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露草  作者: くろぬこ
7/7

―結―

加筆修正をいたしました。





露乃   「どうしよう、もう路銀ろぎんが……」


語り   :箱根の関まであと一息というところで、遂に路銀を使い果たした露乃は途方にくれていた。

      上方への勤めの前の支度金の残り。

      旅先から少しずつ夫、新三郎が送ってくれていた金子きんす

      そして、繕い物や寺子屋の手伝いをして切り詰めて溜めた、金子。

      女一人が安全に旅するために、かかる金子は抑えることができない。


露乃   「歩きましょう」


語り   :街道を夜、女が独り歩きをするなど到底、出来ようもない。

     露乃が最後の宿を後にしたのは、それでもまだ薄暗い早朝であった。

      

露乃   『先ほどの宿で耳にしたあの噂。

      真珠を手にした若い侍が、箱根の関で捕らえられたという、あの噂。

      もしや……』


語り   :新三郎では――と考えれば考えるほど、心は先へ先へと急ぐ。

      噂……

      嘗て自分を翻弄し、そして夫の職さえも奪った。

      噂というものの怖さ恐ろしさを、露乃は身に沁みて知っている。

     

露乃   『もう、負けるものか…。

      噂などとあやふやなモノに、翻弄されるのは本当にもう、うんざり。

      わたくしは、自分の目で、耳で、貴方を確かめに参ります。

      でも、どうか…どうか、生きて再び巡り合えますように』


語り   :旅を見守る道祖神どうそしんに、そっと手を合わせ、祈る。

      江戸より旅立つその日まで、欠かさず続けた御百度参り。

      そんな風に、耐えて忍んで生きてきた。

      だが、今、いいや今こそ自ら動く。

      失ってしまった幸せを、二度と放す事無く取り戻す為に。




与平   「てやんでぃ、べらぼうめっ!」

 


語り   :十手じってを頂いたその時から、江戸の治安を護るため、心血注いで働いてきた。

      姿の良さもさることながら、数え切れない功績と、分け隔てのない人情で、評判の名物同心山岡与平が吼える。


与平   「てめぇの娘の旦那だからだとぉっ。

      親の代から八丁堀、迷う事無くおかみに十手を預かった此の俺だ。

      捕り物、張物、探り物、今まで身内びいきで物を言ったことなんざぁ、一度もねぇやっ」


語り   :新三郎に降りかかっている、数々の疑惑。

      御禁制密輸の片割れ、そしてあろう事か、金品に目が眩んでの備前屋殺害の容疑。

      どれをとっても、証拠の一つもない。

      火盗改かとうあらための詮議は厳しい。

      江戸へこのままつれて帰って、責め立てて口を割らそうという算段に違いない。

      何とかこのまま、奉行所へとつれて帰らねば――。

      冷徹であるはずの与平が、焦る。


与平   「と、まぁ吠えたところで詮無い事。

そちらさんもお役目だ。わざわざ出向いて、手ぶらで帰るわけにもいかねぇ処。

      それなら俺がこのまま足を伸ばして、件の真珠の出所をしっかり突き止めて参りやしょう」


佐島 「ほぅ」


与平    「そのかわりと、いっちゃあなんですが。

火盗の旦那方、新三郎に指一本触れちゃぁなんねぇですぜ。

      あいつは、江戸南町奉行様直々にご審議なさる、でぇじな証人だ。

      お互い、腰に下げてる魂ってやつに誓って、一時、待っちゃぁくれやせんか」


語り   :不敵な笑いを浮かべながら、静かに聞いていた侍達であったが、その中で筆頭与力ひっとうよりき佐島という男が、口を開く。


佐島   「よかろう。そのほうの噂、此方にも届いておる。

      何度か、下手人をさらわれ、そしてまた、何度か手助けもしてもらったようだな」


与平   「噂ねぇ。

      噂なんざ、当てにならねぇもんですぜ。佐島様」


佐島   「確かにな。だが俺の目もまんざら捨てたもんじゃぁねぇんだぜ与平。

      俺はお前の目を、そして俺の目を信じるんだ。

      あの、新三郎、とかいったなぁ」


与平   「へい」


佐島   「あいつの目、俺ぁそいつも、信じるよ」


語り   :にやりと笑う佐島。与平も耳にしていた此の男は、火盗改に此の人在りと謳われた佐島主水之助さじまもんどのすけ

      実のところ与平のあの啖呵は、此の男を信じるに値する人物と、読んでいたからでこそである。


与平   「二日、いや三日頂きたい」


佐島   「そいつぁ無理だ、与平。

      俺たちだってお役目で動いている。

      一日やれる。できるか」


与平   「一日ですかぃ――。

      やりやしょう。」




与平   「よぉ、起きてるかい」


語り   :関所内、座敷牢。

      旅支度を整えた山岡が、新三郎へと声をかける。


新三郎  「山岡殿」


与平   「すまねぇ、起こしちまったかな」


新三郎  「いえ、丁度眠れぬところでした」


与平   「そうかい、それならいいんだが――」


新三郎  「江戸へ……お帰りになられますか」


与平   「いやな、ちょいとお前さんが打ち上げられたという、浜へ行ってくる」


新三郎  「あの、浜へ……」


与平   「そうだ、その、おめぇに真珠を採ってきたって言う、海女」


新三郎  「真砂、ですか」


与平   「あぁ、そうだ。

      おめぇが真珠を売った竹屋、おめぇに往来手形を発行した庄屋。

      行きがけに全部回って何か証しになるもんを揃えて戻ってくる」


新三郎  「なんという……

      ご迷惑を」


与平   「お掛けします、なんて言うもんじゃねぇぜ」


新三郎  「…山岡殿」


与平   「俺はおめぇの、いいや、お露のためにだけ行くんじゃねぇ。

      八丁堀の意地ってやつよ。

      俺もまだまだ、とんがってるのさ」


新三郎  「っふ、ははは……

      不思議なお人だ」


与平   「おう、ようやく笑いやがったな。

      それでいい。その笑顔を信じて俺は娘をやったんだ。

      いいから、おめぇも俺を信じて、ゆっくりここで休んで待ってろよ」


新三郎  「……はい」


語り   :一度は背中を向けた山岡が、思いついたように振り返る。


与平   「そうだ、何か思い出したなら――」


新三郎  「はい」


与平   「火盗改の筆頭与力、佐島ってやつに、話してみな」


新三郎  「佐島……」


語り   :聞き覚えのある名前であった。詮議の中、周りのものが指示をうかがう男がいた。

      眼光鋭い、上背のある男であった。その男を佐島、と皆が呼んでいたのである。


新三郎  「わかりました。

      きっとその様にいたします」


与平   「おう。

      じゃぁな」


新三郎  「山岡殿っ」


与平   「ん」


新三郎  「お気をつけて」


与平   「おう」






語り   :山のからすが黒く群れをなし、子の待つ巣へと飛んでゆく。

      辺りもすっかり日が暮れて、人通りもまばらになった寂しげな街道を、お露は独り歩いていた。

      

露乃   『あと少し……。

      もう足が棒のようで感覚も無い。

      冷え切って、まるで凍えるよう。

      でも、止まるわけには行かない。

      もしかしたら、新三郎様が其処に、其処にいるというのに……』


語り   :厳しく辛い旅であった。

      寝る間、食す間、步く間と、留まり行う何もかもが惜しまれて。

      前へ、少しでも近くへと、心に押され進み行く。

      足袋は擦り切れ、血が滲み、もう今は、痛みすら感じ無い。


露乃   『辛くなんてない、苦しくなんて。

      それよりも貴方、新三郎様……。

      海に沈み、波にさらわれ、お辛かったでしょう。

      苦しかったでしょう。

      お露が直ぐに参ります。

      あと少し、あと少しで。もうすぐお側に参ります。

お待ちください、待っていて。

      もう、もう何処にも行かないで』





新三郎   「ー!」


語り    :座敷牢とはいっても、冷たい牢内に身体一つで横たわっていた、新三郎。

凍えた身体に胸を突かれたように 飛び起きた。

      

新三郎   「声が……」


語り    :聞こえた……ような気がした。

新三郎は、何故だか締め付けるように痛む胸を、着物の上から強く掴む。

       心に押し寄せるざわついた波。

       己の胸の内なる声が、新三郎、新三郎、しっかりいたせと呼びかける。


新三郎   「女の、声であった。

       あれは確か夢の……。

       胸が痛い、何故これ程に……。

       あの晩聞いた声は、俺を優しく暖かく包んでくれた。

       だが、再び聞こえたあの声は、胸を突き、きつく締め付ける。

まるで、きりりと締めるように……縋るように。

       一体何が。

       いいや、何かが、あの女にあったとでもいうのか。

       つゆの、露乃……。

       お前に何が」


語り     静まりかえる関所の牢内。

       記憶をなくした哀れな男が、夢見る女とは。

       それはいったい、何のなせるわざなのか。

       新三郎はそれが不安でならなかった。


佐島    「眠れぬか」


語り    :短くはあるが、静かな声で語りかける、火盗改筆頭与力佐島。

       新三郎は、不思議とその声を聞いて、胸が少し落ち着いてきた。


佐島    「こいつを、使うといい」


語り    :差し出された、薄い上掛けの布団。

       格子越しに受け取ると、何故だか熱いものがまなこを潤し、零れ落ちる。

       

佐島    「おいおい」


新三郎   「俺は。

       こうして在るのも、人の情けのお陰です。

       救ってくれ、送り出してくれた海女の女、気遣ってくれた漁師の皆。

       そうして、この俺を探し、なお又、救う為に旅立って行った山岡殿。

       江戸には、俺を案じて待つ、女房まで居ると聞きました。

       俺は、俺にはこの布団は、もったいなさ過ぎる」


佐島    「掛井…新三郎といったな」


新三郎   「はい」


佐島    「人間なんてよ、そんなもんだ。

       独りっきりで生きていくにゃぁ、この世の中は世知辛すぎる」


新三郎   「……佐島様」


佐島    「受けた情けはよ、何処かで誰かに返せばいいのよ。

       そんなふうに、少しずつでも皆が返していきゃぁ、俺らの仕事なんさ、要らねぇんだがなぁ」


新三郎   「……」


佐島    「おめぇに貸すその布団。

       いつか何処かで、きっと誰かに掛けてやるんだぜ」


新三郎   「はい……はいっ」


語り    :薄い布団を、大切そうに胸に抱えて泣く、新三郎。

       凍える冷気が、息を白める。

       真冬の牢に、染み入るようにその言葉が、辛いさだめの若者を、包むが如く温める。




露乃    「あぁ…やっと…

       やっと着いた」


語り    :箱根関所、江戸口門前。

       生まれて初めての長旅。

江戸を離れたこともない。

愛しい夫、新三郎。

会いたさ、恋しさ、その一念で、遠く此処まで、やっとの思いでたどり着く。

      だがしかし。

露乃が佇む江戸口門は、とうに暮れ六つを過ぎ、閉ざされていた。


露乃    「……、開くのは…明け六つから……

       どうしよう、もう関宿に止まるお足なんて無い……」


語り    :辿り着いたのは寅の刻。明け六つまでまだ間がある。

       年明けの冷たい夜風が、身を凍えさす。

       途方に暮れ、閉ざされた冷たい門に、身を寄せる。

そのうして雪に折れ行く枝さながらに、そのまま崩れ落ちてしまった。

       すると其処へ朝方、山岡を案内あないした役人が、朝番の準備をしにやって来る。

       門前にまわると、華奢な女が独り、門前に雪に埋もれて蹲って居るのを見咎める。


岡田    「これこれ、このような所で何をしておる。凍えて死ぬぞ。

       開所は明け六つじゃ、関宿せきやどにでも行って、一眠りしてまいれ」


露乃    「いいえ、後生です。何卒此処で待つことをお許しくださいませ」


岡田    「いいや、ならぬ。そのような事、まかりならん」


露乃    「お許しくださいませ。怪しいものではございません。

       これこの通り、手形も揃えてございます。

       わたくしの父は、お上の命を受け、此方に伺っては居りますまいか」


岡田    「お上の命、だと。

       どれ、手形を見せてみろ」


露乃    「はい、ここに」


岡田    「掛井、露乃――。

       八丁堀同心山岡与平長女――。

       なんと、そなた、山岡殿の娘ごかっ」


露乃    「は、はいっ。

       父を、父をご存知ですかっ。

       父は此処に」


岡田    「山岡殿は、今は此処には居られぬが……

       そなたの…」


露乃    「!

わたくしの、わたくしのなんでございましょうっ」


岡田    「……生憎、夕べ遅く旅立たれたのだ」


露乃    「夕べ?

       一体何処へ……」


岡田    「お役目の事で、詳しくは申せぬのだ。

       許せ」


露乃    「……左様でございますか」


岡田    「訳あって、明日の明け六つには、此方に戻らねばならぬらしい。

       それまで、こちらで待たれるか」


露乃    「明日の明け六つ……」


語り    :露乃は迷った。お役目で旅立ったという父、与平。

       明日の明け六つには、此方に戻るという。

       

露乃    『でも、いったいなんのお役で……

       もしや其処に新三郎様が……」


岡田    「いかがいたした。露乃どの」


露乃    「あの…お役人様」


岡田    「うむ」


露乃    「風の噂で聞きました。

       此方に、真珠を持った若侍が、捕らえられていると」


岡田    「ううむ……どうしてそれを…」


露乃    「お願いです。

       見知った者やも知れません。どうか、風体だけでも、教えてくださいませぬか」


岡田    「見知った者……」


岡田    『そういえば、この女も掛井。

       では、自分の娘の亭主であるというのは、本当の話なのか』


露乃    「お願いでございますっ」


岡田    「まぁまて、待たれよ、露乃どの。

       今もっと詳しく知るお方に、お伺いをたてる。まずは此方の番所にて、暖を取られよ。

       女子おなごの一人旅、ご難儀お察しいたす。

       ささっ、こちらへ」


露乃    「は、はい」


語り    :促され、番所へと導かれる。

小さな七輪が、優しく迎え入れる。

       宿代もなく、身を休める事も出来ずに歩き続けてきた、彼女の冷えきった心と身体を暖める。

       だが、岡田が露乃を引き入れたのには、哀れみだけでなく役人としての訳があった。

       詮議中の若侍。

掛井何某では、という事実の証明を待つ、あの若者に所縁の女。

であればこそ。

きっと何か、手がかりを持っているやも知れぬでは無いか。

      その様な画策も知ってか知らずか。

凍えた指を七輪にかざし、しきりに擦り合せては、ほぅと溜息をつく露乃であった。




佐島    「其の方が、掛井露乃であるか」


語り    :溶ける様に身体の感覚が戻ってきた所に、背中で名を呼ぶ男が居た。

       そちらへと振り向くと、男が一人、露乃をじっと見下ろしていた。

       上背のある、涼やかだが眼光鋭いこの男。

どこか父に似ている……と露野は感じた。

       姿も形も、年齢でさえ違うであろうこの男に、何故だか父の面影が重なったのである。


露乃    「……」


佐島    「どうした、相違ないか」


露乃    「はい、相違ございません」


佐島    「左様か。

       それではそなた、山岡与平なる、南町奉行所同心の娘であるというのも、真であるな」


露乃    「はい、それも相違ございません」


佐島    「尋ねたい事があるとか」


露乃    「はい」


佐島    「申してみよ」


露乃    「こちらに、若い男が、捕らえられていると聞きました」


佐島    「確かに詮議中の者はおる。

       若い男だ。

       だが、それが如何いたしたというのだ」


露乃    「見知った者やも知れません。どうかっ、会うことは叶いませぬか」


佐島    「それはならぬ。詮議中であれば、無闇に其方と会わす事は出来ぬ」


露乃    「…では、ではっせめて、人相風体だけでもっ」


佐島    「何ゆえ、その様な申し出をいたすのか。

       詮議が終わって、罪科つみとが

無しとなれば、晴れて会うことも出来るやも知れぬが」


語り    :いいえ今すぐにでも会いたいのです…と、喉まで出かかる言葉を飲み込み静かに語る露乃。

       このような場合に役人が、何をどのように聞いてくるか……。

同心の、しかも腕利きと名高い山岡与平の娘である、露乃には分かりきっていた。

      

露乃    「正直に申し上げます」


佐島    「うむ、申してみよ」


露乃    「確かにわたくしはお尋ねの通り、同心山岡の娘でございます。

       しかし、わたくしはの名は掛井露乃。

       既に嫁ぎ、夫を持つ身の上」


佐島    「うむ、手形にも左様記されておる」


露乃    「はい。

       わたくしの夫は、掛井新三郎と申す者。

       清廉潔白、誰に問うても、一点の曇りも無い、実直な夫でございます」


佐島    「なるほど」


露乃    「身に覚えの無い罪を着せられ、自らお役を退きましたが、腐る事無く、恨む事なく……。

貧しいながらも夫婦寄り添って、懸命に生きてまいりました」


佐島    「ほぅ、冤罪とは聞き捨てならんな」


露乃    「それについては、後ほど詳しくご審議いただきたい事がございます。

       ですが、その前に、もう少しだけわたくしの話を聞いてくださりませ」


語り    :腰掛け、見下ろす佐島を前に、その場に座り神妙に語る露乃。

       だがしかし、露乃の話に懸命に耳を傾けている者がもう独り。

       暗い通路のそのまた陰に、潜んで佇む新三郎が、火盗改に腕をつかまれ聞いていた。

       

新三郎   「……」


語り    :おし黙る姿に小声でそっと囁かれる。

覚えがあるか…と囁き問われる。

だが 新三郎は、お白州宛ら傅く、露乃を見つめる目を伏せ、 残念そうに首を振る。

       どんなに目を凝らそうとも、耳をそばだてようとも。

目の前の女に記憶と呼ばれるものは何一つ甦ってはこなかった。

       だがあの声は…確かに夢で聞いた女の声……。

       三つ指をたて、佐島を見つめるその瞳も、なぜだか懐かしい思いを呼び覚ます。

       だが其れは、記憶ではない。

       あれは見知った者だと心が語るだけで、妻であるかと問われても、はっきりと認める自信が無い。


新三郎   『あれが、露乃……。

       俺の妻なのか……山岡殿の娘ごなのか……。

       …美しい人だ……。

       あの様に美しく、そして凜としてたおやかな……。

       泪を零さぬようにと耐えながら、夫の話を、夫婦の絆を語っている。

       愛情深く、優しい女なのだな……』


露乃    「……これが全て……。

妻として、もしも夫と生きて再び合えるならと……。

女だてらに江戸を後に一人で此処まで参りました。

       なにとぞ、なにとぞお願いでございます。

       確かめるだけでもお許しくださいませ。

       其処に捕らわれている牢の者が、夫であるか無いかだけでも…!」


佐島    「……話は其処までか」


露乃    「わたくしの想いは全てお話いたしました」


佐島    「うむ。冤罪云々の話はともかく、そなたの想い、確かに受け取った。

       …おい」


岡田    「ははっ」


語り    :呼ばれた者が一人そっと進み出でて佐島の耳に何か囁く。

       佐島は一瞬露乃を見、そしてそっと目を瞑る。


佐島    「…掛井露乃」


露乃    「はい」


佐島    「そのほう、確かめたいと申したな」


露乃    「はい」


佐島    「確かめて、夫であれば…そなた、どうする」


露乃    「それは……」


語り    :わかりきったこと…と言い掛けて露乃は言葉を飲み込む。

       何故そんなことを…。

       何か、夫の身に、新三郎の身に異変が…。

       露乃は、目の前の父と同じ匂いのする、佐島の鋭い双眸をじっと探った。


佐島    「…如何いたした。

       今一度問おう。

       そなた、夫の無事を確かめていかがいたす」


露乃    「夫であれば、掛井新三郎に相違ないとわかったのならば……」


佐島    「うむ」


露乃    「わたくしは、掛井新三郎の幸せが、自らの喜びと成る女。

       それ以外に望むものは何一つございません」


新三郎   「!」


佐島    「よく言った。

       夫を想うその言葉嘘偽りないと見た。

       ……露乃」


露乃    「はい」


佐島    「…てぇした女だな。

       さすが山岡与平の娘…てか。

       おめぇといい、親父さんといい。

       おれぁ久しぶりに、気持ちがいいや。

心意気、感じ入ったぜ」


露乃    「…」


語り    :心の中を見透かすような鋭い光を消して目を細める。

ああ、そんな様子も父に似ていると、そんなことが頭によぎったその時…。

露乃の耳に、聞きなれた泣き声が小さく聞こえる。

       まごう事なきその声こそ、恋しい夫、新三郎。


露乃    「あなたっ、新三郎様っ」


佐島    「なんでぇ、しょうがねぇなぁ。

       せっかくのお膳立てが台無しだぜ」


語り    :両脇を抱えられて、新三郎が明かりの元に姿を現す。

       子供のように泣きじゃくって、変わらぬ姿で目の前に居る。

       お露は立って駆け寄ろうとする心を抑え、ぐっと三つ指に力を込める。        

       焦ってはならない。

       焦ってまた、泡沫うたかたのようにこの幸せが消えてしまったら……。

       お露はじっと、佐島の言葉を待った。


佐島    「つぇえ女房じゃぁねぇか。

       どうでぇ、この泣き黒子の泣き虫野郎は、たしかにおめぇの亭主かい」


露乃    「間違い……ございません」


佐島    「そうか…良かったな」


露乃    「はい…!」


佐島    「露乃」


露乃    「はい」


佐島    「いいかい」


露乃    「……はい」


語り    :露乃の瞳はもう、溢れ来る涙を抑えることなぞ出来ようはずもなかった。

       しかし、それを恥と思うことなど無い。

       夫を思って泣くこの泪を、誰に恥じることがあろうか。

       そして、佐島の顔をじっと見つめる。

       その目の奥の言わんとする何かを、受け止めてみせると露乃は奥歯を噛み締める。

       佐島はほうっと溜息をつく。


佐島    『なんてつえぇ女だ。

       どれ程駆け寄って抱きしめたい事かよ……。

       そして…賢い女だ。

俺の目を見て探って探って……。

この期におよんで夫を傷つけまいと、ぐっと構えて待っていやがる』


佐島    「いい女だぜ…」


語り    :そっとそう呟くと、声を上げてそのままに後ろの新三郎に今度は問う。


佐島    「おうっ、そこの泣き虫っ。

       この女は、確かにおめぇの女房かい」


新三郎   「ぅ、うわぁぁぁ」


佐島    「馬鹿野郎っしゃきっとしやがれ!」


露乃    「……」


新三郎   「すまねぇ、すまねぇ露乃さんっ」


露乃    「ぇ」


佐島    「そうかい……。

       露乃、そういうこった」


語り    :泣き崩れ、その場に手を着いて土下座をする新三郎。

       白い額を潰れてしまえと言わんばかりに床へと押し付ける。

       一瞬大きく目を見開いて、その姿を眺めていた露乃であったが、

       深く静かに息を吸うと、また静かに深くそれを吐き、そっと目を瞑り、開くと優しく微笑んだ。


露乃    「御無事で何よりでございます。

       新三郎様。

       本当に……良かった」


新三郎様  「すまねぇ、すまねぇえええ」


露乃    「もう本当に…

       …新三郎様、子供みたい」


新三郎   「う、うわぁぁぁぁ」


語り    :新三郎の声が、静かな明けの薄青い空に吸い込まれてゆく。





語り    :箱根関所、番所。

       七輪の上で鉄の土瓶が蓋を鳴らして白い湯気を小さく刻んでいる。

       それを囲んで佐島と露乃が、静かにそっとその湯気を見つめている。

       露乃は口の端を少しあげて、愛おしそうに眺めている。


佐島    「落ち着いたかい」


露乃    「はい」


佐島    「本当に、てぇした女だな」


語り    :佐島はたもとに腕を差込み、なにやらしたためてある書状を取り出す。


佐島    「おめぇさんに預かったこの書状だが」


露乃    「はい」


佐島    「こいつは、親父さんに渡したほうがいいかもしれねぇよ」


露乃    「左様でございますか」


佐島    「あぁ、そうしてみな」


露乃    「父は……。

       間に合うでしょうか」


佐島    「なんでぇ信じてやんねぇのかい」


露乃    「いいえ、信じております」


佐島    「そうだよな、俺も信じているのよ」


露乃    「うっふっふ」


佐島    「なんでぇ、上機嫌だな」


露乃    「だってそりゃぁ…」


佐島    「おめぇさん、それで良いのかい」


露乃    「良いも悪いも…。

       生きてこうして、再び巡り合えるなんて…

       …贅沢言っては、罰が当たります。


佐島    「そうかい」


語り    :佐島の元へ慌しく火盗改の一人がやってきて耳打ちをする。

       佐島は立ち上がり、振り向き、告げる。


佐島    「ご帰還だぜ。

       揃ってお迎えと、洒落込もうか」


お露    「はいっ」





語り    :牢内。

       新三郎は、膝を抱えて座っていた。泣きはらし真っ赤に腫れ上がった瞼が、ひりひりと痛む。

       

新三郎   「あの様に泣くなんて……」


語り    :子供の様…と言いかけてまた思い出す。

       なんと健気で愛すべき女であった事か。

       愛しさよりも、人として、天晴れであるとしか言いようの無い潔さ。

       それに引き換え自分は……。


新三郎   「俺は、今のようにこんなに情けの無い男であったのか……。

       何ゆえ、あのような女子が俺如きを…

       …あれ程想うてくれる…尽くしてくれる女子を一欠片も思い出すことが出来なかった……。

       情け無い、申し訳ない……。

       それでも、許してくれるとあのひとは…」




新三郎   「あの女の夫であったらどれ程嬉しかろう。

       良く待っていてくれたと、嘘でもいいから抱きしめてやればよかったのか。

       否、其れは出来ぬ、その様な事、あってはならぬ。

       あの思いを謀る(たばかる)など…

       …そして、そんな俺の嘘を、きっと見破り、悲しむに違いない。

       あれは、あの女は……」


語り    :そういう女だ。

       そう心が彼に語りかける。

       新三郎が思い出せぬものを、心は全て知っている。

       彼の中のもう一人の男が、新三郎に語るのだ。


新三郎   「…ふふっ、また貴様か。

       大概にしてくれ…いささか妬ける」


語り    :膝を抱え、寂しく笑う新三郎。

       そのうち、うつらうつらと夢を見る。


新三郎   『お露……。

       お露に…を……」







語り    :番所。

       佐島と共に出迎えたお露を見て、与平は驚き、そして少しだけ落胆する。


与平    「そうか…会っちまったか」


佐島    「…すまねぇな」


露乃    「いいえ、父上。

       あの方が生きていた。

       これほど嬉しい事はございません」


与平    「…そうかい」


佐島    「良い娘を持ったな」


与平    「まったくで…鳶が鷹とはよく言ったもんでさぁ」


佐島    「なんの、この親あってこの子ありよ」


与平    「うちのカカァにそっくりで……」


佐島    「して、守備は」


与平    「へい、これが竹屋の証文。こっちが庄屋の書付です。

       そして確かに真珠の出所。

       これがその証拠でございます」


語り    :差し出す幾つかの文面には、確かに真珠の出所、売買の証文、身元保証の書付と揃っていた。

       そして、村一番の海女である真砂という娘の、その年に採った真珠の数と品質を証明するもの。

       これだけ腕のある海女であれば、好いた男に真珠の粒を一つや二つくれてやれても不思議では無い。


佐島    「良く揃えてくれた。

       本来、此方の管轄な処だが。おかげで手間が省けたぜ、そのまま奉行所に持って行くがいい。

       手柄も泣き虫もおめぇにやるよ。……無理難題、良く堪えたな」


与平    「いやいや、我侭聞いてもらっちまって…ご恩は忘れやせん」


佐島    「おう、忘れんなよ。

それともう一つ」


与平    「…へい」


佐島    「おめぇの娘がよ、面白いもん見せてくれたぜ」


与平    「へ? お露、おめぇ…何をした」


佐島    「まぁそう言うな。

       ……こいつを見てみな」


語り    :佐島から受け取った書面に素早く目を走らせる山岡。

       一度目を通し、もう一度確認する。


与平    「お露っおめぇ、これを一体どうやってというか此処にあるこれは……!」


露乃    「ちょっと機会があったので…

       …父上ならきっと役立ててくださると想いましたので」


佐島    「全く…大した女だぜっ、はっはっは」


与平    「いや…いやいやいやいや…

       …というかお露っ、此処にあるこいつは…おめぇ本当に無事だったのか」


露乃    「仕込まれたのは父上ではないですか。

       わたくしをお疑いになりますか」


与平    「いやぁ、そ、そんなこたぁねぇが…」


露乃    「それなら、きっと、お役立てくださいませ」


佐島    「っはっはっは、なんでぇ山岡、娘にはかたなしじゃねぇか」


与平    「や、そんなことはっ」


露乃    「うっふふふ」


与平    「お露っ」


語り    :お露が笑っている。山岡はそれで胸がいっぱいになる。

       何はなくとも、きっと全てがよい方向へ向いてゆく。

       いいや、向かして見せる……。

       手に持つ書面を力強く握り締める与平であった。



語り    :箱根関所、江戸口門前。

       旅支度を整え露乃と山岡が、門から出て空を仰ぐ新三郎を笑顔で迎える。

       陽だまりの中で微笑むこの父娘を眩しく見ていると、お露が進んで近づいてきた。


露乃    「新三郎様」


新三郎   「露乃さん…」


露乃    「お露、でいいんですよ」


新三郎   「し、しかし」


露乃    「練習」


新三郎   「!」


露乃    「練習してくださいませ。

       さぁっ」


語り    :さぁっと心が後押しする。


新三郎   「お、お露…さん」


露乃    「うふふっ、その調子」


新三郎   「う」


露乃    「さぁ、帰りましょう。

       皆待っておりますよ」


新三郎   「み、みんな…?」


露乃    「道々お話いたしましょうね」


語り    :さぁと、手を取ろうとする露乃の腕を振り払い、後ずさる新三郎。


露乃    「新三郎さま」


新三郎   「お、俺はっ。俺は新三郎殿では無いっ」


露乃    「…」


新三郎   「ずっと考えていた。

       だが、どうあっても何も思い出すことが出来なかった。

       そなたの気持ちは夕べ聞いた。

       だが、其れは俺にではない。

       俺は、そなたの恋しい新三郎ではないのだ。

       このままそなたの夫として、山岡殿に甘え、そなたに甘えて生きることなど俺には出来ぬ。

       それは、そなたの夫、新三郎殿に申し訳が…

       …だから俺は、俺はっ」


露乃    「そうですね」


新三郎   「ぇ」


露乃    「わたくしのことが思い出せない。

       そうなれば、きっと貴方はそう言われるでしょう」


新三郎   「お露さん」


与平    「お露」


露乃    「貴方を待っていた毎日、そうして行方の知れなくなってしまった貴方。

       わたくしが、何も考えないとお思いでしたか」


新三郎   「何を」


露乃    「あらゆる事をです。

       貴方が生きているか、死んでしまったか。

       貴方が生きていて、わたくしのもとに戻らなかったら。

       戻れなかったら……」


与平    「お露、おめぇそんなことを……」


露乃    「貴方がわたくしを忘れて、どこかで全く別の人間になって…

       恋をして、人生を歩んでいたら……」


新三郎   「…」


露乃    「たくさん考えるには、時間は有り余るほどありました。

       今、貴方は一人でこうして、生きて、わたくしの目の前に居る。

       何て喜ばしいことでしょう。

       新三郎様…

       …わたくしが、お嫌いですか」


新三郎   「そ、その様な事」


お露    「…夢をみました」


新三郎   「お、俺も。俺も見た。

       そなたが俺の名を呼んでいた。

       それで俺は、俺の心が、其れは自身の名であると……。

       不思議であるが…真の話だ」


お露    「信じます。

       貴方は、新三郎では無いとおっしゃるけれど…。

       貴方の悩み、貴方のこだわり、全てわたくしの知っている新三郎様に違いがございません」


新三郎   「し、しかし。俺はっ」


お露    「ゆっくりで、いいじゃないですか。

       江戸までの道、江戸に帰ってからの時間。

       再び巡り合って、こうして一緒に歩けるのですもの。

       またもう一度、いいえ、このまま、ただ、進んで参りましょう」


新三郎   「進んで」


お露    「そう、進んで」


新三郎   「俺は、そなたの夫と別人になるやも知れぬ」


お露    「それも、新三郎様です。

       わたくしを妻と思えぬのなら、それでも良いのです」


与平    「お露っ。それじゃおめぇ」


お露    「いいえ、本当に。

       わたくしは、新三郎様が、何故そうお考えになるのか。

       しっかりとわかります。

       変わらぬお心は、新三郎様そのまま」


新三郎   「そなたの知っている新三郎も、俺のように考えたと」


お露    「だって、新三郎様ですもの。

       露乃を…

       …しっかりと見つめてくださいませ。

       そしてもし、もう一度妻にとお考えになりましたら…」


語り    :其処まで言いかけた露乃を新三郎が抱きしめる。

       懐かしい新三郎の腕、首、匂い……。

       露乃は泣くまい、泣くまいと肩を震わせて堪える。


新三郎   「泣いていい」


露乃    「っ」


新三郎   「もう泣いていいんだ。

       俺は、俺も、もう一度しっかりと見つめてくれ。

       俺のほうこそ、こんな俺でもいいのなら…」


露乃    「…だって、新三郎様ですもの」


新三郎   「お露っ」


語り    :そう呼び叫ぶときつく抱きしめ、はばかる事無く声を立てて泣く、新三郎。

       お露は、そっと背中に手をやり、なだめるよぅに優しくさする。


露乃    「もう、新三郎様…子供みたい……」


語り    :幸せ。

       誰しもが追い求める。

       真っ青な空の下、いだきあう二人の男と女。

       お露と新三郎。

       何処にでもいる男と女の幸せの物語である。

       






与平    「さぁいくぜ」


岡田    「おぉい、山岡さーん」


与平    「これは、いかがしましたか」


岡田    「っはぁ、よかった間に合った。

       これこれ、佐島様に申し付けられていながらすっかり忘れてしまって。

       面目ない…。

       おっ、なんとこれは、お邪魔でしたかな」


与平    「いやいやっはっはっは」


語り    :薄っすらと見える涙の筋を照れくさそうに拭うと、それを受け取る。

       それを見ると山岡はもう一度照れくさそうに笑って、抱きあう二人に近づきそっと差し出す。


露乃    「これは…露草の…」


新三郎   「露草の…花であったのか」


露乃    「綺麗…」

       

新三郎   「海に沈もうとも、決してその手に掴んで放さなかったそうだ」


露乃    「ありがとう……」


新三郎   「良かった…な」


露乃    「はい」








語り    :江戸の町。本所深川の辺り、一軒のうどん屋がある。

       若い夫婦めおとが仲睦まじく商いをしているという。

       夫の名は掛井新三郎。

       被せられた罪を解き明かし、晴れて同心に復帰する。

       妻の名は露乃。

       きちんと結ったその髪に、小さな露草の花の飾りが揺れていた。

       だがそれは、また、別の物語にて……。



*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*


露草―完―



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声劇用台本をそのまま掲載しております。

無断使用禁止

ご利用希望の方は必ずご連絡ください


後半ルビを減らしました。

読み方はなるべく古めかしい言い回しでお願い致します。

ご質問頂いた江戸弁などの言い回しは、思い切り楽しんでいただければ幸いです。同様にどうしても読んでいただきたい漢字読み方には特にルビを残させていただきました。ご面倒でもそのようにお願い致します。

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