第四話『私はこの店が所属する、南区第三商業組合の組長です』02
灰毛の狼だった。しかし、四足歩行のただの獣ではない。彼は人間と同じく二本の足で立っていた 。
立ち姿はかなりの大柄で、店の扉を小さく身を屈めて入ってくる。街の警備団の制服である黒い革鎧を身につけているが、服で隠れていない部分は雨水に濡れてびっちょりとした獣の毛に覆われ、ドアノブに掛けている手には鋭い爪もあった。人間と獣を混ぜ合わせたような人種、獣人だ。店にやってきた彼は狼の獣人だった。
昼間というのに暗めの店内で狼の丸い目が光る。そして彼は反射的に生理的な反応として、首を勢い良く振った。水の滴る顔が高速で動く。
「うわっ! ちょっと! ツィータさん!」
雨水を飛ばされたドロシーは怒った。身体や毛並みの分、かなりの水量が飛んできたのだ。非難の声にツィータと呼ばれた狼の獣人は動きを止めた。
「あ、悪い。大丈夫?」
「大丈夫ですけど、大丈夫じゃないです」
ドロシーが憮然と顔についた水を拭うのを、ツィータは屈んで覗き込んだ。そして、もう一人、女性がいたことに気付き、ツィータは慌てて身体を起こした。
「あ、そちらの方も、すみ、ま……」
ツィータの言葉は、リコリスの足、腰、胸元、顔……と、彼の視界が上がっていく毎に小さくなり、最終的に止まった。どうしたのかと思い、ドロシーはツィータと、そしてリコリスを見た。
リコリスは一切濡れていなかった。不意打ちのように大量に飛ばされた水を少しも被ってはいなかった。それどころか、床に滴っている水も彼女の手前に壁があったかのように、彼女の足元手前で不自然に途切れていた。
異様だ。飛ばされた水で化粧の一つでも落ちていたら可愛げあるものの、ドロシーには不気味でならなかった。
ツィータもそれに気付いたのだろうか。
ツィータはリコリスの顔をまじまじ見たまま固まっていた。
薄暗い店内に鈍い光が入る。それは一瞬だけだが、店主の人間離れした美貌に濃い陰影をつけた。雷だ。まだ遠いようで雷鳴は鳴らないが、天候は悪化していっているようだ。
ドロシーは棒立ちのツィータに声をかけた。
「ツィータさん?」
「お、お美しい……」
「は?」
ツィータから漏れた恍惚とした言葉に、ドロシーは間抜けな顔をした。雷鳴が獣のうなり声のような音で鳴る。
「お美しいお人だ……」
「は?」
雷鳴で聞き間違えたのかとドロシーは思ったがそんなことはなかったようだ。ツィータは惚けたままリコリスを見つめて同じ賛辞を繰り返した。ドロシーの顔が更に間抜けなものになる。
賛辞を受けている当のリコリスは表情を変えることなく微笑んでいるままだが、何処と無く無表情にもドロシーには見えた。
リコリスの赤い唇が動く。
「よく言われますわ」
「地に舞い降りた……いや、繋ぎ止められてしまった精霊のようだ」
「よく言われますわ」
「俺は金銀財宝なんて持ってないけど、きっと貴女はこの世のどの金銀財宝より光輝き、眩い……」
「よく言われますわ」
片や見たことも聞いたこともないほどの感極まりすぎた間抜けた声で、片やそういうオルゴールなのではと思うほど繰り返すだけのやり取りにドロシーは片手で頭をおさえた。髪の湿り気にもうんざりする。盛大にため息を吐けば、リコリスがドロシーを見た。
「子犬ちゃん。この人はどなた?」
その子犬ちゃんと言うのをやめろ。ドロシーはそう叫ぼうとしたが、それはツィータの大袈裟な動作によって止められてしまった。彼は我に返ったようで、跳ねるように背筋を伸ばし、敬礼したのだ。
「大変失礼しました! 俺はこの南区第三地区の警備団責任者のツィータ・ロルウェルと言います! 本日は挨拶に参りました! 今後とも末永くよろしくお願いします!」
敬礼もハキハキした喋りも、ドロシーの知っているものだった。実は別人なのではないかと不安になるほどだったが、どうやらそうではないようだ。
リコリスがドロシーに尋ねる。
「どういうことかしら、子犬ちゃん」
「その子犬ちゃんってやめてください」
「俺も犬とお呼びください」
「ツィータさんちょっと黙ってて!」
ドロシーは悲鳴のように叫んだ。普段の彼はもっと真面目でしっかりとした人なのに。ズボンから出ている尻尾はブンブン振られている。見ているだけで恥ずかしい。男というのはなんてスケベな生き物なのだろう。おおよそ年頃らしい憤慨がドロシーの頭を駆け巡った。それを口に出すのを必死に堪えて二人の間に割って入り、手で示した。
「リコリスさん、こちら、紹介にあった通りのこの地区の警備担当のツィータさんです。女性一人のお店と伺っていたので、念のため顔をあわせをしておこうと思ったので来てもらうように頼んでいたんです。何かあったときは彼を頼ってください。本当はしっかりした人なんです」
こんなにだらしのない人ではないです、と付け足さなかったのはドロシーの理性だった。リコリスはにっこりとした笑みを浮かべた。
「あら、ありがとう。子犬ちゃんはいいこね。ツィータさん、よろしく。リコリスよ」
「はい! 全力でこの店舗の警備をしますよ。よろしくお願いします!」
握手を求めるかのように彼は大きな手を差し出した。リコリスがそれに軽く触れるかのような握手を交わしただけで、根本から切れるのではないかと思うほど彼の尻尾は左右に大きく振れた。
「とても助かりますわ」
ドロシーから聞けば、リコリスのこの言葉は微塵もそう思っていなさそうな上部の愛想だけを掬いとったような響きだったが、ツィータは褒められた子供のように満面で得意気な笑みを浮かべていた。リコリスはそれ以上の愛想をふることはなく、軽く身を翻した。
「それじゃあ用事は済んだかしら?」
「あ、いえ。私の用事がまだです」
「まだあるの、子犬ちゃん」
どうやら子犬呼びは変わらないようだ。その度にいちいち怒っているのは体力の無駄遣いだ。ドロシーは一度だけ鼻をならし、切り替えた。
「来月の最初の祝日に『水霊祭』があるのご存知ですか?」
水霊祭は初夏に行う国の祭りだった。水霊を讃え、杯一杯分の水を人に掛け合い、その年の夏が日照り続きにならないように祈る。またこれから迎える夏の暑さを無事に過ごせるように願う日でもあった。雨の降りにくい地域などでは魔法協会が水霊を連れていき、水を降らせたりもする。
この領地のように干ばつに悩まされることのない街では後者の健康祈願の祭りの意味が強く、この街では多くの商店が水を使った商品を売る露店を出すことになっていた。南区第三商業組合も例外ではない。ただし、各組合から出せる露店数は決められており、露店を出す商店は事前に申請を出さなければならない。ドロシーはその事を確認しに来たのだ。
「ここは所謂薬屋さんでしょうから、水を使った商品も取り扱っていると思いまして、参加の意思を聞きに来ました」
「ふぅん。子犬ちゃんの宿も出店するのかしら?」
「うちは露店は出しません。ただ、この日の昼のうちの食堂で一品でも注文すれば、うちの庭で取れたハーブを使った茶を出すつもりです」
冷やしておいて。ドロシーはそれは言わないでおいた。『野兎の踊場亭』のように出店せずに、自分の店舗で参加するところも多い。露店を出せる条件は水を取り扱った商品があることなので、売るほどの物がない商店でも祭りの景気に乗りたいところはそういう工夫をする。衣類店は水霊を刺繍した物を売ったりもしている。露店でなければ自由であった。
「検討しておくわ。いつまでに申請をしたら?」
「来週中までです」
「わかったわ」
店主の鷹揚な返事を聞き、ドロシーは心中で安堵した。すぐに断られなかったのは良い。
この店主の言う通り、この地区の商店は寂れており、毎年水霊祭のこの地区の露店エリアはいまいちパッとしない。昨年同様出店せずに宿で済ませるドロシーには関係なかったが、客足が少ないことを文句を言う奴等もいるのだ。やれ、組合長が宣伝しないからだとか、組合長が子供だからだ、とか。
勝手に組合長にされたドロシーからしてみれば憤慨ものであるし、売れたいなら努力して商品開発をしろと思うのだが、正面衝突もあとに響いて疲れるので、喉元過ぎるまでまぁまぁと宥める他ない。
しかし、今年の水霊祭にもしこの魔法薬店が出店するのであれば、まず間違いなく人目は引く。この女に釣られて客が寄ってくれば、もしかしたら組合の他の露店もおこぼれを預かれるかも知れない。ドロシーにはそんな思惑があった。
「是非前向きに検討してみてください」
この店主がそれを喜ぶかどうかは定かではないが、ドロシーは下手にでて頭を下げた。頭をあげれば、無造作に結ばれて肩に垂れていた三つ編みが跳ねて、肩から落ちた。何故かツィータも続くように頭を下げた。
「是非! 俺、薬以外ならリコリスさんの商品買いに行くんで! いや、買わなくても行きます!」
「そう、ありがとう。……それで話はそれだけかしら?」
ツィータは見向きもせずに素っ気なく返すリコリス。横でショックを受けているツィータを尻目にドロシーは頷いた。
「それだけです。リコリスさんの方で困ったことがあればそのときに。それでは失礼します」
「俺もです! いつでもどこでもなんでも力になりますんで!」
すがり付くかのようなリコリスへの忠誠をするツィータの背中を押しながらドロシーは扉へ向かう。彼を先に外に追いやり、ドロシーはもう一度振り向いてお辞儀をし、踵を返した。
――冷たい手が店を出ようとするドロシーの腕を掴んだ。
急速に体温を奪われるような寒気に襲われる。ドロシーは咄嗟に振り払うことも振り返ることも出来なかった。動けなくなる彼女の耳元に吐息がかかる。甘くほんのり――嘘のように――温かかった。
「類い稀なる才能を持つ可愛い可愛い魔女ドロシー」
間違いなくリコリスの声だった。首さえも動かせない。ドロシーは前を――落ち込んだ様子で身を屈めて扉を通るツィータの背中を見たまま、その声を聞いた。ツィータの動きは異様なほどに鈍重に感じられる。初めて感じる強い恐怖に助けてと叫びたかった。しかし首同様、喉を震わせることも出来なかった。
「君の力になってあげる」
その言葉と共にドロシーの背中は押された。たたらを踏む。店と外界を隔てる扉の先に一歩足を踏み出せば、軒先から零れた雨粒が僅かに頭につき、そしてドロシーの世界が元に戻った。ツィータは雨の中立って店の方を振り返って会釈をし、リコリスはにこやかな笑みを浮かべ、動いた様子なく変わらぬ位置から手を振っていた。ドロシーの耳元で囁いたり、背中を押したりなど、出来ない位置であった。
「またいらっしゃい、ワンちゃんたち」
「はいよろこんでー!」
ツィータの元気すぎる間抜けな返事も今のドロシーには救いに感じられた。しかし、それも手を振るリコリスが視界に入れば、すぐに不安に変わる。ドロシーは確信した。
ばれてしまったのだ。よりによって、この得体の知れない女に。
――自分が、『違法魔使』であることが。
続きます。




