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ダメ男、アメリカに行く(前編)  作者: 江川崎たろ
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第十五話 「ダメ男、リハビリをする」

翌朝、平良は目を覚ますと、一樹が近くにいない事にすぐ気がついた。しかし、隣の部屋から大輝と一樹の話し声が聞こえてきたので、安心した。


今日は昨日とは違って、天気が良さそうだ。青いカーテンの隙間から、光が射し込んでいる。ボサボサの頭を掻きむしる仕草で、平良は兄貴達に挨拶をしにいった。どうやら二人で本を読みながら、意見を交わしあっているみたいだ。


「おはよう、俺も昨日読んだよ」平良がそう言うと、二人とも「おはよう」と言って、すぐに意見の交わし合いに戻った。「なんだよ」と小声で呟きながら、少しすねた表情を作り、玄関のすぐ側にある、キッチンの換気扇の下で、煙草に火を着けた。


それにしても、久々に兄と一緒に過ごしているこんな朝は、とても懐かしい。朝起きたら兄達が遊んでいる。そして後から来た三男坊は、仲間に入れてもらえずにすねるのだ。そんな事が、幼い頃にもあった様な……。もちろん、今の二人は決して遊んでいる訳ではないのだけれど。無邪気な可愛らしい姿は何処にも見えないが、今、母の事を一生懸命に考えて、話をしている二人の姿は、とても美しい。


そうだ、この光景を母さんにも見せてやろう。母さんが退院したら、一樹にも頼み、お祝いを兼ねてこの部屋でお泊まり会をするんだ。と、平良はワクワクしながら企んだ。


昔、何かのテレビ番組で「人は親の死を経験して初めて大人になる」なんていうのを見た事がある。だがしかし、逆に親が死の淵から無事に戻って来てくれると、安心感からか子供に戻ってしまうのかもしれない。


平良は煙草の火を消すと、急に思い出したかの様に、急いでスマートホンを取り出した。レッスン予約を入れてくれている生徒さんに、今回の事情を添えた謝罪のメールを、一人ひとりに送る為だ。


今はレッスンに集中が出来ないので、という建前と、お見舞に通いたい、母や兄と少しでも多くの時間を共有したい、そんな本音が心の中にはあった。もちろん、建前も本心であり、嘘ではないのだけれど。「本当にごめん」と呟きながら、一件一件丁寧に送信ボタンを押していった。


そして、13時半になり、14時からの面会に向けて、平良三兄弟は車に乗り込んだ。やはり、母に会いたいという気持ちは、皆同じなのだろう。これから病院に向かうとは思えない程に、車内の空気は楽しげだ。しかし、そんな楽しい気分も、母の病室が近づくにつれて、消えていった。廊下まで何者かの嗚咽が聞こえて来るのだ。


そして、病室の入口に差し掛かった時、その嗚咽は母のものだとすぐにわかった。急いでベッドを取り囲むカーテンの中に入ると、ノウボンと呼ばれる医療用の桶に、母が嘔吐していた。


平良は、そんな光景を目の当たりにして頭の中が真っ白になり、身体が硬直してしまった。安易な考えかもしれないが、穏やかに、息子達を出迎える母の姿を想像していたからだ。やはり、癌というはそんなに恐ろしいものなのか。


看護婦さんが世話をしてくれたお陰で、まもなく母は落ち着きを取り戻し、そして微笑んだ。「ごめんね、朝から何度も吐いてるの」子供達が心配そうに駆け寄ると、母は大変喜んでくれた。苦しくて辛いはずなのに、笑顔で凄く嬉しそうだ。


昨日はまだ、会話が出来る状態ではなかったが、今日はもう、問題なく声も出せている。少しだけかもしれないが、回復していた。安心した。母の声が想像でも幻聴でも何でもなく、今、間違いなく母の身体から響いてきたのだ。


平良は頬をつたった涙を、バレない様にすぐに拭った。母は生きている。それなのにあまり泣きすぎるのも、逆に心配を掛けるだろうと、そう思ったからだ。


そして、母は今朝、主治医の佐久真先生に話された事を、一生懸命に教えてくれた。「佐久真先生はね、他の患者さんの事を気に懸けて、とても静かにカーテンの中に入ってきたの。そして小声でこう言ったのよ。「いやぁ、今回の手術は本当に危険な手術だったんですよ。というのもね、卵管から卵巣に転移している為、それらは摘出し、子宮にも転移する可能性があるので摘出させた頂きました。そして、リンパにも転移している可能性があるので、一本一本、切断しました。一本一本検査した結果、転移が無かったので縫合してあります。ただ、リンパの切断で多量の出血があった為、輸血も大量に行われました。そして、腸や胃に転移がないかも確認する為、かなり大きく開きました。その為かなり大きい傷口が残っています。それが元で、腸閉塞という病気に掛かる可能性もありますから、お腹に痛みや吐き気が生じたら、その時はすぐに教えてください。それから、今後はC型肝炎にならない為に、血液検査をマメにしていきましょう。はっきり言って、これだけの手術になったにも関わらず、生きているというのは奇跡です。ですから、命を無駄にする事なく、しっかりと、頑張っていきましょう」


これが、佐久真先生からの今朝の話しだ。母は佐久真先生の話が終わった直後に嘔吐していまい、腸閉塞の疑いから、レントゲンを撮っていたとの事。そして、やはり腸閉塞だった。腸閉塞は命にも関わる大きな病気だ。油断は決して許されない。


これからの一週間は、水だけで過ごさなくてはいけないそうだ。そして、歩けるようになったら、毎日院内を散歩する様にと、指示を受けたらしい。それにしても、佐久真先生が奇跡だと言っているんだ。それは、母が手を振ったあの瞬間が、本当に母との最後のコミュニケーションになっていたのかもしれないと、そう思わずにはいられない話だった。改めて、この奇跡に強く感謝だ。



平良は、グラスに注がれたジントニックを飲みながら、煙草をふかす。あまりにも見慣れた光景が、5月10日の“そこ”にはあった。


母は、誰もが驚くスピードで回復をしていき、なんと三週間にも満たない5月5日に、退院を果たしたのだ。子供の日に退院するなんて、どこまでも母さんらしい事をしてくれたなと、平良は思っていた。


退院までの道程は、決して楽なものではなかった。一樹は仕事がある為、週に二日間だけ顔を出してくれた。大輝は交通費の節約の為、あまり顔を出せそうになかったが、それがあまりにも悔しそうだったので、平良がロスの軍資金から、五万円を貸した。思うように働けない人にお金を貸すわけだから、返ってくる事はないだろうと思っていた。痛手ではあるが、それでも、毎日大輝と顔を合わせる事が出来たので、平良は嬉しかったのである。もちろん、母も嬉しかっただろう。


そして、平良は毎日病院に通った。一番の目的は、母と手を繋いで、ゆっくりゆっくり院内を散歩する事だった。調子の良い時は日に二回、調子の優れない時は、一回だけの日もあった。 息子に手を繋いでもらい、嬉しそうに院内を散歩する母の姿が愛しくてたまらなかった。 時々、散歩中に涙を流し、二人で笑いあったりもした。普段のだらしない生活が浄化されていく。そんな錯覚をする程に、幸せな日々だった。


4月の末だったと思う。大木武志が母のお見舞に来てくれた。これには母も喜んだが、それ以上に平良は喜んだ。わざわざお見舞に来てくれた事はもちろんだが、何よりも久々に、平良一徳という一人の男になる時間も、与えられたからだ。


ここ最近はずっと、平良由里子の息子、一徳だったのだ。当然同一人物ではあるのだけれど。優しく母想いな息子でいる期間が長くなる事で、今まで必死に磨いてきた牙が、抜けてしまう様な、そんな不安が平良にはあったのだ。


そして、大木を見送った後、平良は母にロサンゼルスに行く事を初めて話した。資金繰りの事などは、変に不安を煽ってしまう可能性がある為伏せておいたが、それでもやはりロサンゼルスに行く事自体を不安視していた。


その不安を必死に和らげてくれたのは、大輝だった。一徳なら大丈夫!こいつのコミュニケーション能力は凄まじいものがあるから!と、笑ってくれた。とても嬉しかった。


そして退院当日は、一樹も会社に無理を言って、二日間だけではあるが、休みを貰ってくれた。これは、平良が大輝のアパートで企んだ計画に、快く乗っかってくれたからだ。


その日は祖母達も勢揃いしていたので、平良には少しばかりの緊張が走ったのを、強く覚えている。「あら、一徳はまだそんな爆発したみたいな頭をして!」と、笑っていた祖母を見て、少しだけ安心はしたのだけれど。


そして、車に乗り込んだのは、平良三兄弟、そして母、由里子だ。もしかしたら、二度と会話が出来ないかもしれないと思っていた人と、こうして車に乗れている事は、とても感慨深いものがあった。きっと皆が同じ気持ちだったのだろう。大輝なんて「ごめん、まただ」とか言いながら涙を流していた。皆で笑った。


その夜、母は久々の自宅に歓喜していたものの、やはりすぐに疲れてしまい、21時には床についた。そして翌朝、平良が母に見せたいと思っていた光景を、見せてやれたと思う。


その日の夕方に一樹は帰ってしまったのだが、平良は少しの間、泊まっていく事にした。母と散歩をする目的があったのと、もう少しこの空間に身を置きたい、この時間に浸っていたいと思ったからだ。


今回、母の退院が早まったのは、抗がん剤治療を断ったのも1つの理由だった。佐久真先生はあまりいい顔をしなかったが、母もその考えに同意してくれたので、仕方がなかったのだろう。日々の散歩と食事制限、そして二週間に一度の通院が条件の退院だった。


一樹の慎重な性格と、的確且つ強い判断力が、今のこの幸せを作ってくれたのかもしれない。思い返していると、また目頭が熱くなった。


そして今、丸くなった牙を尖らせる意味を込めて、66に平良はリハビリをしに来ているのだ。親戚とのやり取りがまだ、心に引っ掛かっている。今夜、その記憶を酒と共に流してやろうと、気合いに満ち溢れていた。


騒いだ、とにかく騒いだ。頭が狂ったのではないかと、そう思う程に騒いだ。それが、楽しいのかどうか、実のところ、よく解らない。それでもいい。それでよかった。今この瞬間を、騒ぎ通したい。騒ぎ通す事で、見つかるものもあるはずだ。そう信じて、騒ぎまくった。


会計は2万9千円。バーで払う金額とは思えないが、それだけ使ってしまったのだ。しかし、今夜の平良はへこたれなかった。全くもって、へこたれない。まるで、完封勝利を修めた投手のように、強く勇ましく、堂々としている。これぞ平良一徳、いつもの事だ、と。

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