9:婚約者は変わっている(アイライト目線)
「今のところは見逃してやる」
男はそう言った。
鋭い瞳は赤く光り、背後には……悪魔なんてとるに足らないほど禍々しい黒のオーラが燃え上がっている。なによりその腕には、ラシュカが抱かれている……ように見えた。
かすむ視界はさらに歪み、思考が乱れていく。
ラシュカ、僕の婚約者。
混沌とする意識の中で、彼女の姿がぼやけていく。
僕は一瞬だけ、意識を手放す。
子供の頃の夢を見た。
ラシュカと出会った頃の記憶だ――
十四歳になった僕に縁談が持ち込まれた。父上が見つけてきた話だ。
オフェリアン侯爵家の、天使に愛されし令嬢――そんな誰もが欲しがる彼女を僕の婚約者に選んだのは、単なる父親の愛情ではないだろう。きっと、兄より劣る僕に後ろ盾でもつけたかったのだろう。哀れみというやつだ。
謁見はあっという間に進んだ。
僕の人生は、何をしても比較対象がいた。べつに、僕が出来損ないといわけではない。
侍従も民草も、僕を「なんでもこなせる王子」と噂している。
たとえば、野営しながら隣国に遠征へ出かけられるくらい騎馬は得意だ。
剣術の大会では必ず優勝したし、試験では常に一位だった。魔法学では誰にも負ける気がしない。
ただし
唯一かなわない人がいた、それが兄だ。
兄は神童と呼ばれる天才児だった。
身体能力も頭脳も何もかもが完璧だ。非の打ち所がない。
舞うような剣術は誰の攻撃もかなわない。
新しい術式をいくつも完成させるほど、頭も良い。
そんな神童の弟が何をがんばったところで皆からは
「お兄様が素晴らしすぎるだけで、アイライト様も頑張られていますわ」
「お兄様がすべての才能を持っていってしまわれたのよね」
と、生暖かい声援を送られるだけだった。
父上も同様だ。
「お前は兄に比べると、まだ努力が足りないようだ」
徹夜で勉強した次の日、父上に言われた言葉だ。
「だから、お前は兄の補佐をしていれば良い。そら、近々お前に会わせたいご令嬢がいる。彼女なら不出来なお前のことも――」
比べられるだけの人生だった。
僕は永遠に、兄の劣化版なのかもしれない。
次の週、父上の命令で、僕は婚約者と会うことになった。
自慢ではないが、僕は女の子たちにもてた。理由は王家の血と、この容姿だろう。
兄の方が人気だったが、人気すぎる兄よりも、一段劣る僕で妥協してやろう……そういった女性も大勢いた。
彼女らは、上辺では僕をもてはやした。
兄と比較され笑われるのは腹がたつけど。これみよがしにお世辞を言われるのも気分が悪い。
正直な話、まだ婚約なんて考えたくなかった。
しかし、命令はぜったいだ。
僕は仕方なく、ラシュカ嬢と対面した。
キリッとしたエメラルドの瞳。やわらかそうな金色の髪……想像していたよりも美しい少女だった。
外面だけではない。
その立ち居振る舞いは、オフェリアン家の名が恥じないほど美しく洗練されていた。
僕は一瞬、言葉を失いかけたが……すぐに挨拶をした。
いけない、たかが綺麗なだけで、心を許すわけにはいかない。
とはいえ、ラシュカは他の令嬢とは違った。
まず、僕にお世辞を言わない。その分わずらわしくなかった。勉強のために本を読んでいても、ラシュカは他の令嬢のように邪魔したり、拗ねたりしない。むしろ興味深そうに本をのぞきこんでくるのだ。無駄な気を使う必要がなかった。だから僕は定期的に、ラシュカに会うことを了承した。
ただ、ラシュカはとても頭が良いようだった。魔力も大きい。さすがは天才とうたわれるだけはある。兄上に並ぶほどの才能を感じた。
「また、僕のほうが落ちこぼれか」
心は荒んでいった。
神童の兄をもち、天才の婚約者がいるなんて……男としてのプライドはズタズタだった。
僕の心はしだいにモヤモヤと曇っていく。婚約者に抱いてはいけない、嫉妬という気持ちさえ芽を出した。それは日に日に成長し、敵意となっていった。
しかし
「今度こそ、幸せな人生を送ってやるわ!」
「はああ、令嬢ってめんどくさいわねぇ。まだ社畜の方がマシだったかしら? そんなことないわよね、温かいご飯を出してもらえるし、楽しいし、今のほうが幸せよ、転生、サイコー」
と。
ラシュカは一人でいるとき、たまにおかしな独り言を呟いた。
僕は何度か、その場面に遭遇したことがある。最も印象的だったのが、ラシュカがこっそり魔法の練習をしていることだった。
「必ずみんなに天才って言われてみせる!」
影でこんなに努力していたのだ。
それを知った時、僕の心に曇ったモヤモヤが晴れて行った。
なぁんだ、ラシュカも僕と同じ。一生懸命がんばっていたんだって。
それを知ると、敵意はポッキリと折れた。
もし、こんなラシュカを見ることができなかったら。
もし、ラシュカに偉そうに振る舞われていたら。
僕は彼女を妬み、嫉み、恨んでいたかもしれない。
でも、実際はそうじゃなかった。
ラシュカも僕と同じだったんだ。お互い頑張っていたのなら、僕も負けていられないなって、どこか清々しい気持ちになった。
なによりも。
ラシュカは他の令嬢のように、僕を「王子」だと意識しなかった。
婚約者だというのに、視界にすら入れられてない気がしたけれど。
それでも、神童の兄を持つ王子としてではなく、ただのアイライトとして僕を見てくれた、唯一の人だと思う。
それから数年後、僕は王立学院に入学した。学院ではさらに努力をつんだ。
ラシュカが来るまでに立派な男になるつもりだった。それで、僕が婚約者なんだと意識させてやりたかった。
いよいよラシュカが入学してくる一ヶ月前となった。そこで事件がおこった。
兄が、隣国に留学したのだ。
優秀な学生を一年間勉強させるという、誰しもが憧れるプログラムだった。
僕はずっと前からそれに参加したくて、応募していた。それなのに選ばれたのは、応募すらしていなかった兄だった――
「もう二度とこんな思い、したくない」
僕は研究中の転移魔法を完成させることにした。学院の書庫にしまわれていた禁書目録を持ち出して、旧校舎で研究をし続けた。
たとえ怪しげな項目でもかまわない。とにかく僕は成果をあげて、自分の存在を示したかった。兄よりも、僕を認めてほしかったから。
ラシュカが入学してきたのは、研究が完成する前日だった。
二年見ないうちに、ラシュカは誰よりも眩しい女性へと成長していた。
「ますます美しくなったね」
その言葉に偽りはない。
なにより、僕はお世辞が嫌いだ。他の女性にはこんなこと、言わない。
ラシュカがAクラスになった。天使を召喚したのだ。天使は召喚されてすぐ、消えてしまったようだけれど……ラシュカは本物の天才だと、照明された瞬間だった。
先生たちは騒いでいた……僕は幸せ者だって。兄が神童で、婚約者が天才なのだから。
早く研究を完成させなければならない。
僕は次の日、研究を仕上げることにした。今度こそ上手く行く。朝から旧校舎におもむいた。期待に胸を膨らませ、魔法陣に詠唱を行った。
すると。
物々しい霧が現れた。扉だ、扉がある。冥界の扉だった。
失敗したのだ。扉の中から、恐ろしい悪魔が姿を現した。
悪魔は力を与えるかわりに、人の魂を食らうのだ。関わってはいけない。けど、逃げられない。そう悟った瞬間。
どこからか、鈴のなるような澄んだ声が――ラシュカの声が、聞こえた気がした。
なんでこんな時に、幻聴かな?
振り返ろうとした瞬間、黒くてモッフモフしたものが僕の頭にぶちあたった。
薄れゆく意識の中で、ラシュカの姿を見た。
ラシュカが、戦っている……?
僕に石をぶつけようとした悪魔。ラシュカは両腕を広げ、僕をかばおうとした。
あんなに細い体で。悪魔なんて召喚してしまった僕を、命がけでかばおうとした。
僕は兄ではないのに。ラシュカは必死に、僕を助けようとしている。
「ラシュカ、だめ、だ……」
僕はそこで意識を失ったのだった――
目が覚めたら、悪魔はいなくなっていた。
かわりに、悪魔より禍々しいオーラを放つ男が立っていた。ラシュカを――僕の婚約者を抱いて。
僕はイラッとした。
なぜお前が、僕の婚約者を抱いている……?
もしかしてラシュカを助けてくれたのか?
そう思い至って、怒りを沈める。
また一瞬、意識が飛んでしまったが……僕は頬をぶって現実に引きとどまった。
歩き去ろうとする男に、低くなる声を投げつけた。
「僕の婚約者から手を離せ」
いくら命の恩人でも、ラシュカは僕の婚約者なのだ。
今までとくに意識しなかった。けれど今、確実に分かる。彼女は僕の婚約者だ。他のやつに触らせたくない。
「……お前は、この女に敵意を向けていたんじゃないか?」
男はそう問い返してきた。だから僕は言ってやった。
「子供の頃はね。けれど今は違う。ラシュカは、僕の未来の妃だ。他の男に触れられているのは、我慢できない」
「そこまで言うなら、お前にラシュカが守れるのか見ていてやろう」
男は偉そうにそう言った。
人の婚約者を気安くラシュカ呼ばわりするな……胸の中でそう毒づく。
「もしラシュカを火刑にでもしたら……お前の魂は千年間氷漬けにしてやるからな」
そんなおかしなことを、男は囁いた。
「火刑? たしかに僕の魔力は、炎属性だが……婚約者を火あぶりにするわけがないだろう」
ラシュカは僕の大切な婚約者だ。今日、はっきり確信した。ラシュカのことは、僕が未来永劫大切にしなくちゃあいけないって。
男はラシュカを静かにおろすと去って行った。僕はラシュカに駆け寄る。ラシュカはまだ目を覚まさない。黙っていると本当に美人だ。
けれど僕は、黙っている君よりも、
令嬢としてふるまう君よりも、
魔法の練習をしてガッツポーズしている素の君が一番、好きだよ。
「ラシュカ……ねえラシュカ。起きてよ?」