信じてよ、バカ
━━その電話がかかってきたのは、茜と紅が父方の実家に行った日の夜だった。
いってらっしゃいを言えなかった後悔のせいでまた胸の澱を重くした陽花は、茜はいないというのに昨日に引き続きひたすらに何も手につかない引きこもり生活を送っていた。寝て起きてご飯を食べてお風呂に入って、それだけで一日が終わってしまう。本来なら好奇心の赴くままに本を読むなり散歩に出るなりするのに、心が活動的になることを拒否していた。
何もしていないのに疲れ果てて、ふとした瞬間に意識が途切れた。
「……ぅん……?」
どこか遠くでオルゴール調の着信音が鳴っていることに気づいて目を覚ますと、背中がぎしりと痛む。体を起こしてみれば目の前には名前だけしか書けていない原稿用紙。どうやら作文を書いている途中でそのまま机に突っ伏して眠ってしまったらしい。
寝起きでぼんやりしたままスマホを探して液晶を見ると、『紅兄』の文字が光っている。珍しいなぁと思いながらも、陽花は応答をタップした。
「……もしもし……? こーにぃ……?」
『なんかむにゃむにゃしてるな。寝起きか?』
「うん……さっき起きた……」
あくびを一つして、椅子の背もたれに体重を預ける。
「どうしたの……? 何かあった?」
『いや、別に。ちょっと試してみようと思っただけ』
「試す?」
『そ。ヒナ、お前、俺は平気で茜はダメなんだな』
「え?」
唐突に出てきた茜の名前に一気に目が冴えた。何のことだという響きで返すと、軽やかに話す紅が電話の向こうで苦笑した気配が伝わる。
『お前、今茜から電話来てたら取ったか?』
「……あ、そういえば」
『一応俺も吸血鬼なんだけどなー』
「うん……なんでだろ。紅兄は全然平気……」
『目の前で食事見たのは俺の方だったのにな』
「あれはまあ、驚いたけど。吸血鬼でも宇宙人でもサキュバスでも紅兄は紅兄だから、さして問題ないよ」
『ちょい待ち、宇宙人はともかくなんでサキュバスを引き合いに出した』
「推して知るべし」
『……まあいいや。ところでヒナ、それ、茜にも言ったか?』
「サキュバスのこと?」
『違う。人じゃなくてもいいってこと』
「言ったよ。茜が何だっていいって」
その後訳も分からぬまま泣いてしまって、こじらせた訳だが。
『ってことはだ。お前は茜が嫌いってわけでも怖いってわけでもないんだな?』
「うん。それも茜に言った」
『……じゃあなんでウチの弟は昨日からずっとヒナに避けられて落ち込んでるんだ?』
「……っ」
ざくり。あくまで軽やかな口調を変えないままに放たれた紅の言葉は、見事に陽花の胸のど真ん中を刺し貫いた。同時に胸の澱が全力で存在感を主張して、肺が圧迫されているような感覚に襲われる。
黙り込んだ陽花に、紅は小さく息をつく。仕方がないなぁとでも言うように。
その仕草だけで心が少しほぐれたのは、女をとっかえひっかえしていても何だかんだで「頼れるお兄ちゃん」な紅の雰囲気が近くに感じられたから。
『どした? 理由もなく避け始めるような仲じゃないだろ、お前らは』
「……あのね、紅兄」
『ん?』
「なんか、すっごく、もやもやするの。……茜が吸血鬼だって知ってから、茜の顔を見るともやもやして苦しくなる。だから、今日のいってらっしゃいも言えなかった」
『いってらっしゃい、言いたかった?』
「うん……。でも、顔見れなくて……」
『なるほどね』
もやもやか、と紅が呟く。
『……だったら、とりあえず発散させてみるか』
「発散?」
『お前が茜から話聞いてから、考えたこと。ここで一回ぶちまけてみな』
「……全然まとまりないよ?」
『ん、それでいいから』
腕を枕に机に突っ伏した陽花は、胸の澱を少しずつ掬い上げるように言葉にして唇を開いた。
吸血鬼っていたんだ。吸血鬼だったんだ。
どうして今まで言ってくれなかったの。言えなかったのかな。もしかしてあんまり信用されてなかった?
事情があるのかはわからないけど、もっと信じてほしかった。
何かをずっと隠しておくなんてしんどいはずなのに、それをさせてしまった自分が悔しい。
どこかで気づけたかもしれないのに。知っているようなつもりでいて何も知らなかった。
十三年間、誰より近くにいたのに。一体あたしは茜の何を見てきたんだろう。
知らないことを知るのが生きがいなのに、十三年間傍らに在った知らなきゃいけないことを知らなかったなんてバカみたいだ。
ぽつ、ぽつと思い浮かぶままに感情を垂れ流して、言葉が尽きたところで黙り込む。
それを終了の合図として意識を通話に戻すと、電話の向こうでは紅が喉で笑っていた。
「……なんで笑うの……」
『いや、悪い。避けようが何しようが、結局お前らは限りなく両想いだなって思ってさ。茜はともかく、ヒナも昔からほんっと変わんないなぁ』
「よくわかんないけど絶対今にやにやしてるでしょ、紅兄」
『お兄ちゃんとしては微笑ましい限りなもんでね。だってお前が言ったこと全部、茜が大事で大好きだからこその悩みだろ?』
「……そう、だね。言われてみれば、確かに」
茜のことが嫌いだったら、どうでもよかったら。そもそもこんなに悶々と考え込んだりはしない。
大切だからこそ陽花は胸に澱を抱えたのだ。茜が今までずっと話してくれなかったこと、話してもらえる信頼を得ていなかったこと、気づくことができなかったこと、それら全てに心を奪われて苦しくて。
口に出してやっと気づく。
━━この澱の正体は、茜への、自分への憤りだ。
正体を暴いた途端に、胸がすっと軽くなる。本調子とまではいかないものの、普段通りの集中力と思考力を取り戻せたように感じた。
「紅兄」
『ん?』
「ありがと。……なんか、すっきりした」
『どういたしまして。声にも大分気力戻ったな』
「うん」
自分でもさっきよりかなり声に張りが出ているのがわかる。それに自然に笑えるようにもなった。
一昨日ぶりに緩んだ口元はなんだかむずがゆかった。
茜が帰ってきたら、避けたことを謝って、たくさん話そう。そう、心に決める。
『帰った時におかえりなさいは言いに来いよ? 避けてたら今度こそ茜がしょげ返るぞ』
「うん、お出迎えする。……ところで紅兄」
『うん?』
「さっき、あたしたちは理由もなく避け始めるような仲じゃないって言ってたけどさ。あたし、昔茜に避けられてたことあるよ?」
そう。一昨日の夜思い出したばかりだが、中学の頃陽花は茜に避けられていたのだ。理由を考えてみるもやっぱり思いつかない。嫌われるようなことをした覚えもないし、気づいた時には元の距離感に戻っていたし。
再び体を起こして背もたれにもたれたところで、スマホから『あー……』と呻くような声がした。
『それ、中学の頃か? 十二かその辺』
「そうそう」
『それはだな……その、吸血鬼の生態的なのに関わってくるというか……』
「吸血鬼の生態……って言われたって、あたし何にも知らないよ」
教えて。考えるより先に願望を伝えていた。
知らないことを知るのが陽花の生きがいであり、人格の根本。吸血鬼の生態だけならわざわざ茜から聞く必要もないので、今ここで知っておきたい。しばらくうだうだとしていたが、ようやく本領発揮である。
それに、知っておけば帰って来た茜と話すときの心構えも違う。
「お願い、紅兄。知りたいの」
『……そうなったら梃子でも動かないからなぁ、お前は。いいよ、どこから知りたい?』
「全部」
『だろうな。まあ、知ってる限りでいいなら話すわ』
「うん、ありがと」
紅の話によると、こうだ。
吸血鬼という呼称は後に人間によって付けられたもので、遺伝情報や体の構造などは基本的に人間と同じ。進化の過程において、遥か昔々に人間から分化した種族らしい。原因は不明だが、突然変異だとも極限の生活環境下での進化だとも言われている。知能、身体能力全てが人間より上で、吸血『鬼』はそこから来たのだとか。ちなみに人間と結ばれて子を成すことも出来るため、純粋な吸血鬼はいつの間にかいなくなって現代の吸血鬼は必ず人間の血が混ざっている混血らしい。茜と紅の場合、父が吸血鬼で母が人間だそうだ。
日常のエネルギーとして普通に人間と同じ食事を摂るが、それだけでは高くなった能力の分を補いきれないから他者の血を啜る。人の成分を丸々貰う訳だから効率がよく、茜や紅のように食事を摂りつつ血も啜る者と血だけで全て賄う者がいる。だが血だけで賄うには貰う相手に負担がかかりすぎるので、こちらは少数派なのだとか。
「え、でもいろんな人から貰ったらいいんじゃないの?」
『それが難しいんだよ。……一度味わうと忘れられない血ってのがあるから』
「味の好みみたいなもの?」
『吸血鬼の血が薄かったらそれで済む。でも濃かったら、その血以外飲んだら拒絶反応起こして反射的に吐くんだ』
「偏食とアレルギーの複合型みたいな感じなのかな」
『ざっくり言えばな。この辺の仕組みはいまいち分かってないんだけど、まあ……面倒な生き物なんだよ、俺らは。特に親父とか茜はな』
「どういうこと?」
『親父と茜は、普通の比じゃないほど血が濃いんだよ。親父は先祖返りで、茜はその血が濃く出た。俺はうまく母さんの血が混ざってくれたから比較的楽だけど、茜はその逆だったんだ』
先祖返りということは、ほぼ純粋な吸血鬼ということだ。そしてその子とは。……どうやら陽花は何気にとんでもない存在と十三年間一緒にいたようだ。
ふえー、と呑気に感心する陽花に苦笑して、紅は続ける。
小さい頃は普通の食事で全てのエネルギーを賄えるが、思春期に入り二次性徴を迎えると成長にエネルギーが追いつかなくなってくる。もともと高い吸血鬼としての身体機能が更に飛躍するのもこの頃で、満腹状態でも飢餓感と喉の渇きに襲われるようになってくる。お腹が空くのとは似て非なる、吸血鬼にしかわからない感覚らしい。
茜が陽花を避け始めたのはちょうどこの頃だ。と、いうことはもしかして。
「……あたしの血を飲んじゃわないように、避けてたってこと?」
『だろうな。めちゃくちゃきついからなぁ、特に中学から高校にかけて。俺は親父と母さんに貰ってたから何とかなったけど、……あいつ、初めて二人の血飲んだときすぐに戻したんだよ』
「さっき言ってた拒絶反応ってやつ?」
『そう。あいつそれまで血なんか飲んだことなかったから大丈夫なはずだったのに、一口飲んだ瞬間咳き込んでリビング大惨事。殺人現場かってくらい血溜まりできてさ』
「……わお。え、でもそんな状態だったらあたしの血だって飲めないんじゃないの? 避ける必要なんてなかったんじゃ」
『えっと……それが問題で。……その……香りで覚えたというか』
「香り?」
『血の香りだよ。……ほら、あるだろ女の子には。月一くらいで。赤飯炊いて持ってきただろ』
「ああ……」
確かに月一で血は出る。……マナーとして一応いろいろと配慮はしていたのだが、それでも駄目だったのだろうか。
「臭いしたなら言ってくれればよかったのに。もっと気をつけたのに……」
『いや、そうじゃなくて。こう……ふわっとおいしそうな匂いがするらしい。熟した果物みたいな、焼き菓子みたいな甘い感じだって茜は言ってたけど。それで初めて強烈にヒナの血の香りを知って、たまんなくなったんだと。下手すると喰らいつきたくなるから距離取って親父と母さんの血飲もうってなったのに、吐いて。……どうしようもなくなって、でもヒナに関しては超が付くほどヘタレだったんだよウチの弟は』
「それって、……あたしの血なら飲めるかもしれないのに、言えなかったってこと?」
『そういうことだな。どうにか成長だけはできてるみたいだけど、後はどうなってることやら……』
紅の言葉が遠く聞こえる。代わりにふつふつとお腹の中で煮えたぎる憤りを感じて、陽花は眉根を寄せた。
言ってよ、茜。
あたしがちょっと変なことくらい知ってるでしょう。茜のことが誰より大切なことも知ってるでしょう。血なんて死なない程度にならいくらでもあげるのに。
気づけ、あたし。
一体何年苦しませてきた。一昨日の帰り道、辛そうにしてたのだってきっとそれが原因なのだろう。茜が意地っ張りだということも知っていたのだから、もっと知ろうとすればよかった。
一度きつく唇を噛んで、陽花は決意と共に口を開く。
「……ねえ、紅兄」
『うん?』
「茜に伝言頼んでいい?」
『いいけど、なんなら電話代わるか? 隣の部屋にいるし』
「ううん、それはいい。顔見て話さないといけない気がするから、とりあえずの伝言だけ」
『了解』
目を閉じて、茜を思い浮かべる。
言葉は考えるまでもなくこぼれていた。
「━━信じてよ、バカ。……帰ってきたら、たくさん話そう」
電話越しに紅が笑う。わかった、伝えとく、と頼もしいお兄ちゃんは約束してくれた。
『じゃあな』
「うん、じゃあね」
通話が終わって、陽花はうんと伸びをする。
胸が軽くなって気分がいい。これなら課題に集中することもできるだろう。シャーペンを取って、原稿用紙とにらめっこする。やがて書き出しを思いついた陽花は、快調に枚数を重ねていった。
明日は友達と出かける約束をしているから、今日中に書き上げてしまおう。明日の楽しみを想像すると、夏休みがやっとのことで始まった気がした。
陽花は笑う。━━外で陽花を見据える、不穏な存在に気づかないまま。
そして彼女の日常は、非日常にすり替わる。