月下の子守唄
歌が聞こえる。
まどろみに浸っていた意識が急上昇し、自然と瞼が開く。扉のすぐ近くに椅子を寄せ、背を預けた体勢は仮眠を取り始めた時となんら違いはなかった。目を閉じるだけのつもりがほんの一瞬だけ深い場所まで意識が沈んでいたようだ。眠気はなく、頭の中がはっきりしていて心地が良いくらいだった。
その歌は窓辺から聞こえてきた。
普段よりも長い距離を移動し体は疲労を感じているはず。休息は大事だ。明りを消す前にも早めに眠るよう釘を刺しておいたはずだが、あまり効果はなかったらしい。
窓辺に椅子を寄せ、膝を抱えるように腰掛けた男がぼんやりと外を見上げていた。
晴れた夜空を仰いでいるように見える横顔。月明かりで薄っすらと照らされた目元は眠たげだ。時折ゆっくりと頭が前に倒れそのまま膝に顔を埋めてしまいそうになっている。しかし、その口元が微かに動き何かを口ずさんでいる様子が確認できた。
歌っている。歌を、口ずさんでいる。
耳に届く音階には聞き覚えがある。彼が幼い頃からよく口にするもので、それは時には鼻歌であったり気まぐれに楽器で奏でたりするものだった。おそらくこの曲はしっかりと声に乗せて歌うものではなく、何となく彼の気が向いた時に音として生み出されるものなのだろう。そういえば昔から旋律は知っているというのに曲名を聞いたことがなかった。
「センリ」
眠れないのか、寝るつもりがないのか。どちらにしろ声を掛けなければ彼は歌を止めないだろう。
小さな歌声が止む。とろん、と今にも溶けてしまいそうな眼差しがこちらを見る。視線が合うようで、どこか交わらない感覚に彼の意識が遠くを見つめているように思えた。
「シンファ」
「寝るんじゃなかったのか」
「起こしちゃった?」
「…久しぶりに聴いたな、その歌」
どことなく会話も噛み合わない。薄い靄越しに話をしているようだ。
無理矢理にでもベッドへと押し込み休ませるべきだろうか。嫌がるだろうし文句も言うだろうが、しばらくすればそれも寝息に変わるだろう。
シンファは僅かに悩み、言葉を選ぶ。
「眠れないのか」
夜も深まり人々のほとんどが寝静まった時刻。できることなら騒がずに済ませたいものだ。ここはセンリがすすんで休息を取るまで待つべきかもしれない。
第一、今の状態で眠らせても休めたとは言えないだろう。
「音が、うるさくて」
眠れそうにない、と答えるセンリの両目がゆっくりと瞬く。
左目の眼帯が外されていることから眠る意思があることは窺えた。センリは眠る時以外、極力眼帯を外さずに過ごす。彼にとって左目は見せたくないものであり、見られたくないものなのだ。
その左目を隠し守っているはずの眼帯を外しているということ。つまり、眠る意思の表れだ。
「頭の中に音が溢れてくるんだ、自分じゃどうしようもないくらい」
途方に暮れている声色は迷子になった幼子のようでもあった。行き先が分からず、頼るべき者もおらずただ呆然と自身の現状を受け入れられずにいる。
「歌って、音を吐き出して、吐き出し続けないとおかしくなりそう」
音を紡ぐことに秀でた一族に生まれ、その中で最も優れた歌い手であるセンリ。絶えず音を生み出せることは彼ら一族にとって絶対的な才能だ。しかし、その才能を持ち合わせることがセンリにとって幸福か否か。シンファには判断のしようがないことだった。
センリの顔にはっきりとした疲れがにじみ出ている。しかし、声だけは違う。
力強い歌声ではない。感情をぶつけるような激しいものでもない。だが、間違いなく耳にする者の心を捕える歌声だ。するりと入り込み、そっと掌で包み込むような、そんな歌。
たとえ小さな鼻歌であろうとも彼の歌は聴いた者の心を捕えて離さない。
才能という言葉ではおそらく生温い。シンファは幼い頃から共に過ごしてきてなお、センリの歌声をどのような言葉で表現すべきか答えを見つけ出せずにいる。
「父さんは昔、呪いだと言っていた」
センリが懐かしいものを見るかのようにふっと眼を細めた。
「その意味が分かるんだ。自分の中に音が溢れて、歌が巡って、その度に吐き出し続けるのに減ることはなくて。終わりが見えなくて、怖いくらい」
得てしまった才能ゆえに終わりを迎えることがない。際限がないということは聞く者によっては贅沢なものだと感じるだろう。努力では得られないものを持っておきながら何を言うのだと激昂する者もいるだろう。
だが、才能があるからこその苦しみも確かに存在するのだ。そしてその苦しみを理解できる者はそう多くない。
「嫌になるよ。嫌になるけど、嫌いにはなれない。これはおれにとって唯一のものだから」
「…いい加減寝ろよ」
「そうだね」
シンファは、できることなら理解者側に立っていたいと思う。センリには敵が多く、守り手の数が足りているとは言えないだろう。彼の盾であり、時には刃にもなりえるシンファがその筆頭に立つことはごく自然なことである。
しかし、シンファは自身を才能のある側の人間ではないと理解していた。
ゆえに理解者でいたいと願いつつも、真実の意味で彼を理解することは難しい。努力では越えられない不可視の壁があることをシンファは知っていた。
「最後に、一曲だけ」
才能を与えられてしまった彼の頭の中では延々とシンファが聴き取ることのない音が鳴り続けているのだろう。