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ダメ男、アメリカに行く(前編)  作者: 江川崎たろ
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プロローグ

2012年 5月 12日


気温は決して低くないのだが、風が気持ち良く、全くと言っていい程“蒸し暑さ”を感じない。


生まれて初めて降り立った海外の地に心を震わせながら、平良一徳(たいら いっと)は、新鮮さに溢れる空気を全身で味わった。


目の前に広がった光景は、イメージしていた通りの、あの憧れたロサンゼルスだ。


濃い青の大きな空には、ヤシの木がよく似合う。


日本で見る空と、今ここアメリカで見ているこの空は、理屈の上では同じ空のはずだ。だが、これはどう考えたって別物だろう。そう思わなければ、納得がいかない。こんなにも、空が大きいんだ。別物に決まってる。


しかし、まさか本当にロサンゼルスに来てしまうとは。貯金なんか無くても、一ヶ月もあればどうにかなってしまうものだ。


あの日、「大丈夫だ。余裕と言っただろ」と、カフェで宣言した事を、後悔する結果にならなくてよかった。諦めなくて、本当によかった。


それにしてもだ。これはいったい何だろう。得たいの知れない、何とも言えない感情に見舞われ、体が少しだけ震えている。こいつの正体は、興奮か、緊張か、いったい何なのだろうか。


……そうか。恐らくこれは、そのどちらでもない。全くの別物だ。あまりにも壮絶だった1ヶ月間の仕業にちがいない。


なんてったって、自他共に認めるこの『ダメ男』が、しっかりと計画を立て、無謀とも思える目標の1つを成し遂げたのだから。あまりの喜びに、体が震えたっておかしくはない。


今、目の前に広がるのは、普段の生活からは、大きくかけ離れたこの光景だ。見渡す限り外国人しかいない。これはまるで、ハリウッド映画の1コマだ。


「あ、いやいや、違うでしょ。外国人はこの俺でしょ」


そんな、どうでもいい突っ込みを自分に入れてはみたものの、決して、1ミクロも愉快な気持ちにはなれない。


同じ世界、同じ地球にいるはずなのに、まるで異世界にでも辿り着いてしまったかのような、そんな不安感に襲われているのだ。


そうか、そうだったのか。この体の震えの正体は喜びではない。潜在的な不安感からくるものだ。そうに違いない。


英語が喋れないという事実。これは、自分の意思を伝えることが出来ないことを意味している。丸裸で、道端に置き去りにされた赤ん坊になった気分だ。


もしかすると、捨てられてしまった子猫もこんな気持ちなのかもしれない。もちろん俺は、自らが選んで“ここ”にいるのだから、到底理解する事の出来ない壁が“そこ”にはあるのだろう。


だが、それでも今この壁は、ベニヤ板ほどの厚さしかない。そう思う。


ここはアメリカだ。銃社会だ。下手に動けば殺されてしまう。そんな、現実離れした『危険予測』をしてしまう知能を持っている分、ある意味では、人間の“成人男性”が抱く不安の方が、子猫の不安より大きいのではないだろうか。


しかし、このままいつまでも空港に突っ立っていても何も始まらない。まずはホテルを目指さなければ。


そこで、宿泊先の住所がプリントされた用紙と、ガイドブックを片手に、恐る恐る、空港の関係者と思わしき一人の女性に話しかけてみることにした。


清掃員風の衣装に身を纏った、少し太目の黒人女性にターゲットを絞る。歳は……推定40歳だ。


そんな、彼女のにこやかで優しそうな雰囲気のお陰で、平良は意外にも、あまり緊張せずに話しかけることが出来た。


「え、エクスキューズミー!」


「プリーズ、て、テルミーザ ディレクション、とぅーヒアー」


ガイドブックに書いてある通りにカタカナを読み上げると、彼女は「OK」と言い、そして微笑んだ。きっと、言葉が通じたから「OK」と言ってくれたのだろう。


すごいじゃないか。言葉が通じた。カタカナの英語が、確かに今、通じたのだ。


素晴らしい。実に素晴らしい。この調子でこの先も、何とかなるだろう。これは、確かな手応えだ。希望を抱かずにはいられない。


しかし、そんな希望は幻だ。間もなく、平良は奈落の底へと、突風が吹き荒れたが如く、凄まじい勢いで突き落とされることとなった。



彼女の、開かれた口から、解き放たれた言葉は、こうだ。



「○×#.@△●&%××%■○☆~♪」



……あぁ、なるほど。全然ダメだね。さっぱり聞き取れないや。それにしてもあれだな、ターザンて凄いよな。異国どころの騒ぎじゃない。動物だぜ、動物。よくもまぁ、動物とコミュニケーションを図れたものだな。


……なんて、落ち着いて考えている場合ではない。この状況はまずい。彼女はいったい、何を言っているのだろうか。呪文か、呪文なのか。これはやばい。暑いのか、寒いのか、それすらもう、何も解らない。


凍りつきそうな寒気を感じると同時に、額や背中に、じわりと汗が噴き出した。


「お、おー!そーりー!も、もうちょい、もうちょいスローで、プリーズ」


冷静な頭ではまず思いつかないであろうフレーズを、今にも泣き出しそうな顔をして、平良は一生懸命に伝えた。しかし、彼女はまたしても、摩訶不思議な呪文を唱えるだけだった。


「○×#.@△●&%××%■○☆~♪」


「お、オーケー!センキューセンキュー」


平良は、満面の笑みでお礼を伝えると、「バーイ」と手を高く挙げた。もちろん、さっぱり意味が解らないし、聞き取れてなんかいない。


小さなプライドがそうさせたのだろうか。必死になりながらも、それでも、動揺を悟られまいと、『大丈夫!理解できたよ!』と、言わんばかりの堂々っぷりで、格好つけながら女性の元を離れることを選んだのだ。


ガイドブックにはこのように書かれている。『同じアメリカでも、ニューヨークに比べて、ロサンゼルスの英語は聞き取り易い』と。ガイドブックとは、嘘をネタにする商売なのだろうか。ふざけている。



平良は焦った。悪事がバレた時、まさにこんな感覚に陥る。何とかなるだろうと思っていた自分の甘さに気付かされ、悔しさと恥ずかしさ、そして何より恐怖心が、急激に込み上げてくるのだ。


それだけではない。上手に呼吸が出来ないではないか。呼吸のやり方を忘れてしまっている。きっと、これが過呼吸ってやつだ。パニックだ。これは完全にパニックだ。


後ろ向きな状況というのは、頭を回せば回すほど、更に負の成分を増やそうとしやがる。今、平良が考えているのは、『もしかすると残りの6日間、ここから一歩も動けずに終わるのではないか』という絶望だ。さっきの呪文は、喰らった相手を絶望の淵へと追いやるやつに違いない。


過酷な挑戦に挑み、自分は今ここにいる。


多くの協力があったからこそ、ここにいる。


こんな所で挫けている場合ではない。


頭ではそう理解をしている。理解をしていても、心までは上手に操れない。これ程までに、自分のことを弱者だと思ったのは、生まれてこの方初めてだ。


こうなってくると、周りの目など、最早どうでもよくなるのだ。俺は弱者だ。そうだ、俺は弱者なんだ。失うものなど何もない。どうにでもなれ。さあ、どうする。いつもの俺なら何をする。


弱気を払拭させる為、そして自分を奮い立たせる意味も込めて、平良は甲高く大きな声で叫んだ。


「お、俺は、俺はロサンゼルスに来たんだー!!!!!」


周囲は一瞬静まり返り、そして間もなく、何事も無かったかのように平常に戻った。しかし、だからといって、そんなごく自然な光景に安心している場合ではない。


何を隠そう、平良一徳の旅は、まだ始まったばかりなのである。

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