第八話『私が眠れる、ちゃんとした睡眠薬を出してちょうだい』02
恥をかかされた!
ヘレンは怒りで腹を満たして自宅へ戻った。強くドアを閉めれば、隣室から苦情の怒声が聞こえ、ヘレンも同じように怒声で、しかしそれ以上に捲し立てた。腹の底から火を吹き出すのではないかと思うそれに、隣人が押し黙れば、ようやくヘレンは少しだけ気をよくした。しかし、それも焼け石に水であった。
古びたランプに火を灯し、小さな一人用のテーブルに、薬が入った紙袋を置いて勢いよく椅子に座る。歩くだけで軋む床とミシミシと情けない悲鳴をあげる椅子にも、ヘレンは苛立った。
紙袋から薬を取り出し、強く睨み据える。小瓶の中で微かな光沢を見せる緑色の丸薬が、ほんの少し可愛らしく見えてしまったことにも腹が立った。
リコリスへの黒い感情がいつまで経っても消えない。いっそ今すぐ魔法協会へ出向いて、この薬とあの女にされたことを訴え出てやろうか。ヘレンは自慢の髪を掻き乱した。
しかし、同時にあれが本当に寿命を奪い取られた寒気だったのだとすれば……。
ヘレンは長く細く息を吐き出し、――それを飲むことに決めたのだった。
はっと目を開ける。
窓から差し込んだ日の光が実に爽やかなことに、ヘレンは混乱さえした。
間違いなく、朝を迎えていた。今しがた、苛立ちのままベッドに横になったと言うのに。久方ぶりに感じる快眠の気配に、ヘレンは首を振って、自身の意識をしっかりさせようとした。そうでないと、あのムカつく女の薬をすぐにでも信じてしまいそうになるからだ。
しかし、そんなことせずともヘレンの頭も身体も、いつも以上にしっかりしていた。
朝を知らせる鐘の音が聞こえる。普段であれば、寝不足の頭痛に響くそれが、心地よく響いてくる。ヘレンは窓を開け放ち、朝の澄んだ空気を身体に受けた。
それから、ヘレンは毎日必ず薬を飲むことにした。飲んだあの日から、確かにヘレンの眠りは劇的に良くなり、日中も意識がすっきりしていた。
しかし、これほど『しっかり』しているというのに、職場の店長と常連客は小言を言う。彼らに染み付いてしまったレッテルを取り去りたい。ヘレンは険しい形相で仕事に取り組んだ。
ヘレンの職場――喫茶店の店長と常連客の声が聞こえてくる。
「あんな無愛想なウエイトレスなんてろくでもねぇよ、店長さんよ。イライラしてるかボーッとしてるかで、しかも豚みてぇだ。最低だよ」
「やー、すみません。入ってきた頃はやる気ある子って思ってたんだけどねぇ。もうかなり長く勤めてるから辞めさせにくくてねぇ」
「雇うだけ無駄だって、あんなの。新しい若い子いれた方がいいって」
「うーん。前よりはイライラも減ったようだけどねぇ」
コーヒーを沸かす音と共に聞こえる会話が、ヘレンは酷く苛立たせた。
店長がまさか自分を辞めさせようとしているとは。これだけ自分はこの店に貢献してきたというのに、若くないから辞めろとは女性蔑視にも程がある。ヘレンはテーブルを拭きながら歯を噛み締めた。
するとそこへ、唯一の同僚である若いコック兼ウエイターのマイクがやってきた。
「お客さん、その辺にしておきませんか?」
冗談めかした声色で話しかけるマイクは、若く凛々しい姿をしていた。光沢のある金髪と甘めの垂れ目がとても魅力的であった。ヘレンは聞こえないふりをして掃除をしていたが、ついつい気もそぞろになる。
彼の心地よい低めの声がヘレンの背後を通り抜ける。
「それに、最近は婦人会の方々の運動も盛んなようですよ」
「はんっ! ババアが揃ってお偉いこって。やることねーからしょーもねーことしてんだ。自分たちは男を指差してはヒソヒソ陰口叩いてるくせによ。おあいこじゃねーか」
「まぁそうなんですけどね、でも彼女たちに逆らうと何かと面倒じゃないですか」
「違いねぇ。婦人会から目をつけられたら、俺はかみさんにめちゃくちゃ怒られる。小遣いも減らされて、ここにも来れなくなっちまう」
常連客が苦笑混じりにそう言った。
こんなやつにも配偶者がいるのだからゾッとする。ヘレンは顔をしかめた。
「おい、ねーちゃん」
背中に声をかけられ、ヘレンは驚いた。しかめていた顔を辛うじてむっつり程度にして、振り向く。
常連客が財布から小銭を出し、店長に渡しながらヘレンをみていた。
「悪かったよ。でももうちょい愛想よくしろよ。仕事だろ」
小銭を受け取りながら店長はヘコヘコと頭を下げた。
「すみません。私からも言っておきますので」
そう言う店長を苛立たしげに一瞥し、ヘレンも頭を下げた。本来であれば罵声で捲し立てたいところだがヘレンはぐっと堪えた。自分はまともな大人の女なのだから、……ヘレンは腹のうちでそう何度も唱えて、客が去るまで頭を下げきった。
「ヘレンさん、災難でしたね」
マイクの柔らかな声にヘレンは相好を崩して顔を上げた。
「ありがとう、マイク」
振り返り笑みを向ければ、マイクはそれ以上は何も言わずに手を振って仕事に戻っていった。ヘレンはそれをニヤニヤしながら見送った。
マイクがとても照れ屋であるとヘレンは知っていた。いつも何かあれば助けてくれるし、一日に二言三言の会話を交わすこともある。十も年上の自分に対してきっと遠慮もありながらも好いてくれているのだと、ヘレンは確信していた。焦れったくなるような距離感に、もっと親しくなりたいと常々思ってはいるが、彼を男として立てるためにヘレンは我慢していた。
今日もこうしてマイクに優しくされたという事実にヘレンは僅かに気を良くした。
しかし店をいつ辞めさせられるかわからないという不安に、淡い心地よさも霞んでいった。もしそうなったら、マイクには会えなくなり、そして収入が絶たれる。
その夜、ヘレンは薬を二つ取り出して、しばらくそれを眺めていた。
一粒しか飲んではいけないとは言われていない。一粒でこれだけの快適な睡眠が得られるのであれば、二粒だとどうなるのだろうか。もしこれでもっともっと元気になって、店長を見返すことが出来たら、仕事を辞めさせられずに済むかもしれない。マイクだってもっと自分に近づいてくれるかもしれない。
ヘレンは手の中に転がる二粒の薬を、水と共に口の中に放り込んだ。




