第五話『一ヶ月でもいい。彼女に人としての幸せな最期の時を過ごさせたい……』06
テュイが寝静まった頃にギーはこの家を抜け出して、村の他種族向けの宿を片っ端から尋ね、リコリスを探した。今晩はここに滞在すると言ったがもういなくなっているかもしれない。恋人を待たせていて道中を急ぐほどだったのだから。
しかしギーの不安を嘲笑うかのように、リコリスは高い宿の一等部屋で優雅に本を読んでいた。
まるでギーが訪ねてくるのを待っていたかのようだった。
「どうなさいました、御客様? 私の仕事は終わったと思いますけれど」
笑うような声をかけてくるが、リコリスはギーを見ようとせず、本から目を離すことはなかった。
「折角の恋人との最期の一時を無駄にして、夜更けに息を切らせて他の女の部屋に訪れるなんて、何かお困りなのかしら」
リコリスはリラックスした様子で、組んだままの脚を揺らしている。
この女性はすべて知っていたのではなかろうか。ギーはそんな風に思いながら、頭を深く下げた。
「薬をください。お願いします。彼女の木化を治す薬を」
「あら御客様。それは無理ですわ」
ぱたん、と本を閉じる音が響いた。
「処方箋の内容をお忘れになりましたか? 治療薬との併用は出来ませんわ」
ギーは絶句した。
そうだった。処方箋にそう明記してあった。
足元から崩れ落ちそうになる。それを唇を噛み締めて踏ん張り、ギーは頭を下げ続けた。
「では彼女が苦しみなく眠るように息を引き取れる、そんな薬を――」
「安楽死をさせる薬?」
くすくすと笑う声が、ギーの下げた頭に降り注ぐ。
「延命させるために同じ寿命まで支払った御客様が今度はその人を殺す薬を欲しがるなんて、一体どんな心変わりですの?」
リコリスの嘲笑に身体が震える。それでもギーは頭を上げなかった。
「理由はともかく、それも無理ですわ。私はこれでも一応は登録された魔法使いで、正当な薬師。この場で処方外の魔法薬を提供するということは違法。ましてや、それが人を殺す薬など、とんでもない大罪ですわ」
その通りだ。ギーはぐうの音も出なかった。下げた頭が重たく感じ、天地が歪むような眩暈が彼を襲った。
リコリスはしゃがみこんでギーの顔を覗き混んだ。
「意気地無しの坊や。もう決めてしまったのだから、予定通りにあの子との最期の時間を大切になさい。それが出来ないのなら、貴方自身の手で決断を下しなさい。それはどちらも貴方にしか出来ないことよ」
リコリスのその口調は柔らかく、表情も含め、まるで子供を諭しているかのようだったが、不思議とギーには先程までのように馬鹿にされているようには感じなかった。
がくりと足が崩れる。ギーは虚脱感に身を委ねた。
その彼の脇に、リコリスは手を差し込んだ。出立時に馬に乗せた時のように抱き上げられたが、ギーは抵抗もしなかった。
そのまま投げ捨てられるかのように、ギーは部屋の外に追い出されたのであった。
最後の時間は苦悩の日々だった。
テュイはあの日以来、一度も泣くことなく、ギー達と過ごした。無理をしているのは目に見えてわかったが、ギーがいくら気遣ったところで弱音は吐かずに笑顔を見せ続けていた。彼女がそう気丈に振る舞う以上、ギーも嘆くことは許されなかった。すべて自分の望んだことだと言うのに、毎晩のように眠るテュイの姿を見ては、選択を迫られた。
幸か不幸か、リコリスの提供した薬の効果は確かで、その代わり本来よりも長い時間、ギーは苦悩し続けることになった。
テュイの住む家には毎日のように誰かが訪れていた。最初の頃は見知らぬ村人たちが次々にお祝いにやってきたのだ。彼等は一様に木化するテュイを拝み、めでたいと言うのだ。テュイはもう慣れていたのだろうか。笑みを浮かべてやってきた人々に感謝の言葉を返していた。ギーはそれを見る度に黒い気持ちに胸を支配されそうになった。
やがて予定よりも木化の進行が遅いと知られると、今度は長老をはじめとした村人たちや主治医に心配されるようになっていった。
しかし、テュイの木化は確かに進行しており、日に日に彼女は起き上がることさえも出来なくなっていった。
そして、とうとうその日がやってきた。リコリスの言った通り、薬を飲んだあの日から五十日目のことだった。
テュイが不意に、
「ああ、もうだわ……」
とぽつりと呟いた。それは小さな声だったが、同じ家にいるギーと彼女の両親にははっきりと聞こえた。
三人が慌てて駆け寄ると、テュイの身体から伸びている小さな根が服さえも突き破り、意思を持っているかのように、うねうねと地を探しているのが見えた。覚悟していた筈のことだったとは言え、ギーは言葉を失った。
テュイの笑みは気丈にも変わらずだったが、その目には諦めの色しか映していなかった。
「……お母さん、お父さん。今までありがとう。……ギー」
テュイの目がギーを向く。その目にギーは罪悪感でいっぱいになった。
「ごめんね。でもありがとう。今日まで生きられたのはギーのおかげよ。あの薬師さんにもありがとうって伝えて」
その言葉は本当なのか。本当にそう思ってくれているのか。そんなことないはずだ。自分のせいで苦痛の時間を無為に増やしてしまっただけではなかったか。ギーはそう聞きたかったが、言葉にならず、ただ頷いた。
テュイは目を閉じた。
「……さて、笑ってなきゃ。だって、最期の顔がずっと残っちゃうもの」
震える声で冗談めかすテュイ。痛々しさにギーは歯を噛み締めた。
「……さようなら。ありがとう」
間もなくしてテュイはぴくりとも動かなくなった。代わりに動いていた根は急速に成長していく。根付く場所を探しているのだ。
それから村人たちとテュイを儀礼用の担架に乗せ、ギーは愛する恋人を運び出し、予定通り、滞りなく、彼女をこの地に植えたのだった。
誰も彼もが喜びの声をあげる。テュイの両親ですら悲しみよりも、立派に役目を果たした娘への自負や安堵があった。
ただ一人、ギーだけ深い悲しみと後悔に苛まれていた。




