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ほんとに、人じゃないんだね

 陽花の声を最後に、夕日が射し込むリビングに静寂が落ちる。

 昨日までは茜と一緒にゲームをしたりテレビを見たりして過ごしていた空間と同じとは思えないほどに静まり返って、その非日常感が陽花の中で渦巻く混乱や不安を助長している。きっと生き物としての本能が足を竦み上がらせて、ーーけれどそれでも思考が止まらなかったのは、ひとえに生来の好奇心が懸命に働いていたからだ。


 ……あれは、何?


 首筋、唇、血。光景から得た情報を使って頭の中で辞書を引く。

 たった一つ導き出された答えは、今までの陽花の日常の中では答えとして適用していいはずがないものだった。


「……吸血、鬼?」


 まさか、そんな訳ないという否定の言葉を求めて唇から推論をこぼす。締まった喉から出た声は掠れていて、しかし水を打ったような静けさの中では十分に響いた。

 口元を拭った紅は、呆れたように溜め息を吐いて茜を向く。


「やっぱりか。……茜。お前、まだヒナに言ってなかったのか?」


 無言で唇を噛んだ茜に、ヘタレめ、と紅が呟く。求めていた言葉はいっこうに出てこない。

 その時点で陽花は全てを悟ってしまった。

 あまりの衝撃に呆然と立ち尽くす陽花を見た茜が、傷ついたように顔を歪ませる。

 帰り道に見たものよりずっと苦しげな、悲痛な表情。いつもなら駆け寄って頬に触れるのに、今だって心はそうしたいのに、金縛りに遭っているかのように体が動かない。


「……ヒナ」


 絞り出すような声が、名を呼ぶ。


「ごめん。……ほんとは、もっと早くに言わなきゃいけなかった。……怖かったら、今すぐ逃げて」


 いかないで、と。言葉の裏の哀願を聞き取れたのは、目の前の幼なじみが我慢強くて意地っ張りで、陽花をこの上なく大切にしてくれていることを知っていたからだ。自分の本当の望みさえ捻り潰して陽花の感情を優先してしまうことを知っていたからだ。

 ……怖がるはずがないのに。

 陽花はふるふると首を振った。


「怖く、ない。……怖くないよ」


 髪飾りが澄んだ音を立てて揺れる。足の呪縛が徐々に解けてきて、陽花はゆっくりと茜の元へと歩を進めた。

 血の気のない頬に指を触れれば、茜はぴくりと肩を跳ねさせる。陽花はそのまま自分の体温を移すように、手のひらで頬を包んだ。帰り道では温かかったのに、今はひんやりと冷たくなっているのが痛ましい。

 茜は陽花の手に恐る恐る自分の手を重ねると、指先だけをそっと繋ぐ。丁寧でぎこちない、まるで壊れ物でも扱っているかのような触れ方が気になった。


「……二人の部屋で、話したい」

「いいよ」


 優しすぎるほどの力加減で陽花を引いて歩き出した、茜の背中を見つめる。

 細身ではあるもののしなやかに筋肉のついた、広い背中。

 昔はもっと、それこそ陽花よりもずっと華奢だったのに。出逢ってからの十三年の年月を思うと、途端に胸に澱が溜まっていく。ほんの少し溜まったのを感じ取っただけなのに、とても重くて不快だ。気持ち悪い。


 嫌な感覚に襲われながらも歩いていくと、ドアが開く微かな音がした。いつもの、二人の部屋だ。

 元は書庫だっただだっ広い室内には、考古学者である茜の両親が集めに集めた本がずらりと並んでいる。陽が当たって暖かい窓辺には、ハンモックチェアと一人掛けのソファ。迸る好奇心のままに昔からここに入り浸っていた陽花と、陽花にくっついていた茜のために茜の両親が用意してくれたものだ。

 茜は陽花を特等席であるハンモックチェアに座らせると、自分はソファには座らずにそのまま陽花の前に立っていた。指先は繋いだまま、もう片方の手でそっと陽花の横髪を撫でる。緩くウェーブのかかっている癖毛を指に絡めて、梳って。


「……茜」


 もう一度頬に手をやると、茜は泣きそうな表情になった。


「……ほんとに、怖くないんだ」

「うん。……だって何も知らないから」


 茜が一体『何』なのかも。それがどういうものなのかも。どうして茜がずっと隠し通していたのかも。何もかも、陽花は知らない。

 声に出して改めて受け止めた事実は、胸の澱をずしんと更に重くさせる。大事な話の最中なので努めて気にしないようにして、陽花は茜を安心させるべく小さく笑ってみせた。


「今のところ、あたしにとって茜はいつもの茜のままだよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()、優しいひとのまま」


 指先で頬を撫でると、茜は微かに口元を緩めた。けれどよく見ると、灰褐色の瞳はひどく哀しげに揺らいでいる。

 大人びた、見たことのない表情だった。

 髪にあった指が頬を辿り、首筋を伝って肩との境目の辺りを撫でる。掠めるような、それでいて肌の感触を確かめるような触れ方が妙にくすぐったくて、陽花は首を竦めた。


「ヒナ」

「う、ん……?」

「俺の目、見て」 


 言われるままに端正な美貌の、長い睫毛の奥を覗く。そして陽花は目を丸くした。

 いつもの灰褐色が、どこにもない。

 代わりに繊細な銀の台座に縁取られたピジョンブラッドのルビーが一対、ほんのりと潤んで煌めいていた。


「……赤く、なってる……」

「そういう生き物なんだよ。俺も、兄貴も」


 真っ直ぐな視線に射られると陽花の背筋がぞくりと震える。とっくに慣れているはずの妖しい色香が、赤い瞳のせいでより危うく、激しいものになっているように感じた。

 茜に耐性がない並大抵の女なら、一瞥されただけでどうぞ今すぐ骨の髄まで貪ってくださいと縋りついてしまいそうだ。……捕食者としては願ったり叶ったりだろう。


「……ほんとに、人じゃないんだね」


 凪いだ声に茜が頷く。


「ああ。……吸血鬼だよ」


 陽花の中で十三年間培われた茜の定義が、根本から見事に覆される。

 ルビーの双眸に映る陽花の顔は、喜怒哀楽のどれともつかない曖昧な表情をしていた。


 本人からの言葉で伝えられたところで、陽花は改めて脳内で吸血鬼の項目を引いてみる。

 人の生き血を啜る怪物。鋭い牙に死人のように青白い顔が特徴で、一般的にはニンニクや十字架を苦手としている。陽に当たらず、心臓に杭を打たれることがなければ基本的に不老不死もしくはそれに近い長寿である。また吸血によって人間を同種族へと変貌させることが可能なパターンとそうでないパターンがある。

 イメージとして強いのはヨーロッパの吸血鬼だが、実際のところ他地域にも吸血鬼と呼ばれる怪物・妖怪の類は存在しているそうだ。そこまで含めると実にバリエーション豊かなのだが、茜に当てはまる吸血鬼の特徴はというとまったく見当たらない。茜は日光もニンニクも十字架も平気だ。多分聖水だって平気なのだろう。

 でも、寿命はどうなのだろうか。血を啜られた人を吸血鬼にしてしまうのだろうか。それに、あと、もっとーー。


 知らなかったことがどっさり出てきて興味は惹かれるのに、どうしてだろう、いつものように心が高揚しない。胸に溜まっていく澱が心に絡みついて、重石になっているみたいだ。


 明確な反応を返さない陽花にどう思ったのか、茜は陽花の両手をそっと取って自分の手で包んだ。そのままゆっくりと床に膝をついて、赤の瞳で陽花を見据える。


「怖かったら、もう会わなくていい。気持ち悪いと思ったら、もう二度と近寄らないから……」

「怖くも、気持ち悪くもないよ。別に茜が何だっていい」


 そう、陽花の中でそれは変わらない。

 茜が吸血鬼だろうが、たとえキメラだろうが改造人間だろうが、茜は茜だ。変わりなく大切に思うし、触れられたっていい。普通の人から見ればそれはおかしなことなのかもしれないが、陽花にとっては至極当然のことなのだ。

 なのに、どうしてなんだろう。


「……でも、今、うまく茜の顔を見れないの」


 赤の瞳と見つめあうのが苦しい。


「っ……」


 茜が目を見開く。綺麗な顔に浮かんだ今日一番驚いて傷ついたような表情は、すぐに見えなくなった。万華鏡のように視界に色彩が散ったせいだ。

 一つ瞬きをすれば、冷たいものが一筋頬を伝った。


「……泣くほど俺が嫌?」

「ち、がう……ちがう、……」

「じゃあ何で泣いてるの」


 自分でも分からない。

 感情と思考が一気にぐちゃぐちゃになった。


 ヒナ、と名を呼ぶ茜の声に重なったのはノックの音。


「茜、ヒナ。おばさんが飯だって」


 紅の柔らかい声が扉越しに聞こえる。

 茜の手がぴくりと震えて、一瞬だけ強く陽花の手を握った後に頬を滑る涙を拭う。僅か数滴こぼれただけのそれはあっという間に乾いた。


 ぼんやりと俯く陽花が体の鈍い痛みに気づいたのは、数秒後のことだった。


 気づいたときにはぬくもりは離れていて。肩や背で微かに痺れる痛みの残滓だけが、強く掻き抱かれたことを陽花に伝える。


「……行くか」


 茜の足音につられてハンモックチェアを立ち上がった陽花は、少し躊躇ってから二人の部屋を後にした。

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