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あんまり我慢しないで

本日二話目です。

 本を棚に戻す微かな音が、静謐な図書室に響く。

 国内最大規模、長期休業中には一般開放もされるこの図書室は、好奇心の塊と評される陽花にとってはまさしく楽園そのものだ。膨大な知識と物語の巣窟の中で、今し方本を一冊読み終えたばかりの『図書館の姫』は満足の息をこぼす。手に入れた知識や感情を反芻しながら目の前の棚を眺めれば、並んでいる本はすっかり陽花に読破されていた。

 まだ読んでいないのはあっただろうか。甘やかなショコラの髪を揺らしながら、陽花は視線で本の背表紙を辿る。棚の最上段からずっと見ていくと、見覚えのないタイトルが書かれた背表紙が目に留まった。

 だが随分と高いところにある。とりあえず背伸びをして腕をギリギリまで伸ばして取ろうと試みたそのとき、不意に横から大きな手が伸びてきて目的の本を取った。

 慣れ親しんだ灰褐色の瞳と視線がかち合う。


「これ?」

「うん」

「はい」

「ありがと」


 渡された本の表紙はやはり見覚えがなく、これは借りて帰ろうと腕に抱える。

 満足げな陽花の頭をこつんと小突いて、来訪者はからかうような口調を作った。


「そろそろ帰るぞ、お姫様」

「……そろそろ怒るよ、茜」


 不本意な二つ名を囁かれ、陽花は微かに眉根を寄せた。


 お姫様━━『図書館の姫』というのは、入学してしばらく経った頃に誰かが言い出した陽花のあだ名だ。いつも図書館にいる女の子がいて、名字は姫藤きとうというらしい。じゃあ図書館のお姫様だね、と実に安直な理由で付けられ定着してしまったというこの名だが、正直なところ心の底からやめていただきたい。隣の幼なじみ殿のような超絶美形でもあるまいし、姫なんて性に合わないしいたたまれないのだ。


 我不機嫌なり、と頭一つ分上にある美貌を見上げると、茜は微笑ましそうに陽花の眉間をトンと突いた。別に本気で怒っている訳ではないので、皺をほぐされるままに表情をいつも通りに戻す。

 エアコンの適度な風にそよぐ茜の黒髪を眺めながら、陽花は小首を傾げた。


「茜は本借りないの?」

「課題図書くらいは借りようと思ったけど全部なかった」

「当たり前だよ、そんなの。この学校の全員が借りるんだから、終業式の放課後なんて近辺の図書館まで全滅してるよ」

「ヒナは借りた?」

「何冊か家にあったからそれで書く」

「……後で貸して」

「いいよ」


 くすくす笑った陽花は、近くの椅子に置いてあった鞄を取って肩にかけた。抱えていた本は入り口近くにある自動貸し出し機で手続きをし、茜と共に帰路につく。


 七月も後半、夕陽がアスファルトに投げる影は短い。川沿いの桜並木も緑の濃さを増して、何より肌にまとわりつく熱気が季節の変化をありありと陽花に伝えていた。

 昼間の干上がりそうな暑さはもちろん嫌だが、日が落ちてからの蒸し暑さも不愉快だ。汗ばんだ肌に髪が貼り付いて気持ち悪い。


「暑……」


 緩く波打つ長い髪を掻き上げると、首筋を風が撫でていく。シュシュでも持ってきたらよかった、と陽花は溜め息を吐いた。

 もうこんな日は帰ってアイスだ。それも濃厚なミルク系ではなく、あっさりしゃっきりした氷っぽいものが食べたい。確かこの前箱買いしたシャーベットがまだ冷凍庫にあったはず━━と考えだしたとき、ふと隣から視線を感じた。

 見れば茜がどこか苦しげな、沈痛そうな色を表情に滲ませて陽花を見ていた。

 すぐに我に返ったようにはっとなるが、苦痛の色はまだ消えない。体調でも悪いのだろうかと陽花はそっと茜の頬に手を伸ばす。


「茜、どうしたの? しんどい?」

「いや……大丈夫。何でもない」

「そう、ならいいけど……」


 注視してみても顔色は悪くないし、これと言って変わったところはない。大丈夫かとは思うが、陽花は経験上基本的に茜の「何でもない」を信用していないのだ。


 昔から大人びて落ち着いた色香を撒き散らしているくせに、実はほんの少し意地っ張りでやきもち焼き。

 それはきっと、陽花しか知らない茜。


 だから茜を本当の意味で心配できるのは陽花だけで、逆もまた然り。そうやってかれこれ十三年、陽花と茜は幼なじみを続けている。

 割と危ない年齢まで一緒にお風呂に入っていたりしたので、今となってはもう茜の色香など目眩ましにもならない。一般人ならあまりの美しさに気絶してしまうような至近距離でもばっちこいだ。茜の顔をやや傾かせて、更に注意深く観察してみる。


「うん……ほんとに大丈夫そうだね。なんか苦しそうだったから、何事かと思った」

「心配しすぎ。ヒナよりは丈夫にできてるよ」

「それはそうだけど、妙なところで我慢強いんだもん、茜。気づくのたまに大変なんだから、あんまり我慢しないで」


 眦をきつくして言うと、茜は苦笑った。

 夕陽の反射と睫毛の影が重なって、茜の瞳に暗赤色の光がちらつく。まるで火でも灯っているようで、つい見とれてしまった。

 茜には夕暮れが似合うと何となく思う。

 そういえば出逢ったときも夕暮れだった。ちょうどこの長い長い桜並木のベンチで、茜が一人ぽつんと座っていたのだ。寂しがり屋のくせにと今なら言えるが、当時はなんせ初対面。……あのときの自分は、一体どんなことを言ったのだったか。


「ねえ、茜」

「ん?」

「ここで茜と初めて逢ったとき、あたしどんなこと言ったか覚えてる?」

「……覚えてる、けど、言わない」

「え、何で」

「自分で思い出せ、バカ」


 急に拗ねてしまったようで、茜はどことなく不機嫌そうに陽花の額を指で弾いた。

 覚えているなら教えてくれたっていいのに、と対する陽花も若干拗ねる。忘れてしまったのは陽花の過失だが、十三年も前の物心ついたばかりのころだったのだからある程度は仕方ないと思うのだ。

 はて何て言ったっけと記憶を必死に漁りながら歩いていると、知らぬ間に家の前まで到着していた。うっかり通り過ぎそうになったところを茜に止められる。


「ヒナ、ヒナ。どこまで行く気だお前」

「え? あ、もう家?」

「そうだよ」


 危なかった、と胸を撫で下ろして敷地に入る。


「じゃあ、後でまた」

「ん」


 ひとまず茜に手を振って、家に入る。玄関を開けると奥からほんのりといい匂いが漂ってきた。

 スリッパに履き変えて台所まで向かうと、案の定花嫁エプロン姿の母が夕食の支度をしている。


「ただいま」

「お帰りなさい。暑かったでしょ。まだご飯できないから、茜くんとアイスでも食べてたら?」

「うん、そうする。今日の晩ご飯何?」

「今日は紅くん帰ってきたから唐揚げよ~。あとサラダと他色々ね」


 紅くんというのは茜の兄で、現在実家を出て関西の大学に通っている。陽花にとってはもう一人の幼なじみで実兄のような存在だ。


「そっか、紅兄もう帰ってきてるんだ」

「お昼頃に挨拶に来てくれてね、お土産にケーキもくれたわよ。みんなでデザートに食べましょうね」

「分かった。ご飯できたら連絡して」

「はいはい」


 台所を後にして、着替えをすべく二階の自室に上がる。

 クローゼットから引っ張りだしたのは薄手のワンピースだ。もはや上下どれを着ようかと悩むことすら面倒なレベルの暑さなので、涼しくて楽ちんな格好を求めると自然とこの選択に至った。白地の裾の方にカラフルな花がプリントされた、お気に入りの一着だ。

 手早く制服を脱いでスカートは干し、下着一丁になってワンピースを頭から被る。鞄からスマホだけ取り出して、あとは茜に貸す課題図書だ。

 壁の大きさにぴったり合わせて作られた本棚を埋め尽くす本の背表紙を遠目に眺めて、数冊抜き取る。『罪作りなペン』という古典小説、『きのこ研究の歴史書』という新書、『ゲームから見る戦国イメージ』というエッセイの三冊のうちどれを貸そうかとしばし考え、茜の読書傾向を鑑みて三番目に決定する。自分はきのこで書こう。

 本を抱えて服を掴み、行きしなに洗濯機に放り込んでから再び台所へ。冷凍庫から桃とオレンジのシャーベットを取り出して家を出る。そして数秒後、茜の家に到着だ。

 膝丈のワンピースの裾を揺らしながら白い石に舗装された道を歩き、玄関を開ける。互いの家なら呼び鈴を鳴らさなくてもいいというのは共通認識として定着している。


 ━━ここでもし呼び鈴を鳴らしていれば、何も知らない穏やかな日常があたしを包んでいたかもしれない。

 後に陽花はそう思うことになる。

 そんな未来はけして望まないけれど。


「茜、アイス持ってきたよー」


 いつものように靴を脱ぎ、そこではたと気づく。

 見慣れない靴があるのは紅が帰っているからだとして、その横に女物のピンヒールが一揃い。スタイル抜群のお姉様専用と言わんばかりに存在感を放つ深紅のそれは、

 ……多分紅兄が連れてきたんだろうな。

 相変わらずだなぁと思いつつ廊下を抜ける。流石に大人な色々は自室でしているだろうとリビングに上がって━━陽花は数瞬前の選択を激しく後悔することになった。


 目の前に抱き合っている男女が見えるのは幻覚だと思いたい、切に。

 陽花と茜のくつろぎの場所であるリビングでは、あのピンヒールが似合いそうなセクシー路線のお姉様とお久しぶりな紅がぴったり体を密着させて、どこの映画のワンシーンなのかとツッコみたくなるような情熱的なハグをしていた。紅は陽花が来たのにも気づいていないご様子でお姉様の首筋に顔を埋めていて、お姉様は頬を上気させている。

 ああどうしよう茜の部屋に行こうにもここ通らないと行けないし今にもいけない展開になりそうだしあの二人、と陽花が進退窮まっていると、不思議な音が耳朶を掠めていることに気が付いた。


 ━━液体を啜る、生々しい音。


 茜の家でこんな音を聞いたことはない。発生源を特定するために視線をさまよわせていると、二階へ続く階段からより盛大な音が家中に響き渡った。

 その音でようやく諸々に気づいたらしい紅がお姉様の首筋から顔を上げる。

 中性的な顔立ちの彼がきょとんとした表情をすると随分とあどけなく可愛らしく見えて。けれど同時に美麗な唇の端から、犬歯から赤い雫を滴らせているのが、どうしようもなく異様だった。

 紅の腕の中で、ゆっくりとお姉様が崩れ落ちる。


「紅……にい?」


 今見ているのは、一体誰?

 あの赤い雫は、何?


 ……血?


「━━っ兄貴!」

「え、あ、まさかお前もしかしてまだ」


 茜の鋭い声が思考を切り裂く。ゆるゆると視線を向ければ、今までになく悲痛な光を宿した灰褐色の双眸があった。

 苦しそうに顔を歪めて、恐る恐るのように。


「……ヒナ」


 呼ばれた名前に応えたいのに、何故だか喉が詰まって声が出なくなった。


「せ、ん……」


 やっと絞り出した震え声が、茜をひどく傷つけるものだったということも。

 茜がずっと何を守ってきたのかということも。

 このときの陽花は、まだ何も知らなかった。

本日はここまで。

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