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露草  作者: くろぬこ
3/7

―波―

以前書いた台本を少し手直しいたしました。



将軍家のお膝元、賑う江戸の町。

何処にでもあるような長屋の一つに、何処にでもいる善良な若夫婦が住んでいた。

支えあい、睦みあいながら、ささやかな幸せを大切に暮らす一対のおしどり

だが、今は互いに離れ、吹きすさぶ運命の風に翻弄されようとしている。


「御免よ」


「父上」


「おう、久しぶりだなお露」


「本当に。ご無沙汰しております」


「そう、だな」


「母上はお元気ですか」


「おう、相変わらずだ」


早朝、お露をたずねた初老の男は山岡与平。

八丁堀同心を長年勤めるお露の父である。

髪にちらほらと白い筋が見えてきてはいるが、上背のある体躯に無駄の無い締まった体。

仏の与平と異名をとる穏やかな面立ちに、時折見せる涼やかな眼差しに、随分と町の娘が色めき立ったものである。

華やかな父に、静かな野に咲く花のような母、お富士を不釣合いと言う者が初めはあった。

だが、今では評判のこれもまた、鴛夫婦である。


「新之助は――」母は、弟はと尋ねる露乃。同じ江戸に住みながら、随分と逢っていない。そんな露乃之声の寂しさに、父も同じく問わずにいられない。


「あぁ、みんな元気だ。お露、おめぇはどうだ。達者でいたか」


「ぇ」


「実はなお露、今日訪ねたのは他でもねぇ、おめぇに大事な知らせが――」


知らせ、と聞いて露乃がコクリと息を呑む。


「まぁ、立ち話ですることじゃぁねぇ。あがるぜ」


「は、はい」


座敷に上がり脇差を横に置く。戸を閉め、お茶の用意をしようとしながら露乃の胸はなぜか不安にざわついた。

茶筒を持つ手が心なしか震える。それを見逃す与平ではなかった。


「どうした、何か心当たりでもあんのかい」


「いえ、いいえ」


自分の顔をうかがうような父の視線。先だっての出会い茶屋。浅はかな自分の行動を見透かされているような。そんな気がしてならなかった。


今すぐ父に打ち明けたい。やましいことなど何も無いから。だが、やはり、夫が無事に戻ってから……。と僅かな時間にお露の頭に巡る思い。


「それで父上、知らせというのは」


与平も想う。大切な娘を案ずる父の想いと、それに囁きかけるように同心の洞察力が娘のみに一体何が、と。


「父上」


「新三郎から便りはあるか」


「は、はい」


「最後の便りは何処からだ。良かったらちょいと読ませてもらえねぇか」


「ち、父上。新三郎様の身に何か――」


「いいから、見せてくれ」


「は、はい」


露乃の心は激しく揺れた。もしやと思った自らに起きた事柄ではなく、思いもかけずに新三郎にかかわる知らせ。

     

大事な知らせ――。

     

露乃は、開けるふたをカタカタと鳴らしながら文箱から夫の文を取り出した。

  

「これが一番新しいものかい」


「え、ええ」


「悪いが、読むぜ」


露乃が黙ってコクリと頷くと、与平は文を素早く開き目を走らせる。

     

そうして深く溜息をつくと丁寧にそれをたたんで文箱へと入れた。


「父上」


「そうか。やっぱり一緒に乗ってやがったか」


「父上、いったいなんのお話です。新三郎様に何かあったのですか、父上」


「落ち着いて聞くんだお露。実はな――」


「―」


「実は、この文にもある琉球りゅうきゅう行きの備前屋の商いあきないせんが――」


「―」


「嵐に巻き込まれて――、沈みやがった」


「っ」


「お露、しっかりしねぇか、お露」


お露はまるで糸の切れたカラクリ人形のように崩れ落ちた。

     

年も押し迫った師走、極月ごくつきの寒い朝。

     

与平は己のもたらした知らせに気を失ったお露を受け止めると、手早く引いた布団に寝かせる。

     

華奢な娘ではあった。だが、今その身の軽さに不憫さが募る。

     

枕にそっと頭を下ろすと、ゆっくりと目を開く。

     

そうしてもう一度目を瞑り、眉根をきつく寄せて静かに涙を流す。

     

そうであった、幼い頃からそんな風に忍んでなく娘であったと、父の心も悲しみで染まる。


「お露、俺もついさっき知らせを聞いた。なんでも船は木っ端微塵、荷も人も検討もつかねぇそうだ」


「新三郎様」


「気を落とすなって言うのも無理な事だが、お露、しっかりするんだぜ」


「年が明ければお戻りになるはずでした。毎日のお勤めが楽しいと、はつらつとした優しい御文――」


「―」


「わたくしが、わたくしのせいです――。わたくしが、父上にお願いしたりしなかったら――」


「お露」


「また、あの方の活き活きと笑うお顔が見たかった――。ただ、それだけでした。暮らし向きなど、どうでも良かった――」


「お露、おめぇのせいじゃねぇ」


「いいえ、いいえ、わたくしのせいです。どうして――、どうして離れ離れになるようなことを――。御免なさい、御免なさい、あなた――うっぅうううう」


「お露、悲しい気持ちは十分わかる、いや、わかるつもりだ。だがよ、そんな風に自分を責めちゃいけねぇよ」


「うっううぅ」


「しばらく、家に帰ってこねえか。お露」


父の言葉にまるで童女のように、いやいやと頭を振る。

     

顔を両手で覆って泣きながら。

     

頭の中に鳴り響くどうしての言葉が自分を責め立てる。

     

離れてはいけなかった。あの人を、手放してはいけなかった。

     

取り返しの付かない間違いを犯したと、我と我が身を呪うお露。


「帰って来い。最初からそうすりゃぁ良かったな。半年の事だからと思ったが、おめぇも色々大変だったろう」


「―」


「お富士をよこす。な、帰って来いよお露。おめぇが生まれて育った家じゃねぇか」


覆った顔から両手をはずすと、露乃はしっかりと与平を見つめる。

     

睫毛をまだ濡らしながらも、その瞳に泪はもう見えなかった。


「いいえ。露乃は此処で夫を待ちます」


「お露」


「待つと約束をいたしました。戻ると約束されました。たとえ船が砕けようとも、お露はあの方の無事を信じます」


じっと見つめるそのまなこには、きつい意思が込められていた。


昔から、言い出したら聞かない娘であった。年下のまだ頼りない同心と夫婦になりたいと言い出した時。

     

弟の新之助に、剣術より学問をと意見をしてきた時。

     

身体に障ると、自分の手から杯を取り上げた時。


「頑固なやつだ」


「父上譲りです」


「―」


「―」


「ふっ、負けたぜ。だが、お富士は俺にいわれねぇでもくるだろう。たまにはたっぷり甘えてやれ。あいつも喜ぶ、安心するだろうよ」


「はい」


「お露、やまねぇ雨はねぇ」


「はい」


「またくるよ」


「はい」


見つめあい、薄っすらと寂しく微笑む父と娘。


其処には年月も存在しない、昔のままの父と娘。

     

名残惜しげに帰っていった父の閉めた戸障子をしばらく瞬きもせずに見つめていたお露。

     

一瞬瞳を潤ませると、強くぎゅっと目を閉じ両手で引き上げ頭の先まで布団にもぐる。


「うっ、うううううわぁぁぁっ」





遠く離れて、松の葉が冷たい潮風に揺れる美しい砂浜。

     

静かに寄せては返る白波に洗われる人影が一つ。

     

その手にしっかりと握る、銀の簪には小さな露草の飾りが、同じく波に揺れていた。



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