ぶ通りの向かい、街灯の下でマイクが店から出てくるのを待った。
待つことに苦はなかった。傘に叩く雨音すら、ヘレンには軽快の音楽に聞こえた。そして、街灯の下で赤い傘を差して愛する人を待つ自分を想像し、期待に頬を緩ませた。ヘレンの前を相合傘で寄り添う男女が通りすぎる。かつてなら歯噛みして苛立ったそれも微笑ましく思う。未来の自分を見たとヘレンは確信した。
通りの向こうで、徐々に他の店の明かりが消えていく。マイクはまだ出てこない。傘を差しているとは言え、雨が次第にヘレンの熱を奪っていった。しかし、ヘレンは平気だった。
マイクが遅いのはきっと店長のせいだ。何か話し込んでいるに違いない。マイクは切り上げようとしているのに、空気の読めない店長が店の相談でもしているのだろう。ヘレンにはそれが見えるかのようだった。
ようやく店の裏手のドアが開いた。ヘレンは顔を輝かせた。
マイク! 私はここよ!
胸を張り、赤い傘を可愛らしく見えるように差す。店から出てきたマイクがすぐ気付くように一歩前へ出た。
――そして、足を止めた。
マイクが傘を持って店から出てきた。隣には見知らぬ若い女がいた。ヘレンは目を瞬かせた。
マイクが傘を開く動作が、やけにゆっくりとして見えた。目に焼き付くかのようだった。
赤い傘だった。一目で女性物と分かった。
マイクがその赤い傘を差すと、若い女は彼の腕にそっと己の腕を絡ませて寄り添った。マイクの傘を持つ手が女の方へ傾いた。
店の裏手のドアから店長も出てきた。
「遅くなっちゃって悪いね、マイク」
「いや、俺の相談が長くなったせいですから」
「こっちも上手くやるよ。君も姪をよろしく頼むよ」
ヘレンに背を向けているマイクと女は勿論、店長もまるでヘレンに気付いていない。街灯の下に立ち尽くすヘレンを置いてけぼりで、彼らの会話は続く。まるで舞台と客席のようだとヘレンはぼんやり思った。
「まだもう少し先の話しになってしまうけど、この店は君たちに残すつもりなんだからさ」
「いやいや、まだ現役でいてくださいよ」
「早すぎるわよ、おじさん」
雨音に掻き消されずに、彼らのやりとりはヘレンに届く。自分には何一つわからない話題で彼らは幸せそうに笑いあっていた。
ヘレンは自分の足元に目を落とした。雨の冷たさが足先からじわりじわりと上がってくる。
「じゃあまた明日もよろしく」
「はい、また明日」
「おじさん、またね」
若い男女は身を寄せあって一つの傘に入り、去っていった。それを暫く見送った店長も、やがて店の中に姿を消した。暫くすると店の明かりも消え、通りに並ぶ店は緞帳を落としたかのように静まり返った。
街灯の下、ヘレンはただ立ち尽くしていた。




