ねえ、━━━━━━━━━?
いつもの道をてくてく歩く。
毎日おなじ道なのに今日はキラキラしているのは、はじめて一人でおつかいをしたかえり道だからかもしれない。リュックに入っているタマゴとニンジンはおもたいけれど、オムライスのためだからちっともたいへんじゃなかった。
風がふいて、さわさわと音がしたので上を見てみると、ピンクいろのはずのサクラがおおきな火みたいになっていた。
あかねいろ。
赤でいて赤でないフシギな色が気になって、おかあさんにきいて知ったなまえ。
あかねいろはキレイで好きだ。色えんぴつになくて、昼と夜のちょっとのあいだしか見ることのできないとくべつな色。
そういえば、あかねいろが見える今みたいなじかんを『おうまがとき』というと本にかいてあった。おばけが出てくるらしい。
おばけがいるなら、会ってお話してみたい。
━━そう、思っていたから。きっと出逢った。
ベンチの上でうずくまるおとこのこ。
お顔がちっとも見えなかったから。
「ねえ、━━━━━━━━━?」
◇ ◆ ◇
久々に、夢を見た。
寝る寸前まで延々と茜のことを考えていたからかもしれない。かつて陽花が茜と出逢ったときの夢だった。何と言ったのかはやはり思い出せなかったが、それ以外のことはかなり鮮明に蘇ってくる。
懐かしい。四歳頃の陽花は妖怪オカルト系にハマっていて、日々未知のお化けとの邂逅を心待ちにするという我ながら変な子供だった。それも絵本に出てくるようなかわいらしいお化けではなく、怪談や伝承に出てくるような割とおどろおどろしいお化けを思い描いていたのだから更に自分の感性が謎だ。
まあ、今でも根本的なところは変わっていないけれど。
夢につられて昨日の出来事を一気に思い出すと、胸が重たい澱で満たされる。一晩眠っても無駄だったらしい。心の疲労に起きあがるのも億劫になって、ちょうど夏休み初日だしとベッドの上でうだうだと時を過ごす。
時刻は午前八時。今日は特に予定を入れていないので、別にこのままずっとだらけていたっていいのだ。たまには二度寝でもして惰眠を貪るのもいいかもしれない。……朝食で茜と向き合うのを思うと、そんな怠惰な考えが頭をよぎる。
正直なところ、これから茜と顔を合わさなければならないと考えただけで胸がもやもやしてきてあまり食欲も湧いてこない。これでいざ食事となった暁には、食パン一枚入るかどうかだ。それならいっそ抜いた方が楽だ。
一応成長期の娘が朝食を抜くというのは発育上よろしくないが、どうせ背丈の伸びは止まったし、出るところもたゆんたゆんになる気配は一切ないのでまあ大丈夫だろう。出るところに関してはもうちょっと欲しいと思わなくもないが、服を着たときに一番綺麗に見える大きさらしいので今のところ満足している。……満足しているったらしている。
なんとなく自分の胸を眺めてから、陽花は薄い掛け布団を被った。窓から差し込む日光を遮るようにして頭まで覆って、呼吸を整えていく。
段々と微睡んでいく意識に、玄関が開く音が割り込んできたのはすぐのことだった。
きっと茜と紅だ。母の陽気な声の後に、聞き慣れた低い声がする。━━急激に罪悪感のようなものがこみ上げてきて、陽花はきつく目を瞑った。茜と顔を合わせられないことなんて今までになかったから、知らない感情が陽花を苛む。
布団の中でだんご虫のように丸まっていると、タン、タンと階段を上がってくる足音が聞こえてきた。ゆっくりとした躊躇いがちなリズムで、誰が来たのかは容易に分かった。
ノックの音は小さい。
「……ヒナ? 起きてるか?」
だんまりを決め込んだ陽花は、布団の中で更に縮こまる。こじれた感情を表すように乱れた髪が耳を覆った。
しばらくすると扉の向こうの気配が動いて、階段を下りていく音がした。起きていることがバレないように詰めていた息を吐き、体の力を抜く。緊張のせいでせっかくの眠気が飛んで行ってしまった。
溜め息をついて、体を起こす。髪を手櫛で適当にまとめて、なるべく音を立てないようにベッドの縁に腰掛ける。
起きてしまった。さあ一体これからどうしよう。
いつもは一緒に朝ご飯を食べた後そのまま茜の家で時間を過ごしていたから、茜と顔を合わせられないとなると途端に陽花のスケジュールはほとんどが白紙になる。夏休みは二人でやっているRPGを進めようとか、古書店巡りをしてみようとか、祭りに行こうとか……二人で色々と計画していたことを思い出すと無性に寂しくなってしまった。
顔を見れないと訳の分からない拒絶をしたのは陽花のくせに。理性がぴしゃりと心を叱りつける。
「……課題でもしてようかな……」
人生とは不思議なものだ。普段はあまり好きではない学生の本分が、今では格好の逃げ道になっている。
よし、と声を出して自分を鼓舞した陽花は、早速立ち上がって鞄から分厚いワークを取り出した。
基本的には自室に引きこもって、そして一階に下りるときは茜がいないのを見計らって。そうやって陽花は、この一日中見事に茜を避けきることに成功した。……していた課題は全然進まなかったが。
陽花が避けているのを悟っていたのか、茜は必要最小限しか陽花の家に来なかったのであまり気を張る必要はなかった。けれどそれはそれで、というかむしろ不安になってしまう自分がいた。
というのも、茜に誤解をされていそうな気がしたのだ。口では違うと言ったけれどそれは意地を張っているだけで、本当は陽花が茜を怖がるがゆえに避けられているのではないか、嫌ったがゆえに顔を合わせられないのではないか、と。
茜のことを考える度に真っ先に思い出すのは、陽花が涙を流したときの傷ついたような苦しげな表情。何故泣いてしまったのかも説明できないままなし崩しに話は終わってしまって、そこからひたすら避けているのだから、……思い切り誤解させて傷を更に深くしている予感がある。しかも今まで陽花が茜のことで泣いたことなどただの一度もなかったから、余計にいけない。
故意ではないとはいえ、傷つけてしまった。そのことが陽花の胸に罪悪感を生み出して、ますます澱を重たくさせる。
ふう、と今日何度目かもわからない溜め息をついて、風呂上がりの陽花はベッドに横たわった。
今日はもういろいろと疲れ果てた。四六時中ふと気づくと茜のことを考えていて、こんなのまるで恋する乙女だと我ながら思う。しかし陽花を苛んでいるのは恋の甘さ切なさなどではなく、得体の知れない胸の澱だ。いっそ恋ならどれほど幸せだったことか。
再び漏れそうになった溜め息を寸前でこらえて、寝返りをうつ。お向かいさんの明かりはカーテン越しにも確かに陽花の部屋に差し込んでいた。
「……そっか」
明日から、いないんだった。
茜と紅は夏休みの最初一週間、東京にあるという父方の実家で過ごすのが恒例となっている。いつもならその前日、つまりは今日の夜から陽花は茜の部屋にお泊りに行くのだが━━今日ばかりは、無理だ。
レースを透かして揺れる光を眺めていると、毎年の光景が思い出される。どうにも父方の実家が好きでないらしく、毎年前日になるとこれでもかというほどげんなりしている茜を宥めて何かしらのゲームで対戦をして、負けた方を勝った方がくすぐり倒すのが陽花と茜の恒例行事だ。去年は陽花が負けて、それはもうくすぐられた。来年こそは雪辱を果たさんと心に決めてコントローラー捌きを磨いていたのに。不戦敗になってしまった。
ひとしきりくすぐられた後はのんびりと本を読むなりテレビを見るなりして、少し夜更かしして眠りにつく。互いが互いの傍らにいないと不思議なくらい寂しくなるから、離れる間の分まで満たし合うようにしてくっついて眠るのだ。きっと世間一般にはおかしい、けれど二人にとっては当たり前で大切な夏休みの行事。
今年の陽花にはいってらっしゃいを言う余裕もない。
さっきこらえた溜め息が今こぼれた。怠い腕を持ち上げて頭の横に持っていくと、鋭利な痛みと共にしゃらんと可憐な音が鳴る。
「あ」
一瞬で血の気が引いて、陽花は大慌てで起き上がった。枕元に置いてあったそれを両手で拾い上げて、壊れていないかを目を凝らして確認する。隅々までチェックしてチェックして、とりあえず傷は付いていなかったので一安心して脱力した。
手に包んでいるのは、いつもつけている髪留めだ。オレンジや朱色の花々に混ざって淡い黄色の小花が咲くバレッタは、下に白金色の欠片がいくつも連なって垂れている。横髪を後ろでまとめてこれで留めるのが陽花の基本スタイルで、季節や気分によって髪形を変える時も必ずつけているお気に入りのものだ。……そして、かつて誕生日に茜がくれたものだったりもする。本を読むときに横髪で手暗がりになっているのを気にして、お陽様色の花だからぴったりだと言って。
━━急激に胸が締め付けられたのは、どうしようもない寂しさを自覚したから。
一体何なのだ、この胸の澱は。
寂しいのに会いたくないなんてどういうことだ。もう自分で自分がわからない。
髪留めを包む手に僅かに力が籠もって、花弁がチクリと手のひらを刺す。じわりと目が潤んできたのを気づかないようにするために、陽花は部屋の明かりを全て消してベッドに潜り込んだ。
結局、翌朝のいってらっしゃいは言えなかった。