―禊《みそぎ》―
一夜越す毎に、肌寒い十月も半ば。
江戸の何処にでもあるような長屋の一角。
誰しも寝静まろうという夜。
まだ明かりの途絶えぬそのひと間に、女が一人行灯の明かり一つを頼りに繕い物をしている。
部屋の中には作りかけの傘が所狭しと並んでいて、明かりを揺らす行灯のほか、小さな火鉢とたたんでおいてある薄いせんべえ布団だけの質素な暮らし。年のころは二十も終わりである女であるが、薄暗い部屋の明かりの中でも身なりや暮らしぶりとは違い、品のある横顔がほんのりと色香の漂う佳人である。
女は、ふと裁縫の手を止めて静かな夜に虫の声が聞こえる中、捨て鐘が三つなった後に時刻の鐘を耳をそばだてて聞いて数える。
「あぁ、もう暮れ六つ……。すっかり遅くなってしまった……」
呟いて片付けようとした時にうっかりと針で指を刺してしまうと、鈴の鳴るように小さく声を漏らす。
「痛っ」
思わず刺した白魚のような指先に、小さな紅い点がぷっくりと玉を作る。
その指先を口元にあて、小さく出した舌でそっと舐める。
少し、そのまま目の奥で考え事をしたかと思うと、目を瞑ってその指を唇で挟んで銜え、そっと吸ってみる。それから、ふうっと溜息をつくと、立ち上がって片づけをすませ。薄い布団を引いて肩に紅いはんてんを羽織る。
そして引き出しから綺麗な千代紙を貼り付けた紙の箱を取り出し、布団に足を入れてから大切そうに、まずその箱をゆっくりと撫でる。
「新三郎様……」
箱を開けると中には沢山の折鶴と色紙。そして文がきちんとしまってある。
一つ一つには、露乃どの、ご存知より、としたためてある。
露乃とは女の名、新三郎とは、上方へ商人の供として旅立った恋しい夫の名である。
「新三郎様…。あれからもぅ、数えて三月。まだ…三月。あと、三月……」
梅雨も明けた明るい夏空が江戸の町に広がる七月。
七つ立ちの日本橋。
恰幅の良い豪華だが品のある旅支度をした好々爺と、手代風の青年。
そして、月代も青々とりりしい面立ちの若い侍が一人。
見送りの者達としばしの別れを惜しんでいる。
「お露」
「はい……」
「そんな顔をするな。旅立ちとうなくなるぞ」
「いいえ、新三郎様こそ」
「案ずるな。直ぐに帰ってくる。なに、本の半年、すぐじゃすぐ……」
自分の言葉に俯く妻への、いとしい思いでぐいと引き寄せ、抱きしめる新三郎。此の儚い女を一人残す自分は、なんと薄情者だろうかと我と我が身を責める。
「新三郎様。人が…」
「構わぬ。女房を胸に抱いてなんの恥ずる事があろうか」
「…はい」
「寂しい思いをさせる。だが、きっとそなたや、そなたの父上殿の思いにかならず応えてみせる。しばしの別れだが、便りを出す。きっと出すから、待っているのだ。いや、待っていてくれ。金を稼ぐのだ、二人のために。稼いだ金は手をつける事無く全てお前の元へと持って帰る」
「金子よりも、どうか、どうかお身体をおいといあそばして……。無事なお姿でお戻りくださいませ」
「うむ。そなたもな。決して無理をするでないぞ」
「はい」
「なぁに、たった半年、そうじゃ、上方の簪! ははは!これは買うてかえらぬとな!」
「うふふ。露は其れよりも、旦那様の文を毎日心待ちにしております。きっと送ってくださりませ。そしたら其れを枕の下に引いて、夢でお会いできますから」
「そうじゃな。きっとそうしよう」
ともに上方へと向かう一行に促されて、橋を渡る新三郎。
そっと手を振る露乃を振り返り振り返りしていたが、いよいよ見えなくなるというところで立ち止まり、大きく大きく手を振ってみせる。
お露も負けじと大きく手を振り、そしてすっかり一行の姿が見えなくなると、其処にすっとしゃがみこみ、細い指で顔を覆って声を殺してひとしきり泣いたのであった。
「夏に旅立たれて、もうすっかり秋。お風邪などめしてなければよいけど」
箱の中から、今朝届いたばかりの真新しい文を一通取り出すと大事そうに撫でて、そっと胸に抱く。そして再び開いて読み返す。
――露乃どの。清秋のみぎり、そなた様を想い、文したためて候。そなた様と離れ、上方へと旅立ってから早や三月。
すっかりと肌寒くなった昨今、如何お過ごしか。こちらでは、もうすっかり紅葉も色づき、秋の赴きもいっそう深く感ずるようになり候。
某はというと、日々、備前屋どののお供をいたして、御身、御守りしてござ候。今日は、大阪、明日は奈良、そして京都と多忙なれど日々鍛錬は怠らず精進しておりますればご安堵なされよ。此の文のそこもとに届く頃には、一行揃いて琉球なる処へと向かい、船上にてきっと新しき文をしたためてござる。見るもの聞くもの、全てが驚きの此度の道中、土産話が如何程のものか楽しみにしておられよ。
寒さに向かう折柄、風邪など引かぬよう。新三郎、参る――
「琉球……いったいどのようなところでしょう……。どうか、どうかご無事で……」
もう一度、胸にしっかりと文を抱く。長く影を落とす睫毛を伏せて、白い頬に一筋涙が流れ落ちると。胸に抱く文を濡らした。
気を取り直していつものように新しい文を、枕の下へと差し入れようとすると、泪に濡れた文の文字の乱れに気がつく。
「あっ…。文が…あれ、このように文字が濡れて滲んでしまった…」
滲んで消える新三郎と書かれた文字。
露乃は、何か得体の知れぬ不安が胸をよぎったのを感じた。
静かな神無月の夜。
粗末な戸障子の外に、気配を殺して佇む影が一つ。
虫の声がぴたりと止んだ事に露乃は気づかなかった。
「ふぅ、肌寒い。本当に風邪でも引いてしまいそう……。あら? 何かしら……」
翌朝、目覚めたお露が、井戸へ水汲みに行こうと土間へ降りると、其処に白い文が一通落ちていた。夜のうちに誰かが差し込んだのだろうか、不思議に思った露乃は、いぶかしげに其れを手に取ると、その表に書かれた言葉に目を見開いて驚く。
「ご存知より……!」
胸に広がる一抹の不安。昨夜の滲んだ新三郎の名前が頭に浮かぶ。
急いで封を開くと息をするのも忘れて読み始める。
読み終わるや否や、裸足のまま草履をはいて走り出す。
その手に握られた文には、朝もやの中、露乃を走らす文面がしたためられていた。それはたった二行の短い文。
――会いたい、早朝、不忍池、雪白という茶屋にて待つ。――
――急ぎ参られよ――
『新三郎様…! いったい何が? お筆は確かに新三郎様の物。いったい何が貴方様の身に起きたというのです。いいえ、それよりなによりも。会いたい…! 私とても、お会いしたい気持ちに変わりはございませぬ。
あぁ! 走ることさえもどかしいっ。いっそ飛んで行けたらよいのに……!』
江戸の朝は早い。すっかりと人で賑う町中を駆け抜け、やっとの事で茶屋へとたどり着く。汚れた足を洗っていると、名も告げていぬのに、したり顔で店の者に声をかけられ、部屋へと連れ立って暗い廊下を歩く。
『此処は…話に聞く出会い茶屋というところではなかろうか……。新三郎様、何故このような所に……。家へと帰れぬ訳がきっとおありなのでしょうけれど、それでもいったいどうして……』
こちらでございますと告げると早々に案内の者は立ち去ってゆく。
久方ぶりに恋しい夫に会える胸の高鳴りにすっかりと舞い上がっていた露乃は、やっと己の姿に気がつく。
「いやだ、私ったら。起きたばかりの乱れ髪、紅の一つもひいてないなんて……」
じんわりと涙が込み上げてきた。会いたい恋しさに狂ったとはいえ、なんというはしたなさ。久方ぶりに会う夫は自分をなんと思うだろう…。
いっそこのまま一度引き返して、きちんと身なりを整えて、出直してこようかとさえ思い悩んでいると、焦れたように障子の向こうから声が掛かる。
低く、くぐもった声でお露の名を呼んだような気がした。恋しい夫が自分の名を呼ぶその声に、なりふり構わず障子をがらりと開け声を上げるお露。
「っ! 新三郎様っ、お会いしたかっ……!?あっ、――!」
あなたは?!
と小さく叫ぶ間もなく、腕をつかまれぐいと引き寄せられた。そのまま口元を塞がれると部屋の中へと引き入れられた。露乃の腕を取った男は、夫新三郎ではなかった。男は露乃を離すとそのまま廊下に顔を出し、辺りを窺って用心深く障子を閉める。
「これは、これは一体……」
処変わってこちらは堺の港より、はるか西方、薩摩藩沖の海上。
琉球国を目指す、一艘の商い船があった。
折りしも急変した空模様。
嵐の真っ只中へと飛び込んでしまっていた。逆巻く波に、風に舞い散る木の葉のように揺れる船上。慌しく水をかき出す船乗りに混じって、たすきがけも勇ましく、声を張り上げ人々を励ます若侍が一人。
「慌てるな! 荷の縄をしっかりと留めろっ!手のすくものは水を掻き出せ!備前屋殿! 備前屋殿は何処においでかっ!」
吹き付ける豪雨はまるで石つぶてのように身体を打つ。
新三郎は、護るべき備前屋を探し、甲板を走る。
揺れてもまれる船の上を、右になり左になりながら、声を上げて突き進む。
船首の辺りで、船を飲み込む勢いで高波が襲い掛かる。
その時、一人の男が今まさに高波にさらわれんとするその腕を、しっかりとつかみ、荷を結ぶ綱を握らせる。そして胸にずっと抱いていた、お露への土産の簪を今一度思いを込めて握り締めた。
「よし、決して離すでないぞ! 俺は主殿をお探し申す!」
そういって踵を返した一瞬、横から新たな高波が新三郎を押し流した。
轟く雷鳴に続いて恐ろしい雷が船を真っ二つに引き裂く。
暗雲に光る雷光と吹きすさぶ豪雨の中、船は木屑と化して海の藻屑となった。
波に飲まれ沈みゆく新三郎。
その手には、一本の銀の簪。小さな露草の飾りのついた質素な簪が一本だけであった。
「う、うぅ……」
露乃を抱え、口を塞いだその手をはずすと、乱暴に奥の襖を開けるその男は見知った顔、夫、新三郎の嘗ての上司、佐藤兵衛であった。
「佐藤様っ」
「ふん、ええいっ、暴れるなっ大人しくいたせっ」
身をよじって逃れようとする露乃を、既に用意良くひかれている布団へと投げ出す。日頃から、悪評高いこの男は三十路半ばのやもめ暮らし。商家より幾ばくかの賄賂を当然のように受け取りながら、その咎を配下の新三郎になすりつけ、お役御免に追い込んだ張本人である。
「う、ううう…。何をなさいます、ご無体な人を呼びますよ」
「呼んで見るがよい、出会い茶屋にて女子がいくら叫ぼうとも、睦言風情と高を括くられ笑いものになるのが落ちよ」
不敵に薄笑いを浮かべながらのしかかると、露乃に顔を寄せる。
むっとする酒臭い息が、露乃の眉間に力を込めさせる。
「つれねぇなぁ、露乃。一度は夫婦になろうって間柄だったじゃねぇか」
「な、なにを…あれはあなたが勝手に――」
八丁堀でも評判の小町娘であった露乃に岡惚れしたこの男は、あろう事か露乃と自分に関わりがあると、あらぬ噂を撒き散らしたのである。嫁入り前の娘の悪い噂はたちまち広がり、それをかさに露乃の両親に嫁入りを迫ったが露乃の父が決して、折れる事は無かった。露乃の婚期がわずかに遅れたのはそのためである。
「そなたも満更ではなかったのではないか。それともあの、若造がそれほどに良かったか」
「もしや、あの文もあなたが――」
「俺は昔から手先が器用でな、特にあやつの文字は癖があって真似もしやすい。気に喰わぬ餓鬼だが、その点は重宝したぞ」
「お、おのれ――」
覆いかぶされ両の手首を掴まれながら、渾身の力で抗う。穢されまいというだけではなかった。この男、この男だけには決して屈する事はできない。露乃は必死に頭をめぐらす。
「俺のものになれ、露乃。悪いようにはせぬ。お前の暗愚な亭主の職も考えてやらんでもないぞ」
「新三郎様の…お役」
「そうだ。お奉行に口を利いて復職させてやってもよい。そなたも知っていよう、俺の姉はお奉行のお手つきよ」
そうであった。奉行の妾の姉の威を借る卑小な狐。酒と淫らな欲望で高揚したこのつり目の男がそのままに、狐狸妖怪にさえ思えてきた。
「露乃、変わらず美しいのぉ。俺はお前が――」
「佐藤様」
「どうした」
「お役のこと…まことでしょうか」
「ん、まことじゃ、まことじゃ。だからお前も――」
「佐藤様」
「ん」
「手が、いとうございます。そのようにずっと両手で押さえておいでのおつもりですか…」
「露乃」
「お露と」
「お露っ」
「このままでは…せめて帯をとかせてくださいまし」
「お、おおっ」
掴んだ両の手を離し、露乃の身体からその身をどかしたその一瞬、露乃が素早く動いた。だらしなく投げ出された佐藤の武士の魂をその手に掴むと、すらりと抜いて佐藤の鼻先へと突き出す。
「お、おのれっ、たばかったなっ」
「おだまりなさいっ」
「お、女だてらに何が出来るっ。刀を捨てよ」
「さぁ、どうでしょう。何も出来ないとお思いですかっ」
佐藤は知っていた。剣客としても名高い露乃の父が、女子といえど、この娘にどれ程の剣の稽古を仕込んでいたか。
学問好きの弟を庇うように露乃も稽古に励んだ。
佐藤自身、道場で面白半分に挑んだものの手酷くやられ、身にしみてその腕前を覚えていた。
「仮にも同心のこの俺を切って捨てるかっお露。親兄弟、夫まで共に道連れに地獄に落ちるか」
「ほんとに仮ですこと。武士の妻に乱暴狼藉、このまま刀のさびにして差し上げても良いのですよっ。わたくしの親兄弟、新三郎様も共にこの刃を握ってくれましょう」
「む、むむむ…」
「さぁっ、どうなさいますっ」
「す、すまん…許せ。いささか酒に迷ったようだ」
「一筆書いていただきます」
「な、何を書けというのだ」
「本来ならば、新三郎様の無実の事、書いていただきたいところですが…。その様なものでいつまでも関わりとうございません。こたびの事、わたくしをたばかり、新三郎様の書を真似て呼び出したこと。乱暴狼藉を働いたが未遂に終わった事、偽り無いと書いていただきます」
「ふっ、ふははっ。そんなことか、良かろう、書いてくれてやる」
「わたくし意外と気がみじこうございます。お急ぎ召されっ」
「わ、わかった…その様に怖い顔をするな…」
しぶしぶとしたためた佐藤にさらに血判を押させ、確かめて懐へとしまうと露乃はさっと刀を一振りした。
「うひゃぁっ、おたすけぇ」
慌てる佐藤の髪が、ばらりと肩まで落ちる。露乃の切ったのは佐藤の髷の髻であった。
「お、おのれっ」
「ふふ、お似合いですわ。あなた様とはこれっきり。ごめんあそばせ」
露乃は佐藤の刀を鞘に納め、二本揃えて胸に抱えた。
障子に手をかけ、思いついたように口を開く。
「そうそう、気軽にお露などと、おやめくださいな」
そう言って障子をあけ、そのまま出ると後ろ手でぴしゃりと閉める。
人目を気にしながらも茶屋を出ると、橋の上から近くの川へ二本の刀を投げ捨てる。それから何事も無かったように、またそっと静かに俯きながら、風に揺れる柳のようにしなやかに涼やかに歩く。それでも、やはり一人の女。
平静を装いながらも、強く握る拳が僅かに震えている。恐ろしかった、血も凍るほどに。夫の帰りを待つ。恋しさ会いたさからといえど、なんと己の浅はかだった事か。家へとたどり着き、戸を閉めると大きな溜息が自然と湧き出した。
「お返事を書かなくては……」
布団を引き、行灯の明かりの下で文箱を開け夫への返事の文を書き始める。
「お心優しい御文をありがとうございました。お忙しい中送ってくださるお気遣い、本当にうれしゅうございました。文に込められた、貴方様のお心。ほ、ほんとうに……」
滲み沸く泪と嗚咽をぐっと堪える。
着物の袖で目元を二度ほど押さえると、気を取り直してまた、したためる。
「本当に、励まされました。私はと申しますれば、日々つつがなく送っておりますので…ご心配なされませぬよう…お勤めにお励みくださいませ。奈良、京都と絵草子物でしか目にする事の叶わぬ町並みを、お勤めとはいえ旅していらっしゃるのでございましょうご苦労は、私には計り知れぬ事でございます」
押さえられ、組みふせられたのは身体だけではなかった。心が、魂の底までもが穢されてゆきそうだった。あの恐怖を露乃は思い出す。
「新三郎様…」
そういって、紙面を見つめる露乃の両の眼の奥には一体何が。そして、遠い西の海に沈んだ新三郎は。
ささやかな幸せだけを大切に暮らしたいと願う二人の行く末に一体何が待ち受けているのか、それはまだ誰も知らない。