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露草  作者: くろぬこ
5/7

―波紋―

小説用に加筆修正いたしました。

 






 入鉄砲いりでっぽう出女でおんな


箱根・栗橋くりはし碓氷(うすいなど街道の要所に設けられた関所。

 

江戸幕府の治安維持、外様大名とざまだいみょうの管理、統制を目的とした此の制度は、特に女子おなごの出入りを厳しく詮議せんぎする。

 

しかし、男子というと、往来手形おうらいてがたなるものを持っていれば比較的すんなりと通れるのであった。

 

新三郎は真砂に言われた竹屋という、小間物屋の口利きで庄屋に手形を出してもらえた。


関宿せきやどに泊まり明日は江戸入りと心持早めに休んだ布団の中で、 新三郎は夢を見る。


か細いながらも美しいその声は、どこか懐かしく、そして切なく心に波紋を投げかける。


「―さま。新三郎様――」


声はすれども見えぬ姿。


だが新三郎は、確かにその声に聴き覚えがあるような気がしてならなかった。

確かめねばと云う思いに合わさって、呼びかけようとする己の声に力がこもる。


「誰だ、誰の名を呼ぶ――。だが、なんと懐かしい声だ――」


真っ白な空間に、霧であるか雲であるか、白い薄靄うすもやが視界を遮る。

 

聞こえて来るその声をもっと聞きたいと、新三郎は足を進める。

 

すると、人影がおぼろに姿をゆっくりと現す。


「おぉ」と思わず漏らす感嘆の声。


 

濡れるような黒髪を、艶やかに結い上げている女が一人此方に背中を向けている。

 

だが何よりも新三郎の目が魅かれたのは、女のうなじ――。

 

黒髪が墨の流れるように首筋を彩る。白く細い淡雪のようなその首は、すんなりと美しかった。


「昔語りの鶴の化身のようだ――。もし、其処のお人。今誰の名を呼ばれたか、其れは俺の名前か――」


そっと手を伸ばすが、不思議な事に届かない。

 

直ぐ其処に見えるというのに、絵姿のように頼りない背中。

 

新三郎は今度は肩を掴んで、振り向かせようと手を伸ばすが、何度繰り返しても触れることが出来ない。

 

得体の知れぬ不安と焦りで、新三郎の胸は激しく揺れ動く。


『知っている、俺は此の女を知っている。この細肩、あのうなじ。顔が見たい。せめて、ひと目でもよいから』 


「新三郎様。子供みたい」


「お、俺が――」


そう言いかけて、ふと頭に何かがよぎった。


懐かしい、響きの優しい声が、新三郎の心をくすぐる。


『今のやりとり、どこかで――』


思い出せない、いいや思い出すのだ。


さぁ、さぁ、と急かす心に新三郎は恐怖すら覚える。



――俺は、大切な何カヲ今、失おうとしている――



ふみを――」突然女の声が小さく叫んだ。そうして引き戻されるかのごとく離れてゆく。


『文』何の文だ。文とはいったい……。


「毎日心待ちにしております。

 きっと送ってくださりませ」


「お、おぅ」


流れる白いもやが、一層濃く、女の姿をゆらりと滲ませる。


聞こえる声も、ゆっくりと、遠のいてゆく。


新三郎は目を凝らし、耳を澄ましてあと少し、もう少しと、女の声と姿を追い求める。


「そしたら其れを枕の下に引いて――。夢でお会いできますから――」


あと少し、せめて一目、顔をと手を伸ばす新三郎。女の言葉を噛み締めるように繰り返す。


「枕の下へ――」


「夢で――」と最後の女の声が告げて消えた。


――逢える――と最後に新三郎は胸に刻み込む。




目を開き、身体を起こして枕の下を探る。


其処には、嵐にあい、海で溺れたその時までも、しっかりと左手に握っていたという、銀のかんざし


そっと新三郎がそれを持ち上げると、小さな花の飾りが揺れてしゃらりと音を立てた。


「夢で、あったか――。何故だか今宵、思い立ってこのように枕にひいて寝てみたが――。不思議な夢であった。新三郎。それが俺の名前か――」


新三郎は、傍らの往来手形を手にとった。

そこには、新三郎の名前は無く、庄屋が付けてくれた霞清太郎かすみせいたろうという名前が記してある。


だが、夢で聞いただけであっても、新三郎、その名前こそが己の真実の名であると、心の声が彼に語りかける。


「新三郎――。美しい女であった。顔は、見ずとも匂うように漂ってくる。懐かしい、声であった――」


翌朝、記憶の森をさまよう彼が、心に一つ新たに小さな明かりを灯し、江戸へと旅立ったのであった。




舞台は変わり江戸の町、八丁堀。

お露の実家、山岡家。

新三郎の行方が今だわからずじまいではあるものの、数ヶ月ぶりに会う母と娘で穏やかな会話を楽しんでいる。

つましい暮らしの同心長屋。

二つ違いの弟は、療養所で学びながら手伝いをしている。


久しぶりに戻った娘に心づくしのお茶請けは、欠かした事無くつけていた手製の漬物。


二人、膝を並べながら、繕い物をしている姿は穏やかな午後に相応しかった。


「母上」


思い出したようにぽつりと露乃が呟くと、優しく微笑んで母も応える。


「なんだい」


「夕べ、夢を見ました……。あの、夜の夢。仕事が決まったあの晩です。新三郎様がわたくしの膝で、嬉しそうに上方への旅を話していました」


露乃は、嬉しそうに目を細めてはいようとも、その瞳はうっすらと泪で滲んでいる。


そんな娘の不憫さが母の声を湿らせる。


「――そうかい」


「子供のように笑って――」


「そうだねぇ、そんな笑い方をされる方だったねぇ」


「えぇ、それはもう本当に嬉しそうに――」


「お露」


「母上――。

 どうしてわたくしは――」


「もう、およしなさい。

 いつまでも、堂々巡り」


「そうですね――」


「今は無事を、お祈りいたしましょう」


 

静かなときが流れる。

 

父親譲りか、姿の良さが仇となり、あらぬ噂でいき遅れてしまった娘。

それが、はたが羨むほどの殿方に見初められ、望まれて嫁に行った。

 

幸せを噛み締めるまもなく科された冤罪――

 

色々な事が降りかかりすぎる。

 

不憫な娘――


代われるものならかわってやりたい母心で、お富士は目頭が熱くなるのを必死に堪える。


「母上……」


「ごめんなさいね。今日は決して泣かないと父上にも約束したのに」


着物の袖でそっと目頭を押さえる母。親もまた、子を思って辛い日々を送っていたのであった。





突然、門の閉まる音が荒々しく聞こえたと思うと、慌てるような足音を立てながら此のあるじが戻ってきた。

 

いつに無く、勢いよく襖を開けると静かな湖面に石を投げるが如く、慈しみあっていた母娘ははこに知らせを告げる。


「おう、お露、来ていたか、調度良かった」


「父上、お帰りなさいませ」


「お帰りなさいませ、貴方。お勤めご苦労様でございます」


「おう」と短く応えると、勤め姿のそのままにどかりと座敷に座り込んだ父、与平。

 

「そうだ、お富士すまねぇが 茶をいれてくんねぇか」


そう云って小気味の良い江戸っ子口調で女房に声を掛け、懐から手ぬぐいを取り出して汗を拭い始めた。


「は、はいただいま」


云われてお富士が茶の用意を始めるが、露乃はそれが待ちきれなかった。


「父上、どうなさいました。その様に汗までかかれて」


じっとりと汗ばんで、まるで走ったかのように息を切る父に、お露は不安が隠せなかった。

今しがた母とともに無事を願った恋しい夫、新三郎の身に何かが――もしや、死体が上がったなど――。

 

出されたお茶をお富士の手から受け取り、一気に飲み干している与平に、お露は震える声で尋ねずにはいられない。


「ち、父上。もしやまた、何か――」


「っはぁ、生き返った。ありがとよ」


大げさに与平がお富士に顔を向ける。だがその先に見える女房お富士も、息を呑んで与平の話しを待っていた。


「まぁ待ちな。ちょっと一息つかせてくれ」


息を整える父を、じっと目を見開いて待つお露。

察してお富士が代わりに声をかける。


「ですが貴方、お露の気持ちも察してあげてくださいな。また、何か悪い噂ではありませんか。そうかそうでないかだけでも知りたいでしょうに」


母と娘の眼差しに押され、少しだけ驚きながら与平は、急いで息を整える。


「お、おうそうだな、実はな、あ~なんだ、あのな」


良いあぐねているかのような父に向かい、お露は座りなおして膝を寄せてその先を待つ。


「は、はい」


「なんですか、じれったい」と焦れて急かしたのは母であるお富士のほうであった。


「まぁ急かすなぃ、実は――」


「はい」


母娘ははこ良く似たその形のよい唇を、ぐっと力をいれて引き締める。


「実は、沈んだ備前屋の商い船に積まれていた荷物が――上がった」


「っ、そ、それで――」今度は露乃がその先をせがむ。


「それが、御禁制の――」と与平の言葉に「ご禁制――!」露乃が小さく叫んだ。


「まことですか、貴方、確かな事なのですかっ」


嘗てお富士がこれほどまでに強い口調で夫に詰め寄ることがあっただろうか。


(いや、実はあったのだが、それはまた、次の機会の物語で)


「浜に上がった荷が三つ、どれもしっかり箱のままだった。中身は油紙に包んだ、御禁制の品々。箱にはしっかりと、備前屋のいんが押してあったらしい」


「御禁制……」小さく露乃が呟くが、眼は虚ろに呆然と父の顔を見詰めている。


「一体どういうことでございましょう。備前屋さんといえば日本橋に大店おおだなを構える立派な旦那さん。新三郎さんの口利きをする時に、貴方もおっしゃっていたではありませんかっ」


「あ、あぁそうなんだが」


普段菩薩のように静かで物腰の柔らかい妻の憤りに、さすがの与平も面食らう。


「そ、それで父上、新三郎様の手がかりは何か」


「そうだ、その事なんだが」


「も、もしや、死体が……!」


「母上っ」母の言葉に今度は露乃が声音を上げる。


「まぁまて、お露。いいかい、落ちついて聞くんだぜ」


「は、はい」


「お富士、おめぇもだ」


「はい」


「死体はいくつか上がった」


「っ」


「それでは――」


「――いや、若い男もいたらしいんだが。とにかく、どれもこれもらしい、らしいで拉致があかねぇっ。俺ぁ、これからちょいと上方へ行ってくるぜ。なぁに、お奉行にも許可は頂いている」


「父上、わたくしも、わたくしも参りますっ」


「それならばわたくしもっ」


「だめだっ」


「でもっ」


「ならねぇ、物見遊山ものみゆさんに行くんじゃねぇんだぞ。

 こいつは大事なお勤めなんだ。女子供を連れて行けるか」


「でも、でも」


駄々をこねることなど幼い頃からなかった娘が、泪ながらに父の腕を揺すっている。


お富士は、娘を支える自分の役目を忘れたことを胸で恥じた。

強い娘、優しい娘。そういわれ続けてきたこのお露を、今こそ自分が支えねばと。


「そうですね、わたくしとしたことが取り乱してしまって……。

 お露、待ちましょう。父上を信じて」


惚れて望んだ恋女房、お富士の言葉に与平は安堵する。


「そうと決まったら早速支度を整えねぇとな。お富士っ」


「はい、ただいまっ」


音に聞こえたおしどり夫婦。与平とお富士は阿吽あうんの呼吸で通じ合う。


きっと、二人力を尽くし、娘を護って生きようと。





明けて早朝、与平は江戸を旅立った。


父は娘に告げていない事実がもう一つあった。


箱根の関で足止めを受けている、男が一人。

御禁制の品発見に伴い各関所にての所持品改めで、真珠を持った正体不明の若侍がいるという。

 

江戸へ向かう記憶の定かでないという此の男が所持していたのは、上物の真珠の粒が二つ、そして花飾りの銀の簪だという。

 

これを告げれば、娘はきっと上方へと飛んでゆくに違いが無い。

だがしかし、もしも期待に弾む心が裏切られたとしたのなら。

 

父は、不憫な娘の胸の揺らぎをこれ以上ふやしたくは無かったのだ。


『お露、待っていろよ。きっと嬉しい知らせを、おめぇに持って帰ってくるぜ』




再びざわめく心の波。


離れ離れのお露と新三郎。


二人を取り巻く哀しい波紋は、一体どこまで広がるのであろうか。









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