歯車
今回は、声劇台本形式にて掲載いたします。許可なく動画などの作品とすることを禁じます。放送配信などで使用の際には必ずご連絡ください。場合によっては前段お貸出することも可能です。
演じる際の性別転換禁止。内容の変更の禁止。
岡田 「こちらです」
与平 「かたじけない」
語り :箱根関所江戸口。数ある関所の中で、最も重要とされている此の関所は、詮議の程も特に厳しい。
江戸から早籠にて昼夜問わず駆け続け、男が辿りついたのは、まだ薄暗い明け六つであった。
岡田 「お役目とはいえ、ご苦労様ですな。よろしかったら寝所で少し休まれたらいかがでしょう」
与平 「お気持ちはありがてぇが……。
一刻も早く確かめんことには、気が休まりやせん。
どうにもせっかちな性分でして、お恥ずかしい」
岡田 「左様でござったか、これはいらぬ事を申しました。
いやぁ、江戸っ子ですなぁ」
与平 「いやいや、此方こそ我侭を言って申し訳ない」
語り :男の名は山岡与平。江戸南町奉行所同心である。
此度の御禁制の品発覚の詮議を、自ら申し出た山岡は此の大役を過去の数々の業績により、奉行の許しを得て駆けつけたのである。
お役目は、船に乗り、行方の判らぬ者共の検め(あらため)である。
荷と少し離れた浜に打ち上げられた遺体の検分。
しかし其れは表向き、実は奉行所内の不審な金の動きについての調査が目的であった。
此の大役は、兼ねてより奉行の信頼の厚い山岡を置いて他は無かろうと言う、奉行直々の命であった。
だが、山岡の内心は、お役以上にざわついていた。
与平 「これが――」
岡田 「左様、これが浜にて発見された土左衛門でござる」
語り :裏門を抜けると、玉砂利の敷き詰められた一画があった。
其処には水に飲まれ、嘗て人であったモノが三体。
身体の下に引かれた物、そして哀れに変わり果てた姿を隠すため、上に被せられた筵を今だ濡らして横たわっていた。
役目柄、人の生き死にには関わってきた山岡であったが、今回は違う。
役目上の詮議だけでなく、重大な事を確かめに来たのであった。
与平 「南無三っ」
語り :勢いをつけて筵を剥がすと、露になる、醜く膨れ、魚に喰われた、最早、人としての姿かたちさえ崩れ去ろうというモノが、虚ろに空いた目であった穴をむける。
黒く空虚な二つの穴。
山岡は、十手の先で顔を詮議しようと試みるが、とても持ち寄った人相書きとは似ても似つかぬ形相に深く溜息をつく。
岡田 「如何でござるか」
与平 「これじゃぁとっても、わかりゃぁしねえ――」
岡田 「そうですなぁ」
与平 「――」
語り :風向きが変わり、ただでさえ放たれている異臭が二人の鼻腔を襲う。
明け始める朝日の中、思わず袂で鼻を覆うが、堪えきれずに互いに目配せ(めくばせ)をして、番所へと戻る。
岡田 「いやぁ、たまらんたまらん。
詮議がお済になられたのなら、早く何とかしていただきたいものですなぁ」
与平 「そろそろ、火付け盗賊改めが到着するはず。
そうなれば、早々に片付くに違いやせん」
岡田 「それなら、方々(かたがた)はもう既においでになり、件の若侍の詮議に入っておられますが――」
与平 「なんだって――」
岡田 「っ、な、なにか」
語り :思わず声を上げ、立ち上がった。
所詮、奉行所町方同心、彼らの手に渡ってしまえば、打つ手が無くなる、と山岡は焦った。
何を隠そう、その若侍こそ、大事な娘の夫である新三郎かも知れぬのだ。
与平 「詮議は何処で」
岡田 「番所の奥の座敷牢にて。
なにしろ、年始の此の慌しさ、関所の我らもてんてこ舞いでござる」
与平 「ちょっと、こいつを見ておくんなせぇ」
岡田 「人相書ですか。
どれどれ」
語り :山岡が手渡したのは、備前屋本人、手代数名、船頭、人足数名。
そしてもちろん、新三郎の顔を描かせた物も間へと重ねてある。
岡田 「ううむ、ほうほう」
語り :一枚、また一枚とめくられてゆく人相書。
焦れる心を抑えながら、じっと男の表情を読む山岡。
そのうちに、一枚の絵に男のめくる指が止まる。
岡田 「お」
与平 「っ、ど、どうなすったっ」
岡田 「これこれっ、此の男ですよっ」
語り :そういってその絵をとって山岡の鼻先へと突きつける。
隠す様に紙に隠れた山岡の表情は見えない。だが、そのとき彼を取り巻く何かが変わった。
ゆっくりと鼻先の紙を手に受け取って、降ろす。
年を重ねてもなお精悍な、その鷹のように鋭かった双眸が、一瞬ゆらりと動いたような気がした。
ほんのひと時の間に、彼の使命は変わったのである。
与平 「此の男が、どうかしやしたか」
岡田 「こいつがほらっ、今、火盗改の方々が詮議している――」
与平 「間違い、ござんせんか」
岡田 「間違いないっ」
与平 『お露、待ってろよ』
語り :処変わってこちらは江戸。
年始詣でに旅する人にまぎれ、街道を急ぐ女が、独り。
目深にかぶった傘の内でも覗える、小股の切れ上がった江戸美人。
二世を誓った夫、新三郎を思う気持ちが抑えられず、独り支度を整えて一路箱根の関へと足早に向かっていた。
露乃 『御免なさい、御免なさい。
父上、母上。
露乃はもう、待つのはやめました』
語り :母の寝顔に、弟の寝顔に、両手を合わせそっと実家を後にした。
皆の心遣いは重々わかっていた露乃であったが、もし、もしも遺体で再び会おうとも、せめて遺髪や、遺骨を――
もう一度、此の胸に抱きたい。
そうして自分も後に続こう、此の世で果たせなかった幸せを、再び生まれ変わって共に添い遂げよう。
そう心に決めて女は一人、冬の風を受けて旅をする。
語り :箱根番所。
詮議を終え、ひとまず座敷牢から戻ってきた火盗改の面々。
通路の横にじっと立つ男を目にする。
年の頃は五十代半ば、しかし精悍なその顔つきと隙の無い佇まい。
同心姿に江戸前の鬢付け(びんつけ)も清々しい、山岡与平である。
与平 「―」
岡田 「お役目ご苦労でございます。
ささ、あちらに昼餉を整えてございます。
どうぞ皆様で」
語り :かたじけない、と一同が立ち去る。
じっと佇む山岡に、如何ですかと問いかける。
件の若侍の顔を確かめると断ると、とうとう誰もいなくなる。
山岡は、しばらく辺りを覗うと、そっと座敷牢へ忍び寄る。
薄暗く、寒々しいその牢に、静かに座り目を瞑って瞑想をしている若い男。
此方に向けた背中の様子では目当ての者か計り知れない。
山岡は、呟くように静寂を破る。
それは、娘の、自分の思いを込めた立った一言。
与平 「新三郎」
新三郎 「っ」
語り :男の肩が僅かに動く。
覗うように静かに振り返る。
其処にいたのは見まごうことなき娘の夫、新三郎であった。
与平 「おぅ、久しぶりだな」
新三郎 「―」
語り :どうしたことか、やっと巡り合えたその若者は、訝しげ(いぶかしげ)な眼差しでこちらを見ている。
そうして、ゆっくりと立ち上がり、格子に手をかけそっと囁く。
新三郎 「貴方は――」
与平 「どうしたぃ、見忘れたか」
新三郎 「――申し訳ござらぬ」
与平 「だが、おめぇ、名前を覚えて――」
新三郎 「新三郎」
与平 「おうっ、そいつぁおめぇのなめぇだよ」
新三郎 「そうでしたか、そうでしたか――。
では、ではっあの女は、あの」
与平 「女」
新三郎 「夢を――夢の中で新三郎と呼んでおりました。
それを、その声を聞いて俺は、その名前が自身の名であると、心に感じたのです」
与平 「そうかぃ。絆ってぇのは、すげぇなぁ」
新三郎 「俺は、とある入り江の浜に打ち上げられ、村の衆に助けられ申した。
ですが、名前も何もかも、覚えてはおりませんでした」
与平 「そうかぃ、記憶をな――。
無理もねぇ、いいかっ、おめぇは掛井新三郎。
嘘偽りねぇ、掛井新三郎だ。
俺は山岡与平、おめぇの恋女房の親父だよ」
新三郎 「なんと、俺に、恋女房が――」
与平 「夢に見た女ってぇのは、恐らく俺の娘だ。
待ってるぜ。おめぇをよ――。
ずっと独りで待ってるよ」
新三郎 「俺を待つ女が――」
与平 「そうと決まりゃ、話は早えぇ。
おめぇの身元は俺がしっかり保証する。
なぁに、火盗改なんざ怖いもんか――。
新三郎 「し、しかし。
自分は詮議中の身――」
与平 「――。
新三郎、おめぇ、真珠を持っているな」
新三郎 「は、はい。
其れはあの方々にも詳しく話せと言われました」
与平 「その真珠、どうしたんだい」
新三郎 「此れは――」
語り :真砂が――と言いかけて新三郎は言葉を飲む。
新三郎 「此れは、村のものが餞別にと――」
与平 「漁師がおめぇに真珠を――。
しかも三粒もよこしたと」
新三郎 「村の――、一番の海女が――」
与平 「っはっはっは。やるじゃねぇか新三郎」
新三郎 「いっ、いや、俺はそんなっ」
与平 「いいからいいから、そいつも男の甲斐性ってもんよ」
新三郎 「いやっ、ち、義父上っ――」
与平 「おっ」
新三郎 「あっ、し、失礼しました」
与平 「いや、いい傾向だ。
記憶もきっと戻るよな」
新三郎 「――」
語り :新三郎は俯いた。
自分の妻の父であると告げた此の男は、悪い男ではない。
其れははっきりと感じていた。
思わず口に出た《ちちうえ》という言葉。
本当に思い出したのであろうか。
何もない空白の記憶に、並べられていく言葉。
だが、それは思い出したのではない。
新三郎 「心が」
与平 「ん」
新三郎 「心がそれを納得するのです。
新三郎という名前、義父という存在」
与平 「そうか」
新三郎 「ですがそれは、記憶とは違う。
俺はそう思います。
馴染み――のようなものではないかと」
与平 「馴染み――か――」
新三郎 「―すみません」
与平 「いやぁ、いいさ。
記憶が戻るも、戻らねぇも。
新三郎が生きている。
そいつが一番の吉報よ」
新三郎 「山岡殿」
与平 「よせやい」
新三郎 「いや、今しばらくこのように呼ばせてくだされ」
与平 「好きにしな」
新三郎 「――申し訳ない」
与平 「ゆっくりでいいんだよ。
俺たちゃぁ家族だ。
そいつだけは覚えててくんな」
新三郎 「――はい。
ありがとうございます」
与平 「俺は片付けねぇといけねぇ事がちいとばかしある。
悪いが、もう少し時間をくれ」
語り :そういって立ち去ろうとする山岡の手を、新三郎がぐっと掴む。
新三郎 「山岡殿」
与平 「ん」
新三郎 「あと二つ、教えてくださらぬか」
与平 「いいぜ」
新三郎 「俺の、俺の妻の名は」
与平 「露乃」
新三郎 「露乃――そうか、露乃と」
与平 「自分の娘にこういっちゃぁなんだが」
新三郎 「はい」
与平 「別嬪だぜぇ。気立てだって天下一品よぉ」
新三郎 「そ、そうですか」
与平 「赤くなりやがって」
新三郎 「い、いまひとつ」
与平 「なんでぇ、子供はまだいねぇぜ」
新三郎 「そ、そうですか――。
いや、そうではなくて」
与平 「ん、どうしたい」
新三郎 「俺は、いったいなんの咎で、何の疑いで此処に――」
与平 「―」
新三郎 「山岡殿っ。
俺は、俺はもしや覚えのないところで罪を犯していたのでは」
語り :行きかけた身体を真っ直ぐに新三郎へと向き直り、その目を見つめてしっかりと山岡は語る。
与平 「いいか、新三郎」
新三郎 「はい」
与平 「少なくとも、いいや、おめぇを知っている誰しもが言うだろう。
おめぇは、罪なんて犯す男じゃねぇ」
新三郎 「し、しかし」
与平 「自信を持て、新三郎。
おめぇはな、俺の自慢の息子だよ」
新三郎 「しかし、先ほどの役人が、以前の罪――というような事を仄めかして――」
与平 「そいつぁ違う。おめぇは、人の良さに付け込まれて罪を擦り付けられたんだ」
新三郎 「冤罪」
与平 「そうだ、そいつもきっと、俺が晴らす」
新三郎 「山岡殿」
与平 「じゃぁな。俺を信じて待っていてくれ。
おめぇを待っている女を、信じて思ってやってくれ」
新三郎 「―」
語り :新三郎にしばしの別れを告げると、山岡は通路を戻り去ってゆく。
新三郎 「そうだっ簪。簪の事を尋ねるのを忘れていた――」
語り :牢に入れられ取り上げられた所持品の中に、静かに光る銀の簪。
それを送られるはずであった女露乃は、早籠を乗り継いで箱根の関へと辿りつこうとしていた。