第五話『一ヶ月でもいい。彼女に人としての幸せな最期の時を過ごさせたい……』03
店を出て、空を仰ぎ見て外の空気を吸い込む。背後で閉まったドアから小さく鈴の音が聞こえた。都市の狭い空に一羽の鳥が飛び去った。
ギーはほんの少し振り返り、店の看板を見た。
店は確かに存在していた。手の中には先程署名し渡された処方箋がしっかりとある。
夢ではなかったのだと思い、自然と肩の力が抜けた。しかし、すぐさま背筋を伸ばし、小走りで滞在中の宿に急いだ。
あの美しい店主は明日にでも出発することを約束してくれた。自分も支度をしなくてはならない。思いもよらぬ早い帰郷に心拍は跳ね上がる一方だった。
部屋で少ない荷物をまとめている内にその興奮は冷めるが、希望が消えることはなかった。不思議と貰った処方箋を見ると、恋人が絶対に助かるのだと確信出来るかのようだった。明日の待ち合わせ場所に来ない可能性も、詐欺の可能性も、色々思い浮かんだが、それでもギーには不思議とあの店主を信じることが出来た。
翌日、待ち合わせ場所に行けば、ギーの信じた通り、あの美しい店主がいた。
ただ、姿だけは思い描いていた通りではなかった。
彼女は昨日の店で会ったときの薄絹のような艶やかな衣裳とは代わり、しっかりとした革の旅装束を身に着けていた。羽飾りのついた帽子が凛々しい。長身の男装麗人は群衆の中でもひどく目立った。街を出入りする誰も彼もが馬と佇んでいるだけの店主を見ていた。しかし見ているだけで、そこに透明な壁があるかのように、誰も彼女に近付かなかった。
鋭利なほどな美貌は人を寄せ付けることがなく、人を惹き付けるのか。ギーはそんな風に思いながら背負い荷を担ぎ直し、店主に近付いて行った。
「おはようございます、御客様」
「おはようございます、リコリスさん。おまたせしました」
微かな優越感を持ったことはなかったことにし、ギーは店主――リコリスを見上げた。一途に恋人を愛しているし、やましい気持ちがないのに、妙な気持ちになってしまうことに心中で苦笑してしまう。
誤魔化すかのようにリコリスが手綱を持つ馬に視線を移した。
「綺麗な栗毛の馬ですね。馬はお借りしたんですか?」
「いえ、私のものですわ。さぁ、行きましょうか」
「あ、はい……って、ええ!?」
言うや否や、リコリスはギーを軽々と抱き上げた。脇の下に差し込まれた手と浮遊感にギーは甲高い声をあげた。傍から見れば美人が女児を抱き上げているだけだが、本人からすれば知り合って間もない妙齢の女性に急に持ち上げられたのだ。羞恥が全身を駆け巡った。
「あ、あの!」
「少々我慢なさってくださいませ、御客様。恋人様の為に」
抵抗も虚しく、馬に乗せられ、ギーは顔を伏せた。頭についた白百合が僅かに萎れたような気がした。背後にあのリコリスが馬に跨った気配と身体が密着する感触があったが、ギーにはそんなことどうでも良くなっていた。
旅は非常に順調で、かつ急ぎ足だった。休みも最低限で、男のギーも尻が痛くなり疲れるというのに、リコリスは変わらぬ様子だった。
「急いでくださるのは嬉しいですけど、休まないと後が辛いのでは」
様子は変わらぬが無理をしているのではないかと心配になり、ギーはリコリスを見た。しかし、リコリスは先を見据えたまま、
「御客様が疲れたのでしたら」
と静かに答えた。そこに嘲りなどはなかったが、そう言われれば男のギーは黙る他ない。疲れはするが、絶妙な頃合いでリコリスは休憩を挟んでくれるのだ。すべてギーに合わせるかのようだった。
それでもギーの都合を無視するかのような旅の行程だった。
「……なんで急いでいるんですか? 私はありがたいですけれども」
「御客様の為ですわ」
微笑みと同時に息するかのような返答があった。リコリスはいつも通りの笑みであったが、その笑みが僅かに苦笑に変わったことにギーは気づいた。
「……と言いたいところですが、私も恋人を待たせていますの。お互い早い方がいいでしょう」
それを聞いてギーは腑に落ち、安堵した。
それと同時にリコリスに恋人がいたことにひどく驚いた。
誰かの物になるような女性に見えなかった。高嶺の花と言えば聞こえは良いが、誰も寄せ付けぬ孤高の狼のようにも思えたからだ。こんなにも才気も美貌も溢れ出て、まるで現実味のないような女性にも、心を許せる、何者にも代えがたい存在がいるのか。
「それは、急がなくてはですね」
自分も恋人の為に奔走し、ここまで来たのだ。気持ちはわかった。ギーはその旅の行程に何かを言うことはやめた。
続きます。




