番外①:暗黒騎士ネフレン・カルラート
「イーフ」
「ネフレン、様……?」
森の中、地面に倒れ付した体を抱き上げて呼び掛けると、うっすらと目を開いたイーフ・ユゴルは、微かに笑みを浮かべた。
「申し訳ありません……粗相を……」
彼女の半身は、血で染まっていた。
背を斬り付けられ、最早助かりもしないだろう。
ネフレンの、肉体に打ち付けられた暗黒の鎧である『トラペゾ・ケース』が包む足を、彼女の血が濡らす。
「構いはせぬ」
自身の命が尽きる事よりも鎧の汚れを心配するイーフに、彼は静かに答えた。
イーフは、勇者と共に赴いた地下世界で真なる暗黒剣、ダークネス・トラペゾヘドロンを祀る、並みの人間など近づけもしない祭祕神殿で永きに渡り巫女を務めていた女だった。
ネフレンはかつて地下世界で、その溢れんばかりの強力な魔物の棲む洞穴の奥の立ち入り、試練を超えて暗黒剣の所持者となった。
剣の巫女である彼女も、そのまま付いてきたのだ。
大邪神ヴェルゾムーアを倒し、ネフレンが地上に舞い戻っても、彼女はネフレンに従い続けた。
『自由に生きよ』
幾度そう言ったか知れないネフレンに、その度に彼女は首を横に振った。
『私は、剣の巫女です』
その結果が、これだ。
魔物ですら下級のモノは邪気に当てられて狂う程の瘴気を放つ暗黒剣。
それを封じる役目を与えられ、不老と化され、暗黒剣から逃れる事が叶わなかった女。
だが、彼女の役目は既に終わっていた。
本来ならば暗黒剣から溢れ出す強大過ぎる瘴気が所有者の魂を犯さないよう、剣の巫女という鞘を必要とする筈の真なる暗黒剣の邪気を……ネフレンは全て、自身の魂が有する聖気によって呑み切ったが故に。
真なる暗黒剣の意思は、既にネフレンの魂と融合して完全に一つとなっている。
イーフが、ネフレンに好意を寄せていた事には気付いていた。
しかし彼は、イーフを愛してはいなかった。女性としては。
そして彼女もまた、異性として自分を見ていた訳ではないだろう。
男女の仲となるには―――彼女の外見は幼すぎ、ネフレンは暗黒騎士でなくとも年老いていた。
齢五つにして肉体の時を止められたイーフと、既に60を過ぎた自分と。
「人は愚かしきものだと、幾度も我は、おぬしに言いはしなかったかの」
人は、タガが外れれば幾らでも残酷になれる事を、ネフレンは知っていた。
魔王の脅威によって飢餓に晒された村の者が、神の名の下に妹を殺した時から、ネフレンは神も人も信じることはなくなった。
だからこそ、同じように才能のあった聖僧ではなく、己の魂のみを拠り所とする暗黒騎士の道を歩む事にしたのだから。
「アルディーノと共に行けば、まだその命の自由を謳歌する事も出来たろうに」
魔王を倒す為に力を貸せと言った勇者は、戦友と呼べる程度には信用に値する豪傑だった。
しかしイーフは、ネフレンの言葉に首を横に振る。
「私は、貴方の背を追う事が、幸せであったのです。誰よりも優しい貴方の……」
「幻想じゃ」
暗黒騎士は魔物化と常に背中合わせ。
どこへ行っても忌まれる事は、煩わしい関係を寄せ付けない為に都合が良かったが。
イーフを斬ったのは、この森にひっそりと住み着いたネフレンを勝手に畏れ、討伐隊として現れたゴンド王国の騎士の一人だった。
今は全員、骸すら残さずに魂を狩り、ダークネス・トラペゾヘドロンの中で永劫の魂の苦しみを与えている。
ネフレンはイーフを女性として愛してはいなかったが、娘や、失われた妹に近しい存在として、親しみを覚えてはいた。
「我の失態だ。不用意に奴らを捨て置くべきではなかったの」
「いいえ。私が、必要もないのに貴方を案じ、言いつけを破ったからです」
見つかりさえしなければ良いと、討伐隊を殺さずにおいた。
まさかイーフが、心配はいらぬからと隠れさせておいたイーフが、自ら出てくるなどとは、ネフレンは思っていなかった。
「最後のお願いです。ネフレン様。どうか、その手で。……私の一部を、貴方と共に」
ネフレンは頷き、ダークネス・トラペゾヘドロンの刃先を、イーフの胸元に当てた。
彼に他者を癒すような術は使えない。
ネフレンには、殺す事しか出来ない。
「吸気」
短い宣言と共に、残り少なかったイーフの生気を暗黒剣に喰わせて己のものとし、魂はそのままに置いておく。
イーフが死に、亡骸が溶けるように消えた。
立ち上がって空を仰いだネフレンは。
「報いとは、己が所業に還るもの……すぐに我も、おぬしの元へ向かうがの。イーフ」
誰にともなく呟き、ネフレンは歩き出した。
目指すは北西、ゴンド王国。
※※※
ゴンドの王都、その周囲に張り巡らされた城壁の門の前。
門を、石造りの門構えごと斜めに断ったネフレンは、暗黒剣を地面に突き立てて仁王立ちした状態でたった一人、宣戦を布告した。
「我が従者を殺した報いに、ゴンド国王がこの門前にて我に頭を下げるのであれば赦そう。拒否するのであれば王都ごと消滅する。一人残らずじゃ。三日待とうかの」
三日、そうして微動だにせずに立ち続けたネフレンの言葉に、応えたのは王都に存在した全ての将兵。
「愚かよの」
のっそりと動き出したネフレンは、暗黒剣を構えた瞬間に前へと走り抜けた。
「虚空」
軍勢の歩兵らの真ん中に立ち止まり、暗黒剣を振るう。
剣閃が大気を払い、周囲の兵が胸を押さえて次々と武器を取り落とした。
周囲の生物の呼吸を失せさせる『虚空』は、生きている敵を最も苦しませる技だ。
「のんびりしていて良いのかの?」
苦しむ兵らに言いながらネフレンが軽く左手を握ると、『虚空』の中で悶える軍勢が周囲から流れ込む大気によって発生したカマイタチによってズタズタに引き裂かれ、血の霧が周囲を覆う。
だが一瞬怯んだ軍隊は、再度ネフレンに立ち向かって来た。
騎兵による強襲。
が、突撃してくる馬と騎士は、ネフレンにとっては余りに遅い。
ネフレンは何もせずに一番槍に貫かれた。
「 殺した!」
「残念じゃの」
槍先はトラペゾ・ケースの鎧に阻まれ、ネフレンの肉どころか表面すら傷付けていない。
一番槍の突撃に微動だにしなかったネフレンの代わりに、馬と騎士が自分の勢いで宙を舞う。
「大邪神の軍勢に比べれば、まるで物足りんの」
落ちてくる騎士と馬の首を剣閃を飛ばして無造作に刎ねたネフレンは、続けざまに横薙ぎの一撃を斬り払う。
「悪夢」
剣閃は人を裂かぬ程度に緩く、代わりに剛風となって周囲の草原を波立たせて広がっていく。
迫っていた騎兵が次々と落馬していった。
「馬に轢かれて死んだ者は幸運じゃの」
命を拾った者は、漏れなく阿鼻叫喚と呼ぶに相応しい有様を見せた。
叫び続けて頭を幾度も地面に叩きつける者、けたたましく笑い出す者、寝転んだままビクビクと体を痙攣させる者。
恐らく騎兵らは、愛する者が一人ずつ目の前で犯され殺される光景や、自身が爪の先から輪切りにされていく痛み、体の中を蟲が這い回る感触などに苛まれているだろう。
『悪夢』は、精神を持つ存在が最も脆弱な部分へと、抉り抜くような幻視を与える技だ。
しばらくして、『悪夢』を受けた者たちは漏れなく狂い死んだ。
残りの軍兵士らは、将校も含めて凍りついたように動かない。
自分が敵対したのがどういう存在なのか、ようやく理解し始めたようだ。
「ま、理解したところで既に遅いがの」
ゴンドの王都を、滅ぼすのは簡単なのだ。
ネフレンの目的は、愚か者どもに絶望と共に死んで貰う事だ。
彼がゆっくりと進むと、前線が崩壊した。
前線から逃れようとする者達は、一人残らず視界に納め、剣閃と共に殺していく。
「どうした。我を殺しに来た者は、勇猛なるゴンドの軍勢であると名乗っていたが。敵前逃亡は勇猛なる者のやる事かの? ……『千刃』」
軍勢だけでなく、ゴンドの王都周囲全てを覆い尽くす『破壊』の概念の篭った幻影の刃が無数に上空に現れ、一斉に落下して城壁を、城下を粉微塵に破壊する。
壊したのは建物だけだ。
人は一人も殺していない。
「見晴らしが良いのう」
建物全てが真に粉微塵と化した為に、瓦礫すら残っていない。
黒々とした大地に、最早言葉すらない王国民全員が立っていた。
残った城も、達磨落としのように基底から『千刃』によって破壊し、ゴンド国王を誤って殺さぬよう地上まで下ろしたネフレンは。
「さて、勇猛なゴンド軍よ。守るべき都はないがの。逃げればその瞬間に死ぬ。後ろにいる家族諸共な。死にたくなれば最後の一兵まで我に立ち向かい、我を殺す以外に術はない」
それが嘘ではないと認識出来るだけの暴威は、今見せた。
あまりの絶望にへたり込み、あるいは動かない者達を眺めて、ネフレンは首を傾げる。
「どうしたのかの? 手を出さねば大人しくしておったものを、わざわざ脅威と呼ばわるから望み通りに現れたのじゃが」
ネフレンは、暗黒剣を軽く構えた。
「来ないのなら死を受け入れたと判断して、もう殺すが」
その時、兵の一団が、ネフレンへ向かって駆けてきた。
「家族を、殺させはせん! 俺たちが何をしたと言うのだ!」
「身勝手な事よの。先に我を弑そうとし、イーフの命を奪ったのはおぬしらの方じゃろう」
王国に住んでいた、ただそれだけの理由で殺される……自分でも理不尽とは思うが、誰の差し金か分からない以上は皆殺し以外にない。
それに、選択肢は与えたのだ。
自分の矜持とやらの為に、それを拒絶したのは王である。
「国民とは王の所有物じゃ。全て壊すが、イーフを奪われた我の決めし事よ」
勇猛な兵に敬意を表し、鎧の隙間を狙う数条の刃を甘んじて受ける。
肉を貫かれる痛み、刃の冷たい感触も久し振りだ。
「見事。ーーー吸気」
だが、ネフレンは即座に兵らの頭を跳ねながら生気を吸い取ると、その傷を修復した。
そこからは、一切の手加減をしなかった。
「絶望」
自身の放ちうる最強の剣技、瘴気の剣閃によって、王以外の全てを闇に呑んだネフレンは、瘴気によって穢れた大地を歩き、一人正常な大地に尿を垂れてへたり込む王の前に立つ。
「報いを受けよ」
王に一切の言い訳を許さず、その魂を永劫の苦しみに呑んだネフレンは。
「さて。帰ろうかの」
イーフと共に過ごしたねぐらへと、何事もなかったかのように踵を返して帰っていった。
後には、『不毛なるネクロの大地』と後に呼ばれる、瘴気に染まって何人も生きる事の出来ない土地だけが残っていた。
※※※
不意に。
暗黒剣を永劫に封じる結界に亀裂が走るのを、ネフレンは感じた。
―――何事かの?
ねぐらの洞穴で死体となっていながら、魂のみを暗黒剣と共に封じ続けていたネフレンは、自分がそう考えた事に驚く。
うっすらと開けた視界の中に、ぴょんぴょんと軽く飛び跳ねる小さな影が見えた。
「せいこうしましたわ! ほてぷ! せいこうですわ!」
飛び跳ねているのは幼い少女だった。
イーフと同じくらいか。少し舌足らずな口調で、背後の巨大なスペクターに喜びを伝えている。
「すけるとんですわ! ついに、できましたわ!」
「スケルトン……?」
言われてネフレンが自分を見下ろすと、そこには骨だけになった自分の体と、ダークネス・トラペゾヘドロンに纏わせて鞘としたトラペゾ・ケースがあった。
「ふむ……」
呼び覚まされ、思考が回りだすと、ネフレンは少女の言葉に違和感を覚えた。
死霊として蘇ったにしては、魂の聖気が失せていない。
恐らくは『英傑召喚』の術式によって呼び出された自身の魂が、死したる肉体に憑依させられているのだと思うが。
「何者じゃ?」
ネフレンの問いかけに、少女はビックリしたように一際高く跳ねた。
「す、すけるとんが、おはなししましたわ!」
「我はスケルトンではない。おぬしが行使したのは英傑召喚の術じゃ」
ネフレンの言葉に、少女はぷくりと頬を膨らませる。
「そんなことは、ございませんわ! わたくしは、しりょーじゅつしですわ!」
「死霊術士?」
ネフレンは改めて少女を観察したが、少女の魂には邪気のカケラもなく、神々しいまでの聖気を纏っている。
服装も、白く可愛らしいドレス姿であり……顔が、どことなくイーフを連想させた。
「……聖女の間違いではないかの?」
もしや、と驚きながらも確認するネフレンに、少女はぶんぶんと手を振り回す。
「そんなわけが、ございませんわ! ほら! このほてぷは、じゃれいですわ!」
『ジンニーである』
振り回された両手には少女の姿にひどく不似合いな包帯が不器用に巻かれており、それも微かに聖気を発している。
「……それはミイラを包む為の聖布じゃろう? 邪悪な者には装着出来んものじゃ」
「ほてぷ! こ、このすけるとんは、とってもイジワルですわ! このホータイは、じゃあくなファラオのものですわ!」
『邪悪ではないが、我が肉体美を包み込んでいた正当なる王の死装束である!』
珍妙なジンニーが筋肉を誇張するポーズを取り、涙目になった少女とそれを見比べてから、ネフレンは話題を逸らした。
「して、おぬしの名は?」
涙目の少女は、ハッと顔を強張らせた。
「わ、わたくしとしたことが、もうしおくれましたわ!」
わたわたとスカートを整えると、それだけは綺麗な仕草で少女は頭を下げた。
「わたくしは、ネクロのみやこにすむ、アブホース・アウターはくしゃくの、むすめのひとり、ナイア・メイリア・アウターですわ!」
「……アブホース?」
それは、戦友であるアルディーノのファーストネームとラストネームだ。
「……母は、なんと言うのじゃ?」
「ヴーア・アウターですわ!」
どことなく嬉しげに二人の名を口にするナイアに、ネフレンは考える。
つまりこの娘は、勇者アルディーノと聖女ヴーアの娘という事だ。
「……あの腹黒、何を考えておる」
戦友の顔を思い返しながら、ネフレンは呟いた。
こんな場所を、ナイア一人で見つけ出せるとは思えない。
「そうですわ!」
理由を考え始めたネフレンに、 ナイアは、ぽん、と手を打った。
「おとうさまが、『無事にスケルトンを作れたら、この呪文を唱えなさい。そうすれば従うから』といっていましたわ!」
「なんじゃ?」
ナイアはゴソゴソとポケットを探ると、一枚の羊皮紙を取り出して書かれていた言葉を読み上げる。
「『ナイアは、イーフだよ。偶然だね。大地は浄化したけど、汚すだけはいただけないな』ですわ!」
……そういう事か。
「何が偶然じゃ、あのバカタレが」
地上に戻ってきているという事は、アルディーノの地下世界を安定させる旅が終わったのか。
ナイアの事も、故意に、ではないだろうが、ナイアの魂がイーフのものだと気付いてこちらに寄越したに違いない。
どうせ過去視の術でも使って何が起こったのか把握したのだろう。
勿論、生まれ変わりであっても彼女はイーフ本人ではない。
同じ魂を持つ存在であるというだけで、彼女が生き返った訳ではない。
そうと分かっていても……。
「しゃべるすけるとんをつくれるなんて、わたくしのしりょーじゅつはすばらしいですわね、ほてぷ!」
『うむ、朕の筋肉の如く素晴らしいのである!』
「 スケルトンではないと言っておるじゃろ。我は……」
分かっていても、幸せそうに屈託無く笑う彼女を見るのが、嬉しいのは何故だろう。
イーフは、常に遠慮したような、控えめな微笑みしか浮かべようとはしなかった。
「我は……」
「なんですの?」
キラキラと目を輝かせるナイアに、ふと、ネフレンは思う。
アルディーノも名を隠すのを止め、魔王の脅威もない……おそらくは長い時が過ぎ、自分を知る者もない今。
もう、ネフレン・カルラートの偽名は必要ないのではないか、と。
「我は、ルラトじゃ。姓はない。ただのルラトじゃ」
「わかりましたわ!」
素直なナイアに一つうなずいて、ネフレン……ルラトは、お願いを口にする。
「ナイア嬢。我をご両親の下へ案内してくれるかの?」
「いいですわ! るらと、こっちですわー!」
とてとてと走り始めるナイアに、暗黒剣を背に掛けたルラトは続いて歩き出した。
洞穴の入口から差し込む光に溶けるナイアを眩しく思いながら、彼は独り言を口にする。
「……アルディーノめ、我を体の良い目付け役にしようという魂胆だろうが、そうはゆかぬぞ」
せっかくの余生をイーフと過ごすのなら、今度こそ思う存分楽しんでやろう―――ルラトは、そう決意した。




