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プロローグ 世界の中心で雨を喜ぶ先輩

「先輩先輩」

 背後から私に呼びかける声が聞こえる。

「先輩先輩先輩」

 呼びかけるその声以外には、ただ雨音のみで、かえってこの弓道場の静けさを強調している。学部棟とも幾分離れているし、まだ朝早いので、私以外に登校している学生がいるのかもあやしい。

「先輩先輩先輩先輩」

 声の主を除いて。

「まあ先輩が無視するっていうならいいです。僕はそのくらい気にしない寛容さを持っていますからね」

 寛容さを持つくらいなら謙虚さを持て。

 キリキリキリ…。弓を持った両腕を高く構える大三から、引き絞る会に入る。弓掛けを着けた右手は右肩上に、弓を持つ左手は狙いの先に。弦が胸当てに触る。

 先日まで居座っていた残暑を拭うように、ひっきりなしに降り続く雨は、代わりにひんやりと冷たい風を運んできた。私は朝練にかこつけて、ただ秋口の空気を楽しむために一時間早く家を出ていた。

 ビッ――バスン、と放たれたカーボン矢は、的を僅かに外れて安土に突き刺さった。

 弓を下に構えて音を立てずゆっくり座ると、私は深く細いため息を吐いた。

「で、ですね、先輩」

 律儀に引き終わるのを待っていたのか、後輩は急に話を継ぐ。

「僕はこう思うんです。人の体は、怪我だとか病気だとかに抗うようにできているんだって。指を紙で切ったりすると、傷口に血小板とかが集まってきて、血漿からはフィブリンが出来て、傷をふさごうとするし、風邪にかかって熱が出るのは、菌を殺すためだって言われてるでしょう」

 私は答えることなく、二本目、乙矢をつがえてまた立ち上がる。弓道では一般に二本一組で持つ。一本目が甲矢、二本目が乙矢だ。

「それで僕はさらにこう思うんです。それなら人が死ぬのはきっと、体が抗えないほどに辛くて痛いものか、あるいは体が抗う必要を感じないくらいに安らかで心地いいものか、どちらかなんだって」

 ビッ――バスン、外れる。

 私はまた座り、ため息を吐く。そしてようやく後輩に一言返す。

「どっちがいい」

「後者、いや、やっぱり前者かな」

 私は聞くだけ聞いて返事もせずに、次の矢を矢筒から抜く。

「あれ、先輩それだけですか、聞いといて」

 大体こいつは朝からこんなところに来て何をしているのだろう。ただただ弓掛けを磨いているばかりで、弓に弦も張っていない。くわえてぺらぺらと、ほとんどひっきりなしに口を開くのでろくに集中もできない。

 と、後輩を一瞥すると、

「ははーん、もしかして僕邪魔になってますね?今の先輩の眼光怖かったですよ。でも僕はあきらめません。僕は先輩を愛してやまないストーカーなんですからね。大学を一緒にしたのも、弓道部に入部したのも、朝イチで学校に来てるのも、ストーカーとして当然のことですから」

 などといつものように言う。

 後輩とは高校からの付き合いであることは周りにも知られているが、実際は違う。一方的につきまとわれているだけだ。私が無口なのを、許されていると勘違いしているのか、一向にそのストーキングも饒舌も止めようとしない。とはいえ家にまでつけてきたり、物を盗むわけでもないので、人には訴えにくいのだ。とはいえ、面倒なので通報もしてこなかったが、そろそろ世間のために補導でもされたほうがいいかもしれない。

 私が黙っていると、

「先輩はあれですもんね?ほら、あれですよ、あれ」

 と、口を開くのを促す。分かっているくせに、と私は無視する。

「言ってくれないんですかーかっこいいのにー。『言葉は話すだけ軽くなる。書けば積み重なる』ですよね?そうなると僕の言葉は紙みたいにぺらっぺらですね。今度から僕の愛はラブレターにして先輩に渡すことにしましょうか?紙だけに」

 ……。

「ところで話は戻りますけど、えっと、そう、前者。あれ?前者ってどっちだっけ。ああ、そうですそうです、痛みがある方でしたね。じゃあ彼女は、あの時どれくらい痛かったんですかね?下手すれば死ぬところだったんですし」

 彼女か。そういえばあの女性はどうなったんだろう?

 私の疑問を嗅ぎとったかのように、後輩はまた喋りだす。

「そういえばあの子、こないだ退院したらしいですよ。よかったですねー」

 気を抜くように語尾を伸ばす後輩に、あっそ、とまた一瞥をくれてやる。

 私は甲矢をつがえてまた弓を引く。

 そういえばあの日も雨だった。たしか梅雨明けが伸びていた時だったから、二か月前だ。

 二か月前のあの日、私と、このやかましい後輩は、一つの事件に出会ったのだ。

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