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ダメ男、アメリカに行く(前編)  作者: 江川崎たろ
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第十三話 「ダメ男、安堵する」

「平良由里子さんのご家族ですか?主治医の佐久真です」ロビーにいる全員が一斉に立ち上がった。


「実は、あまり状態が良くなくて、もう少し時間が掛かりそうなのです。というのも、原発は卵管だったのですが、卵巣にも転移してしまっています。ですので、これから卵巣、そして子宮も全摘出します。子宮の摘出は、今後転移の可能性がある為です」


大輝は勢いよく佐久真先生に尋ねた。「母は、母の体力はまだ残っていますか?耐える事が出来そうですか?」佐久真先生は「まだ、何とも言えません。もう少し時間をください」と言うと、お辞儀をして足早に戻っていってしまった。


立ち上がった全員は椅子に座ろうともせず、神妙な面持ちで時間の経過と戦った。誰一人として言葉を発する事もなく、時おり平良と大輝は目を見合わせた。平良の鋭い眼光が「大丈夫だ、信じろ」と、大輝にメッセージを送る。大輝にはそれが伝わったのだろうか、真剣な目で頷いた。


今この瞬間、一番大変な思いをして闘っているのは母、由里子だ。しかし、平良と大輝も、間違いなく、目には見えない何者かと闘っていた。恐らく二人とも、同じ相手と闘っているのだろう。


何か言葉を発しようにも、何を喋ったらいいのか全く解らない。そして沈黙が続く。その場に漂う空気は、今までに感じた事のない、言い表しようの無い色味だったはずた。


そんな状況でも、時計というのは、実に冷静な顔をしている。世界の決まり事だからと、規則を律儀に守りやがる。


平良も大輝も、まるで息を止めているのでないかと思う程に苦しい顔をしていた。胸が張り裂けそうというのはこの感覚の事をいうのだろう。駄目だ、もう駄目だ。平良は体が爆発してしまうのではないかという焦りまで感じ始めていた。


その時、数時間前にも聞いた慌ただしい音ともに主治医の佐久真先生が表れ、マスクを外しながら言った。「手術は成功しました」嬉しい報告の筈なのだが、まだ心も身体も安心できずにいた。そして佐久真先生は続けた。


「だからと言ってもまだ安心する事は出来ません。これからは癌の転移やC型肝炎という病気に備えて投薬治療に入ります。もう消灯の時間ではありますが、どうぞ皆さんも病室に来てください」


時計を見ると、五時間の予定がまるまる八時間も経過していたのだ。母は、八時間もの闘いに耐え抜き、そして頑張ってくれた。


そして、母のベッドがまだ到着していない病室に、一同は集まった。誰一人として私語をしようという気持ちにはなれない。すると、ベッドのローラーが走る騒音が響き始めた。


病室の入口に目を向けると、酸素マスクを着けてベッドに横たわる母の姿があった。麻酔の効き目がまだ完全に切れてはいないらしく、お話は出来ないかもしれませんと看護婦さんが説明してくれた。問題なく母のベッドは然るべき場所に設置され、とても弱々しくなった母の顔を注目した。母は、生きている。


誰もが驚いた事だろう。平良は普段の低い声から一転、甲高い子供の様な声を出して泣き始めた。「母さんごめん、ごめんね」と、何度も繰り返し言っていた。


すると、大輝も泣きながら「良かったね、母さん生きてるね」と言って、そして平良の背中を擦った。すると、叔母が母に向かって言った。叔母は母の妹だ。「よかったねー、ゆーちゃん!子供達がこんなに泣いて喜んでるよ!」すると、母が何か言いたそうにしているがマスクが邪魔をして何も聞こえてこない。


看護婦さんに許可をもらい、マスクを一時的に外させて貰った。すると母は、振り絞られた細く弱い声で「たからもの」と言った。声にならない声というのは、こういう事を言うのだろうか。でも確かに「たからもの」と言っていた。


「何言ってんだよまったく!それじゃー元気そうだからあたしらは帰るね!」叔母は優しく冗談の好きな人なのである。しかし、平良と大輝には「たからもの」という言葉の意味がわかった。


母は、三人の子供達が宝物だとよく言っていた。平良と大輝は再び声をあげて泣いた。生きているのに何故こんなに泣くのだろうかと、看護婦さんさんは思ったに違いない。


あまりに二人が泣くもので、皆がなかなか帰れずにいると、小走りで誰かが向かってくるのがわかった。次の瞬間「すみません遅くなりました!」次男の一樹の声だ。


一樹は誰にも挨拶をせず母のベッドに近づいた。そして、眠っている母さんの顔をじーっと見つめてから、改めて話始めた。「到着が遅くなってしまい大変申し訳ございません!母さんはどうなっているのですか?」そうか、当然の事だが今まで起こっていた八時間の闘いを一樹は知らない。


目を真っ赤にした兄と弟の姿を見て何かを感じ取ったのだろう。

「二人とも、母さんの側にいてくれてありがとう」二人は無理矢理作った笑顔で頷いた。


今の息子達二人には説明できないと判断したのだろう、叔母が手術が予定より長引いてしまった事、大変ではあったが無事に手術は成功した事を一樹に説明してくれた。そして、その説明を聞いて改めて安心したのか、大輝はまた声を出して泣き始めた。


「え?成功してるのに何でそんなに泣くの?え?なんで?」一樹は笑っている。きっと、あの八時間を経験していれば、一樹も一緒になって泣いていたのだろう。そう思いながら平良は、まだ乾いていない涙を拭い、背筋を伸ばしてみせた。そして深呼吸をすると、「悪い悪い、あまりに二人ともナイーブな心境になり過ぎててさ」と一樹に伝えた。


すると、一樹は祖母達に遅くなってしまった事の謝罪と、遅くなってしまったがこの後食事に行けないかと相談し、そして母の隣に行き「また明日来るからね!」と伝えた。


皆で看護婦さんにお礼とこれからの事をお願いし、消灯時間の過ぎた病室を後にした。母はぐっすりと眠っている様子だ。そして、大輝はまだ泣いている。「もういいでしょ!」と平良に突っ込まれ、久々に笑顔を見せた。もちろん、泣きじゃくりながら。


平良はこの後の食事が内心とても怖かった。先程のモヤモヤが胸中を埋めつくしたのだ。食事に向かう道中、最悪はこの道を諦めて就職をするしかないかなと、覚悟を決めていた。

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