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ダメ男、アメリカに行く(前編)  作者: 江川崎たろ
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第十一話 「ダメ男、崩れる」

4月17日 18時過ぎ。兄の大輝から、母が倒れた事を知らされた平良一徳は、すぐにでも病院に向かいたかったのだが、このすぐ後から始まるレッスンをしっかりと終わらせる必要があった。


18時半待ち合わせのレッスンだったので、きっともう生徒さんは、柏に到着しているはずだ。母の事が心配でたまらなかったが、どうしても生徒さんを裏切りたくなかった。しかし、この判断が原因で、後に平良は、身内からひどくバッシングを受ける事となる。


翌朝、平良は電車とバスを乗り継いで母が入院をしている船橋市の病院に向かった。兄の大輝との電話でのやり取りでは、今はもう母方の祖母や、叔母に叔父が、病院に到着しているとの事だ。出来る限り早く来て欲しいと言われていたので、自分の足で走れる時は全速力だった。


そして、皆が待つロビーに到着。平良は、母の病状が何よりも先に知りたかったのだが、到着するや否や、話は思いもよらぬ方向から飛び込んできた。


「あんたはお母さんが倒れたっていうのに何やってんの!なんで昨日の内に来てやらなかったのよ!」祖母が怒っている。「ごめん、すぐにでも来たかったんだけど、仕事で来れなかったんだ」

正直に話したのに、それが逆効果だったのかもしれない。


「何が仕事よ。あんた、就職もしないでフラフラしてるだけなんでしょ。それになんなのよその髪型は」何も言い返せなかった。

平良は、激しくクルクルに巻いたパーマをかけていて、しかもかなり伸びきっていた。どうみても立派な社会人には見えないだろう。


しかし、就職もしないでフラフラしてるというのは納得がいかない。平良は悔しさが込み上げたものの、直感的に、今は何を言っても無駄だろうと悟った。きっと、祖母も冷静ではないのだ。


祖母に会釈をして、兄の大輝に母について確認した。この時はまだ、平良には母の病名が知らされていなかったのだ。「一徳、母さんね、末期の卵管癌なんだって……。」平良は固まった。初めて聞いた病名で、卵管癌というものが、一体どんなものなのかが解らない。しかし、末期という言葉が異様に重くのし掛かってきた。浅はかな平良の知識では、末期癌は死を意味していたのだ。


大輝は続けた。「それでね、これから卵管を摘出する手術をするんだ」大輝の目には涙が浮かんでいる。今は、まだ母に会う事が出来ず、手術室に向かうほんの少しの間だけ母に会えるらしい。手術まであと30分は掛かるというので、涙目で動揺をしている兄の大輝を、引っ張って一度外に出た。


喫煙所に到着し、平良が煙草に火を着けたのとほぼ同じタイミングで、大輝が泣き始めた。「俺、母さんには迷惑を掛けてばかりで、何もしてやれなかった」声にならない声を、嗚咽まじりで一生懸命に話している。


平良は、33歳とは思えない兄の号泣っぷりに少々驚かされたが、同時に納得もしていた。平良の家族はごく平凡な家族とは呼べない、色々と問題を抱えた家族だ。両親は平良が15歳の頃に離婚している。


実は、平良が高校へは行かず、中学校を出てすぐに働き始めたのは、この離婚が大きく影響しているのだ。平良が中学二年生の頃、両親は毎日の様に大喧嘩をしていた。見るに耐えない暴力を、親父が母に振るっていた事もある。一刻も早く離婚をして欲しいと思っていた。


そんなある日、平良が受験生としての自覚を持ち始めた頃、夜な夜なこんな会話がリビングから聞こえてきた。「一徳が高校へ行くのなら、高校を卒業するまで離婚は先延ばしにする」親父の声だ。


金銭的な理由がそこにはあるのだろう。子供ながらに平良はそれを理解した。その次の日、平良は両親に話をした。自分は進学をせずに働きたい。学校なんて時間の無駄で、お金を稼いで音楽活動をする。就職に影響するというが、プロのミュージシャンになるのだからそんな心配はいらない。大人からすれば馬鹿げた話なのだが、平良は本気だった。


何よりも、高校へ進学しなければ、親が離婚してくれると思っていたので、説得にも力がこもった。両親共に反対をしたが、平良は一度決めたら何がなんでも実行してしまう性格だ。親の反対など無意味だった。そして、そんな平良一徳の人生が、現在の平良一徳を作り上げたのだ。


離婚が成立してからは、貧しい生活を余儀無くされた。実は、平良にはもう一人兄弟がいる。男三人兄弟で、一徳が三男、大輝が長男。つまり、次男がいるのだ。次男の名前は平良一樹(たいら かずき)だ。一樹は、両親が離婚をする前から、アルバイトで貯めたお金を家族の為に使ってくれていた。現在も、もちろん真面目な社会人である。一樹も仕事ですぐには病院に来れないと知らされていたが、誰一人として文句を言う者はいなかった。


そして、長男の大輝。大輝は母親と二人でアパートに暮らしている。大輝は昔からとても優しく、真面目で責任感の強い人だった。しかし、そんな性格が災いしたのか、大学生時代に鬱を発症してしまい、33歳になった今では病状の悪化から薬は増え、仕事をしたくても出来ない。長く続けるのが困難な状態だった。そんな状態で社会人らしい生活を送る事は出来ず、生活面は母が働いて支えてくれていたのだ。


この様な背景を知っていたからこそ、大輝の言う「俺、母さんには迷惑を掛けてばかりで、何もしてやれなかった」という台詞は納得のいくものだったし、話を聞いている平良もとても辛かった。


それでも、平良はどうしても泣ける様な気分にはなれなかった。祖母からの暴言、兄の号泣、そして末期癌と、昨日までの自分では信じられない事が立て続けに起こり過ぎているからだ。混乱していたというのが正直な所だろう。


そして、病院の中に戻り、祖母達には、大樹と二人で母の手術を見送るのでロビーで待っていて欲しいとお願いした。


大樹と二人で廊下に到着してまもなく、母が寝ているベッドがエレベーターから下ろされた。看護婦さんと思わしき2名が、母のベッドを押してくれている。母の顔を見れたのはほんの一瞬で、息子達の顔を見て笑っていた。


そして、すぐに関係者以外立ち入り禁止の廊下へと入っていってしまった。その廊下は薄暗く、30メートル程で壁に突き当たる。そしてその突き当たりを左折したら、母のベッドは見えなくなるだろう。


平良と大輝は、呆然とその光景を見る事しか出来ない。そして、突き当たりに差し掛かる直前に、母がこちらに手を振ってきた。きっと、息子達を安心させたくて、元気よく“またねバイバイ”をしてみせたのだろう。しかし、その光景は、あの世へ行く為の“バイバイ”とも捉える事が出来た。もちろん、後者になる事はこれっぽっちも望んではいない。


母の姿が見えなくなり、無言のまま二人は外に出た。今度は、外の風を感じたタイミングで大輝はボロボロと泣き始めた。「母さんにもう会えなくなっちゃったらどうしよう」その言葉を聞いて、平良は初めて涙を流した。


しかし、一方が泣き崩れている時、もう一方は意外と冷静でいられるものなのだ。平良は煙草に火を着け、そして大輝にも一本の煙草を渡し、そして火を着けてあげた。「大丈夫だ、必ず成功する」手術は五時間を予定している。母さん、頑張れ。


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