幕間『あの時の先輩、すごく恥ずかしそうにしていましたよね』
外の看板を店内に入れると、リリーは「よし」と一声出して、それに向き合った。
怪しげな店内と相反して、どことなく丸みのある文字で書かれた『今月のオススメ』から下の一覧に、鉛筆――のようなペンを当て、ゆっくりと横に線を書くように動かした。すると書かれていた文字がほどけるかのようにバラバラになって看板から離れ、塵のように宙に消えていく。
「やっぱり、これ楽しいですね」
「そう? なら作った甲斐があったわ」
看板と消えてゆく文字を眺めたまま感嘆するリリーの背を、店主リコリスはカウンター席に長い足を組んで座り、小動物を眺めるかのような眼差しと薄笑いで眺める。
リリーは消えゆく文字を暫く楽しんでいたが、再びペンを構えて、看板に向いた。リコリスに背を向けたまま尋ねる。
「来月からのオススメってなにかありますか?」
「特にないわね」
「ほら、特別に作ったものとか」
「特にないわね。なんでも作れるもの」
「もうっ! 先輩!」
投げやりな答えに、リリーは振り向いて店主を見た。今しがたまで何も持っていなかったはずのリコリスの手には新聞とティーカップがあった。
「じゃあ適当に書いちゃいますよ」
「いいわよ。それを特別に作ってあげるわ」
新聞から目を離さずに、事も無げにリコリスは言う。リリーは腕を組んだ。
「じゃあ…………そうですね。季節的なもので、水でいきましょう。『放水薬』と『幻想水中音楽薬』と『睡眠さざなみ薬』、それと『水うさぎ薬』……なんてどうでしょう」
「面白そうね。良いわ、作っとくわ」
果たしてどんな薬なのか。知らぬもの達ならば即座に尋ねたくなるようなリリーの提案を、やはり気にするでもなく、ある種の無関心ささえも感じる声でリコリスは答えた。
リリーは嬉しそうに頷き、文字のなくなった看板に、提案した謎の薬の名前を書き込んでいく。ペン先にインクがついている様子もないが、やはり不思議と看板に文字が染み込んでいった。
真剣な表情で文字を書いているリリーの背に、声がかかる。
「……文字、間違っているわよ。『幻想水中音楽薬』の幻想の綴り」
「えっ」
指摘にリリーは振り返ってリコリスと、そして看板を見た。確かに間違っていた。慌ててペンでその文字を消し去り、書き直す。
「間違えないでね、子猫ちゃん。薬屋の店主がドジなんて、信用なくしちゃうから」
新聞から目を離さず、リコリスはくつくつと笑った。リリーは少し恥ずかしそうに身じろぎをした。
「この星の、この国の言語、ちょっと難しいです」
「そうね」
「気を付けます」
「気にしないでいいわ。教えてあげるから」
それを聞いてリリーはホッとした。そして、ふと思い出した。
「そういえば、昔先輩もありましたよね。私の課題見てくれていたときに、綴り間違い。あの時の先輩、すごく恥ずかしそうにしていましたよね」
かつて通っていた学院の寮での思い出の懐かしさに、リリーは胸が温まる感覚を覚えた。甘酸っぱさに口許が必要以上に緩む。
対してリコリスは新聞から目を離さず、薄笑いのまま答えた。
「そんなこともあったかしら」
「ありましたよ」
「そう」
ぱさり。
新聞を捲る音がやたら大きく、リリーには聞こえた。
「貴女と私では、やっぱり貴女の記憶の“鮮度”の方がいいのね」
リコリスの声色は何一つ変わらぬが、リリーはふと氷を突き立てられたかのような気分になった。しかし微笑みは崩さず、頷いた。
「そうですね」
そこまでがリリーに出来る精一杯だった。
指摘された綴りを直し、その顔を伏せたまま立ち上がる。
「先輩の飲んでいるお茶、まだキッチンありますか?」
「あるわよ」
「頂きますね」
小走りのような早歩きでカウンター奥のドアまで行き、リリーはドアノブに手をかけた。
また背中に声がかかった。
「気にしないでいいわ。仕方ないのだから」
伏し目がちにリコリスを確認すれば、彼女はやはり新聞から目を離す様子なく、綴り間違いを指摘したときと同じ口調でそう言った。
リリーは頷くとも謝罪したとも言えるような動作で頭を垂れて、店の奥に引っ込んだ。
リコリス以外いなくなった店内の入り口近くに、ぽつんと置かれたままになった看板。彼女はそれを 一瞥した。
すると、店の入り口のドアが独りでに開き、看板さえも外に出ていった。
ドアが閉まり、ついていた鈴が鳴る。
店内には誰一人、いなくなっていた。
『あの時の先輩、すごく恥ずかしそうにしていましたよね』(完)
営業時間外のリコリスとリリーでした。
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