10:悪役令嬢は決意する
「ねえラシュカ、目を覚ましてよ」
どこか甘えるような青年の声に、私はまぶたを持ち上げた。すぐそこに、息を呑むほど美しい顔があって、呑み込んだ喉に息がつっかえて窒息してまた気絶しそうになった。
「あ、アイライト様!?」
やっぱり美しい顔をしてらっしゃる。アイライト様は私が目を覚ますと、嬉しそうに顔をほころばせた。
「やあ、ラシュカ……どこも痛いところはない?」
「え、ええ……大丈夫ですが」
あれからどうなったんだっけ? もしや私、アイライト様の後をつけていたことが知られたの?
「す、すみません、アイライト様……」
「どうしてラシュカが謝るの?」
「だって、私」
「僕を心配して来てくれたんだろう。君を危険にまきこんでしまって、ごめんね」
「い、いえ……あの、悪魔は」
「赤目の人が追い払ってくれたよ」
チェインが助けてくれたのね。どこにもいないということは、黒猫の姿に戻って隠れているのかしら。
「アイライト様、お怪我はありませんか……?」
「君のおかげで、なんともないよ。さあ早く、ここを離れよう」
アイライト様はそう言いながら、軽々と私を抱えあげようとして……失敗した。
グキリと、腰から変な音がした。
「あ、アイライト様……?」
「……」
「……………」
「………………」
アイライト様は何も言わずに、ダラダラと、冷や汗を流している。
身長が高く、発育の良い私。いくらアイライト様が体を鍛えていても、しょせんは人間だ。
いきなり私を抱えようとして、腰をやってしまったのだろう。
それにしたって、私を持ち上げようとしてぎっくり腰になったなんて……笑えない。私は今、乙女のプライドをへし折られたのだ……まあ、アイライト様の腰ほど痛くはないけど。
「あ、アイライト様……今すぐに治癒魔法をほどこします! けど、私は治癒魔法においては未熟者……完全に治る保証はありません! 帰り道は、私がアイライト様を運びますから!」
せっかく頑張ったのに、これでアイライト様の怒りをかって処刑だなんてまっぴらごめんだもの!
「さ、さすがに婚約者に運ばれたくないよ……」
アイライト様はとても悲しそうな顔をしていた。
「そ、それなら学院の先生を呼んでまいります。しかし、そうなると――」
アイライト様がここに入り浸っていたことがばれてしまう。なにより、私を持ち上げようとして腰をやったことまで知られてしまう……きっとアイライト様にとっては恥ずかしいことだろう。そんな状態で先生に運ばれて帰るなんて嫌にきまっている。
うわ、やばい。私ったらかえって、アイライト様の敵意を強くしているんじゃないかしら? だって、ぜんぶ私のせいだもの。
もし私が悪魔と戦っていたところをアイライト様に見られていたのだとしたら、より彼のプライドを傷つけてしまったはず。
やばいやばいやばい。私も血の気がなくなっていく。
「大丈夫だよ」
柔らかいアイライト様の声に顔をあげる。彼はお日様のように温かい笑顔を浮かべていた。
「――ラシュカ、もう大丈夫なんだよ。僕は知っているんだ。君が本当は優しい女の子だってこと。だから、変な気は使わないで」
「え……?」
「今までの僕は、比べられることが嫌で仕方なかった。けどね、今日わかったんだ。比べられてもかまわない。なぜなら僕には、『僕がなすべきこと』があるって分かったから。兄ではなく、他の誰でもない僕がなすべきことが」
僕がなすべきことって……なんだろう。ラシュカ、徹底的に仕返ししてやる! とでも思っているのだろうか。
怖い、王子の笑顔が怖すぎるよ!
震え上がる私の頭に、そっと優しい手がのせられた。アイライト様が、私の頭を撫でているのだ。
誰かに撫でられるのは、いつぶりだろう……静かに微笑むアイライト様。私は撫でられながら、目を細める。とても心地が良い。
少なくとも今は、殺されることはなさそうだ。
ひとまず、アイライト様は悪魔との契約を回避できたのだ。
おまけに、私たちは今までより仲良くなれた気がする。冬空のように冷たかったアイライト様の瞳は、私に向けられるたびに優しい色を増している。
理由は分からないけど、悪魔に契約させられなかったことが原因なのかもしれない。
もしかしてこれ、結果オーライ?
私、ちゃくちゃくと死亡ルートを回避しはじめてる?
「間違いなく、シナリオを壊していくのは効果があるだろう」
アイライト様の悪魔召喚事件から、一週間がたった後のことだ。
チェインは優美な男性の姿で、椅子に腰かけニヤリと笑っている。
辺りはすっかり日が暮れ、夜になっていた。私とチェインは、部屋で作戦会議をしている。
なんの作戦会議かって?
もちろん、私が死亡ルートを回避し、幸せな人生を送るための計画よ!
「私、決めたわ……アイライト様のように、他の攻略者を影で救うことにしたの!」
「ん?」
攻略者たちは皆、心にトラウマや闇を抱いているのだ。アイライト様の場合、それは劣等感だった。ゲームではあのまま悪魔と契約し、主人公に救われる運命――シナリオだったのだ。
それを私は回避することができた。これで私の死亡ルートも遠ざかったかもしれない。
「だから、もっとシナリオをぶっ壊すの……気づかれないよう、こっそりね。チェイン、あなたからもらった闇の力を使って!」
私は悪役令嬢なのだ。
とはいえ、人の命を奪うことはぜったいに、しない。私は『不死鳥の令嬢』に憧れていたの。誰かの命を奪うよりも、誰かを救って生き延びたい。私は、黙って殺されるつもりはない。
私がこれから行うことは一つ。
生きるために運命を壊すのだ。
ルールは二つ。
一つ、お母さまたちのために、この学院を逃げ出さない。
二つ、誰も殺させない、私を含めて(ここ重要)
さらに私には、ちょっと頼もしいモフモフ――もとい、堕天使がついている。
私は仮にも悪役令嬢に転生してしまったのだ。得られた力は闇の力。
だから。
この闇の力で、私は、私の運命をぶっ潰してみせるわ!
「そして無事に卒業する。オフェリアン家の令嬢としての勤めを果たしたあと、自然に囲まれながらゆっくり余生を過ごすの」
私はうっとり余生に思いを馳せながら、ハッとした。
「チェイン。あなたは堕天使なのに、どうして私を助けようとするの? もしかしたらあなたも、悪魔のように私の魂を――」
「俺は人間の魂なんて食わん。これはただの気まぐれだ」
チェインは呆れたように言うと、そっと呟いた。
「――けど、お前の心が欲しいとは、思う」
「うん、なんて言ったの?」
「なんでもねえ」
チェインはそっぽを向いたのだった。