第四話 「ダメ男、賭けに出る」
武田コーチの正確な年齢は解らないが、恐らく30歳後半から40歳前半といったところだ。水泳をやっているだけあって、見た目は若々しく、非常に逞しい体つきをしている。
「あ、もしもし!武田さんお久し振りです!ボイストレーナーの平良です!」平良は、瞬時に気持ちを切り替え、爽やかに話を続けた。「武田さんから先日お話を頂いた、動画製作の件、その後どうなったかなーと思って、ご連絡差し上げたのですが」
武田コーチは答えた。「あー、その件ね、わざわざありがとう。実を言うとね、撮影に使いたいプールがあるんだけど、そこのプールが大人気のプールでさ。スイミングスクールや老人ホームなんかで、予約が埋まってしまっているんだよ。それで、撮影をするとなると、終日予約を取りたいんだけど、なかなかね。三ヶ月後とかなら、予約はまだスカスカなんだけど、こちらの予定や平良君の都合もあるだろう。だから、こちらからも、平良君には近々連絡をしないとなーとは思っていたところなんだよ」
武田コーチが話を進めていく少しの時間で、平良は一生懸命に自分を慰めた。読みが外れただけさ。また別の手段を探せばいいじゃないか、と。
「あー……そうだったんですね……」落胆を隠しきれていない返事をしてしまい、焦るように気持ちを切り替え、平良は話を続けた。「わかりました!それであればまた三ヶ月後の日程を決めましょう!私がご連絡を待つ感じで大丈夫ですかね?」
「うん、そうだな。そうして頂けると助かるよ。悪いね、こっちの都合で振り回してしまって」いえいえと、平良が返すと、割って入る様に武田コーチは続けた。「でもなんだかさっきガッカリしてなかった?」と、武田コーチは笑いながら、更に話を続けた。「さては、何かしらの企みがあって電話してきたんだな?」
平良一徳という男は、計算高くひねくれている反面、妙に馬鹿正直な一面も持ち併せている男なのだ。「実は……」と、今回ロサンゼルスに行くことに決まった事、お金が足りていない事、もしかしたら、10万円という金額なら、武田コーチが即決してくれるかもしれないと思った事、武田コーチが撮影を先延ばしにしている理由が、金銭的な理由なのではないかと疑った事、またその読みが外れてしまった事を、正直に平良は伝えたのである。
「ははは、普通そういう事言うかなー!この歳にもなって撮影費が足りなくて撮影が出来ないだって?失礼な男だなー平良君はー!」爆笑をしながら武田コーチは痛い所を突いてきた。
「すみません。そんなつもりはなかったのですが、そう思われて当然です」と、言い終わる寸前で武田コーチはまたも話を割って入ってきた。「いやいや、そういう馬鹿正直な所が平良君のいい所なんじゃないかなー!俺はそういう馬鹿な奴大好き」
優しい言葉で返してくれた武田コーチの寛大さに、平良はより一層の恐縮をしてしまった。「ところで、平良君はアメリカでどんな事を学びたいと思っているの?」今回のアメリカ行きが、確かに勢いで決まってしまったのは、紛れもない事実だ。だがしかし、平良がアメリカで発声について学びたいと、そう思っていたのもまた事実なのである。
「話すと長くなるのですが……いや、なるべく短めに話しますね。日本人という人種は、実は世界的にみると、非常に独特な声の出し方をしている人種なんです。その独特な声の出し方が原因で、日本人の多くは、高い声が出ないとか、歌うとすぐに苦しくなるとか、そんな悩みを抱きやすいのだと私は思っています。
単純に、アメリカでどの様なレッスンを行っているのかが知りたいというのももちろんありますが、それ以上に、そんな自分の仮説を証明する、いいキッカケに出会える、触れる事が出来るのではないかと、思っているのです」
「へー熱いもんだね。すげーじゃん」と言いながら武田コーチは真剣に話を聞いてくれている。そんな武田コーチの行為に甘え、平良は更に話を続けてしまった。
「他にも、日本人が英会話を苦手とする理由も、日本人独特の発声法にあるのだと思っています。ですから、この仮説さえ証明出来れば、歌の分野だけではなく、広い分野のお役に立てると考えているのです」
武田コーチは少し黙った。その沈黙から武田コーチの気持ちを感じ取った平良は「しまった、話し過ぎてしまった」と思い、謝ろうとした瞬間、思いもよらぬ言葉がスマートホンから響いてきた。
「本当に10万で撮影も編集もしてくれるんだな?」平良はその言葉の意味が、あまりよく理解できていなかったが「は、はい!」と勢いよく答えた。「わかった、じゃー先に10万振り込むよ。それでプールの予約が取れ次第撮影を頼む。条件として、こちらの都合に合わせてもらうよ!それは問題ない?」夢でも見ているのではないかと思うほど、有り難い話だった。
平良から、妥協のない素晴らしい作品を作るという条件の追加と、これでもかというほどの「ありがとうございます」の言葉を伝え、武田コーチとの電話は終わった。
電話が切れたのを確認した平良は、あまりの嬉しさから、体が硬直してしまっていた。自分に起こった事が、現実のものだと理解が追い付かない内に、メール着信の音が鳴った。武田コーチからだ。「先程はわざわざありがとう!振り込み先の口座を教えて」現実だ、平良はそう理解した。すぐさま自身の口座情報を返信して、平良は煙草に火を着け、煙をふかしながら心の中で呟いた。
「こんな事なら初めから素直に話して30万請求するんだったなー」実にダメ男である。