Don't want to escape and don't want to see it
あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ
―田村隆一 『言葉のない世界』より、
私は鏡を見つめる。
そこには何の変哲もない少女の顔が写っている。
鏡に手を当て、鏡の向こうの自分が同じように、同じ角度で、同じポーズになる様を見て、私は思案に耽る。
果たして、この鏡に写っているのは“一体誰なのだろうか”と。
私には分からない。
何故なら私には“人格”が多すぎるから。
小さい頃から自分を隠し、偽り、演じ、騙し続けてきた結果が今だ。
相手が変わる事に人格を変え、下げたくもない頭を下げたり見下したりしていた。
そうすること10年、
私にはもう、どれが本物の自分の人格なのか全く分からなくなってしまった。
演じることでしか自分という存在を確立することが出来なくなってしまった。
それは“私”という身体と共に生まれた人格の死を意味する。
どれが自分なのかわからなくなった人間が果たしてその人格が生きていると言えるだろうか?
だから私は本名が“わからない”。
名前はある。
沢山ある。
演じてきた人物の数だけある。
でも、親から授かった自分の本当の名を私はどれか忘れてしまった。
でも、私はその事実をすんなりと受け入れることが出来た。
元々自分などいても居なくても大差はない、と思いながら育ったきた身だ。
自分がどれか分からなくなったぐらいで絶望してしまうほど精神は弱くない。
でも、何故かそのことが哀しい事だと感じてしまう自分がいる。
少し、過去の話をしようか。
私はごく一般の家庭でそこに住んでいる夫婦がごく普通に愛し合った結果産まれた。
〇〇、と名付けられた私は長年不妊に悩んでいた両親にとって、希望の光だったらしい。
そう、私は愛された。
人並みに愛された。
両親だけが愛してくれた。
でも、それ以外は
、、、、、、、、、、、、、、、
誰一人として愛してくれなかった。
元々家の両親は貧乏だった為、汚職を生業としていた。
それが原因なのかは定かではない。
が、悲劇は起きてしまった。
まだ私が幼稚園の頃である。
「ただいま」と叫んでも返事がない。
部屋はめちゃくちゃに荒らされ、“血”が飛び散っていた。
窓ガラスはすべて割られ、障子もすべて破られ、
ドアは斧のような刃物で破壊され、
階段にこびり付いた血痕が生々しかったのを今でも覚えている。
まだ幼い私だったがこの時、“察して”しまった。
まさか、ありえない。起こってはいけない。そんなこと考えてはいけない。
と幼い脳味噌を必死に回転させ、ふと浮かんだ最悪の展開を必死に揉み消そうとした。
顎から雫が血で汚れた床に落ちる。
悪寒が止まらなかった。
信じたくなかった。
震える身体に喝を入れ、私は2階への階段を登る。
一歩一歩、階段を登る度に鼓動が増していく、
濃厚な“死”の匂いが近づいてくる。
両親の寝室の前に着くと、油性マーカーでデカデカと何やら英語が書かれていた。
『Your parents were the best bitch!!(お前の両親最高だったぜ)』
意味は分からなかったが嫌な予感がした私はすぐにドアを蹴破った。
「父さん!!母さん!!――っ!?」
部屋に入った私の目に飛び込んできたのは“両親”の死体だった。
よく見ると手足が無い。
首をかき切られている。
母さんは丸裸。
父さんは首がない。
母さんの肢体には悪臭を放つ液体が、
父さんの体には無数の弾痕が、
二人共、目をくり抜かれていた。
『お前らみたいな底辺の糞共に明日の陽を拝む権利はない』とでも言いたげだった。
私は嘔吐した。
ああ、母さんごめんなさい。
折角、作ってくれたお弁当。母さんの身体に吐いてしまった。
ああ、父さんごめんなさい。
父さんが今まで護ってくれたこの身体を自らの手で汚してしまった。
そう、日常とは脆く、あっさりと崩れ去る。
その日まで、何もなく、幸せな日々を送れていたとしても、
何も起きないように気をつけて生活していても、
少しずつ、少しずつ日常は崩れゆく。
明日がだんだん、見えなくなっていく。
私にはもう、明日が見えない。
今生きているこの瞬間しか見ることが出来ない。
両親の葬儀が終わった後、私はとある男に呼ばれた。
そして、私にこう囁いた。
『両親の仇討ちをしたくないか?』
倫敦
「で?何の用だ、国王」
開口一番、ホームズはそう言った。
気のせいだろうか、いつもより彼の目つきは鋭い。
「...悪かったな、いきなり呼んで」
この国の現国王――フィリップ国王は実に申し訳なさそうに言葉を返した。
「まったくだ、オレが妾の子だからという理由でここから追い出した張本人からいきなりまた帰って来い、だなんて言われたらそりゃ気分も悪くなるさ」
やれやれ、と大仰に呆れてみせるホームズ。すると急に目つきが真剣なものに変わった。
「まさか、国王陛下。オレに“継がせる”為に呼んだのか?」
フィリップ国王は溜息をついた。
「...そうだ。よくわかったな」
「当たり前だ、オレはあの偉大な名探偵の一人息子だ。アンタの考えてる事なんてオレには筒抜けだ」
国王の顔から笑みが消える。
ホームズの顔が怒りで歪む。
「どうせ義兄様や義姉様が“あの”事故で継承出来なくなったんだろ?それで元々継承権の無いオレにアンタの血が混ざっているというだけで白羽の矢がたった訳だ」
「!?......何故“あの”事件を知っている...?」
今度は国王の顔が怒りで歪んだ。
ホームズは満足気に笑みを深くしていった。
「“あの”事件は国家機密事項だ!何故ただの一般市民であるお前がそれを知っている!!」
「ばーか、何度も言わせんな」
ホームズは胸に親指あて、こう言い放った。
「オレは名探偵シャーリー・ホームズの息子だ。いい加減認めやがれ、このクソ親父」
結局、ホームズは国王を継ごうとはしなかった。
寧ろ絶縁した。
本人曰く、
「あんなのオヤジとは認めない」
とのこと。
そして、彼は王族の血を捨てた。
王になる事が出来るのに、それを放棄した。
彼の横顔をみつめ、私は考える。
彼は本当は嫌だったのではないか?
王族としての血を、名を捨てることを。
彼の母親については知らない。
シャーリー・ホームズなんていう探偵は聴いたことがない。
裏社会で活躍していたのだろうか?
そして、色々あってホームズを身篭り、産んだ。
そして、.........亡くなった。
しかし、彼は母親について一切話さない。
何がこの家族にあったのかは私には分からない。
ただ、触れてはいけないような気がした。
きっとそれは誰にでも言えることだろう。
他者の家の事情なんて他人がどうこうできる問題ではないのだ。
でも、それでも私は彼の力になりたかった。
見てしまったから。
彼の亡き母を想う、涙を堪えた顔を。
今にも砕けてしまいそうな程、固く握り締められた彼の両の拳。
いつもは大きく見える筈の背中が、今日は一回り小さく見えた。
先ほどから降っていた雨は止む気配はない。
この雨が彼の心の奥底に溜まっているドロドロとした悲しみを洗い流してくれることを私はただ祈ることしか出来ない。
「実に滑稽だよ。名探偵」
その声は突如として空から降ってきた。
彼の革靴が鳴らす乾いた音は新たなる争いの幕開けを知らす音なのだろうか。
彼の笑みはこれから始まってしまう喜劇を前にして待ちきれない笑みなのだろうか。
彼の右手に握られている短機関銃は私達を穿ち、世界に牙をたてる叛逆の矛なのだろうか。
雨は止まない。寧ろ更に酷くなりそうだった。
code “Leviathan”




