プロローグ
新連載始めました。どうぞよろしくお願いします。
濃い橙の光がカーテンを透かして机の上で揺らめく、夕暮れ時。人気のない高校の図書室で、一人黙々と本を読む少女がいた。
ページをめくる度に彼女の胡桃色の瞳が輝く。好奇心に溢れた表情は、どこか儚げな文学少女風にも映る彼女の外見の中に生き生きとした活発さとあどけなさを見せていた。もちろん、手にしているのはハードカバーの純文学━━ではなく。
『世界千鬼夜行集めの旅路~第三巻・西アジアからヨーロッパ~』という、様々な怪物を事細かに図解しながら世界各国を巡る異色の旅行記であることが、彼女の今の興味の対象を見事に物語っている。
放課になってから一時間。ずっと読んでいた百科事典並に分厚い本は、既に三分の二が読破されていた。そこから更に数ページ進んだところで、彼女の手がぴくりと止まる。
「……こんなに怖くないのになぁ」
挿し絵をつっと指でなぞって、彼女は呟いた。
ヨーロッパの章に入って一番最初に出てきた怪物は世界的にとても有名なもので、かつ彼女が今最も知りたい生き物だった。
描かれている特徴は、唇から覗く太く鋭い牙と死人のように青白い肌。しっくりくる表現は『おぞましい』だろうか。一目見たら一週間は夢に出てきてうなされそうな外見だ。
━━全然、全くもって、違う。
いや、確かに彼も一目見たら一週間どころか下手すれば一月は夢に出てきそうな見た目ではあるけれど。ベクトルが全く違う。
この絵の感じだと知りたいことは書いていないかもしれないな、と彼女が落胆の息を吐こうとしたその時。
「実際に似せて描いたらヤバいだろ、色々と」
背後から突然聞こえた低い声に、彼女は肩を跳ねさせた。
振り向いて苦笑する。
「背後から忍び寄らないでよ。暗殺者じゃないんだから」
「さっき入り口で声はかけたけど?」
「え、嘘」
「ほんと」
コツンと額を小突かれた彼女は、眉尻を下げて「ごめん」と返す。読書中は極限まで集中しているので、周りの音になかなか気づけないことが多い。
見上げた先の彼は浮き世離れした凄まじい美貌にいつもの笑みを載せていて、もうとっくに見慣れてしまった彼女でもふとした瞬間に綺麗だなと思う。滑らかに通る鼻筋や切れ長の目がこの上なく良いバランスで配置された顔は、年相応の表情をしているのにどこか妖しい。魅入られてはいけないのに惹かれてしまう、そんな危うい色香を感じさせる。
やっぱり挿し絵と共通点一つも無いなぁと思いながらじっと見ていると、彼の長い睫毛の奥で赤い光がちらついているのに気がついた。
普段は灰褐色の瞳が、ルビーよりなお濃い赤に変化している。
「……お腹、空いてるの?」
問うと、彼は躊躇うように目を伏せた。それから小さく頷く。
「ちょっと待ってね」
彼女はてきぱき制服のリボンを外して、ブラウスのボタンを二つほど開けた。彼女と彼以外に人はいないから、構わないだろう。家までお預けというのもしんどいだろうし。
「どうぞ」
小首を傾げてみせると、ショコラの色をした長い髪がさらりと流れて花をあしらった髪留めがしゃらりと音を鳴らす。彼は露わになった首筋を指先でそっと撫でると、彼女のブラウスの襟を肩口の方へとずらした。長い指が優しく髪を掻き上げる。
彼の黒髪が肌をくすぐったと思うと、次には首筋を熱っぽい吐息が掠めて、柔らかい舌の感触が伝う。
突き立てられたものは、二本の鋭い牙。
「━━っ」
ぶつり。
鮮烈な熱に、一瞬彼女の体が強ばる。じんわりと鈍くなっていく痛みの発生源から溢れたのは、間違えようもなく彼女の血液で。
そうして間もなく聞こえてきたのは、彼が彼女の血を啜る音。
一口一口ゆっくりと飲み込んでいく音にももうすっかり慣れてしまっている彼女は、手持ちぶさたになってさっきまで読んでいた本に視線をやった。挿し絵の隣には、ネグリジェ姿の美女が怪物に血を吸われて絶望に顔を歪ませている絵画が掲載されている。……自分とのあまりの差にちょっとおかしくなって、彼女は微かな笑い声を漏らした。
彼女は彼に血を啜られることに、別段恐怖を感じていない。彼は彼女を殺すことなど絶対にないし、必要だから求めているのだと理解しているからだ。無闇やたらに血をねだるタイプもいるらしいが、彼がそうではないことはここ数ヶ月で嫌と言うほど知った。いざというときは自ら傷を作ってでも飲ませなければならないというのは、彼女の胸に刻まれた教訓になっている。
それにそもそも彼は十年以上傍らにいた大切な幼なじみなので、この上なく信頼し親しみこそすれ、恐れる対象では断じてない。彼が人であろうがなかろうが、彼女の中でそれは変わらないのだ。
初めて知ったときも、そうだった。
まだ彼女の日常が日常らしかった数ヶ月前が、今では遙か遠い昔のことのように思える。そこから今まで恐ろしいほど濃かった日々を思い出す度に彼女の胸に生まれるのは、彼に対する申し訳なさと心からの親愛の情、そして未知への好奇心だ。
「ねえ、茜」
「……ん……?」
「知らないことがあるって、やっぱり素敵だね。世界はまだまだあたしの知らないことでいっぱいだ」
それは、目の前の幼なじみもまた然り。
長い付き合いで分かっていると思っていた彼の全ては、しかし全てではなくて。落ち着く気配の裏に、柔らかな笑顔の陰に、彼はとても大きな隠し事を持っていた。
それが明かされたことによってがらりと変わった彼女の世界の、既知と未知の狭間に彼はいるのだ。
知らないことがあるということは、これから知ることできるということだ。一体いくつ知れるだろう。どんなことを知れるだろう。
思うと心が躍る。
「明日もきっと楽しいよ」
昔からずっと彼女の真ん中を貫いている真理を囁けば、彼は彼女の首筋から牙を抜いて言葉を返した。
「……ああ。明日もきっと、幸せだ」
耳朶を掠めた彼の声が格段に甘くとろけていたことに、彼女は気づかない。彼の目が過去を懐かしむように細められたことを、彼女は知らない。
開いた本のページの上で、橙が踊る。
牙によって作られた傷口からこぼれた雫を彼の舌が掬い取って、丁寧に止血をし始めた。もうごちそうさまの頃合いらしい。
最後に吐息を一つ落として、彼は彼女の首筋から顔を上げた。
飢えが満たされたことにより、陶然とした光を滲ませる赤い瞳。唇に残る血を舐め取る姿は、夕暮れの中で━━ぞくりとするほど美しい。まるで、極上の獣だ。
人ならざる捕食者だ。
普段の彼とはまた違った雰囲気に思わず見入っていると、彼は小さく溜め息を吐いて彼女のブラウスに手を伸ばした。ずれた襟を戻して、開けっ放しだったボタンを留める。
「あ、ごめん。忘れてた」
「リボンは?」
「ここにあるよ」
「貸して」
「ん」
器用にリボンまで着けていただき、彼女の
格好は何事もなかったかのように通常通りに戻る。ただ、首筋に残った二つの小さな傷だけが、彼が食事を終えた証として残っている。襟で隠れるところを噛んでくれているのはいつもの配慮だ。
彼が迎えに来たということはそろそろ帰る時分なので、彼女はうんと伸びをして立ち上がった。開いていた本は例の怪物の箇所にだけざっと目を通す。……やはり欲しい情報は一切載っていない。唇を尖らせることで不服を表して、彼女は図書館の隅の方の書棚に本を戻した。
オカルトや伝奇が並ぶこの一角の本はここ数ヶ月で大概読み尽くしてしまったが、残念ながらそのどれにも彼女の欲しいことは書いていない。こんなにあるなら一冊くらい本当のことが書いてあってもいいのにな、と自身が読破した膨大な冊数の本を見て思う。まあ真実が書いてあると彼がさっき言っていたように色々とマズいので、この情報の少なさは当然と言えば当然なのだが。
今度また読み漁ろう、と彼女は踵を返して荷物を手に取った。
窓越しの高い空は徐々に紫がかってきており、メタセコイアの葉はすっかり秋色だ。季節の流れは穏やかにゆるやかでありながらも、止まることなく進む。同じように、彼女と彼もずっと同じままではいられないのだろう。ここ数ヶ月にまとめて襲来した派手な変化は、彼女にじわじわとそれを伝えていた。
……きっと季節のせいだ。
胸で何かがざわめくのも、未来を知ることだけに微かな怖さが滲んできたのも。
激しく鮮やかな季節を静かな風がかっさらっていって、物悲しくなっているせいだ。
好奇心旺盛な少女にだって臆病心はあるのだということは、本人さえ知らない。
彼しか知らない。
「帰ろっか」
「ん」
灰褐色に戻った瞳を見上げて、彼女は笑う。彼女を瞳に映して、彼も笑う。
変わった日常の中の変わらない光景を、カーテン越しに陽光の残滓が包む。
「そう言えば明日から連休だね。紅兄帰ってくるの?」
「兄貴は家に入れないけど、父さんと母さんが明後日帰ってくるよ」
「わ、そうなんだ! お正月ぶりだね、今どの辺なの?」
「確か……一週間前は肥沃な三日月地帯らへんって書いてあったから、多分メソポタミア文明のどっかだと思う」
「うーん、範囲広いね。あと紅兄も入れてあげようよ」
「やだ。元はと言えばあのバカのせいでヒナに諸々バレたのに」
「それもそうだけど」
くすくす笑って、彼女━━陽花は過去を思う。
それは、陽花にとっての茜が紛れもなく人だった頃のこと。
茜が陽花の吸血鬼になる前のこと。
本日は二話投稿です。