――序――
台本ではございません。台本はご用意してございます。台本としてのご使用はご遠慮ください。
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もう六月も半ばだというのに肌寒い。
時折吹く風が、雨の長い此の時期はじっとりと肌に纏わりつく。
質素だが品の良い身なりの女が、大切そうに包みを抱えて歩いている。
俯きがちなその横顔は、憂いを含んだ寂しげな目元。
一筋ほど乱れた髪が翳りを一層引き立たせ、女盛りの色気を漂わせている。
店の前で辺りを少し見回すと、忍ぶ様に店へと入って行く。
「……そんな……。
此の着物は、わたくしが嫁ぐおり母より送られた大切な物。
其れがこのような僅かばかりの金子にしかならぬとは……」
「ごしんぞさん、どんなに大切なものかはあっしにはわかりやせん。あっしらは見たままの値段以外、お付けすることは出来やせんので…。まぁ、お気に召さぬという事であれば、お引取りなさってくんなせえ」
「それで…結構でございます。世事に疎いもので、ご無礼お許しくださりませ」
「そうですかい? それでは、こちらが証文でさ。おあしのご都合がつきやしたら、一緒に持ってきておくんなせえ」
「はい…」
店を出て、手に入れた金と引き換えに買ったものをまた、大切に抱えながら露乃は家路を急いだ。
足早に歩きながら、温かい物が抱える手に、頬に、一つ、二つと零れ落ちる。
武家とはいえ、決して裕福な家ではなかった。
三十俵二人扶持。
江戸の同心であった父の稼ぎで親子四人、暮らしていた。
嫁ぐ日、母がどのように金を工面したのか…新しい小袖を渡された時、露乃は泣いた。それを僅かな金子欲しさに質草にする……。
そうして手に入れた物を抱えながら、今また露乃は泣いている。
「ばかね」
そう言って薄く微笑むと家の前で涙を拭う。
「只今帰りました」
「おお、露乃、待ちかねたぞ」
「御免なさい。直ぐに支度をしましょうね」
「ああ、頼む。そなたもたまには一緒にどうだ? 飲まずとも良い、聞かせたい話があるのだ、はようこちらに参れ」
「はいはい、ただいま」
男は露乃の夫、掛井 新三郎。
着流しのはだけた胸元は、侍というより役者のような色白。
削ったような鼻筋に薄い唇は、口角が上がり愛想よく微笑んでいる。
泣き黒子が色気を見せるものの、人懐こい笑顔はまるで幼子の様である。
用意された酒と、肴に手を伸ばすとぐいと飲み干す。
「そうだ、お露。良い知らせだぞ。そなたの留守中、客があってな…」
「お客様?」
「ああ。良いから此処に座れ。驚くでないぞ?実はな…仕事が、俺に仕事の話があるのだ!」
「まあ」
「そうであろう?実は、半時ほど前に、商人風の男が尋ねて参ってな。俺を是非にと、その男の主が願っておるというのだ。その主というのが、日本橋の備前屋。備前屋だぞ、あの大店の。品物を買い付けに上方へ行く道中、腕の立つ者が欲しいと申すのだ。……つまりは用心棒だ。……そなたは気に入らぬかも知れぬが…良い金にはなるそうだ」
「それは、まことに嬉しい知らせでございますね。どの様なお仕事でも、貴方様のお決めになった事ですもの。露になんの異存がございましょう。おめでとうございます。新三郎様」
「……お露。苦労ばかりかけておるな…。そなたには、本当にすまぬと思うておるっ。本来なら、義父上殿と同じ職場にて力を振るうておったはずであるのに……。あらぬ疑いにお役御免を被り、このような浪人生活に身をやつすなど…。そなたに簪一つ買ってやれぬばかりか、母御に頂いた着物を……」
「ご存知だったんですか」
「俺の酒など、気にせずとも良いのに」
「何をおっしゃいます。あの着物は、持参金も持たせてやれぬと、母が持たせてくれたもの。今宵のめでたいお祝いにご用意できて本当に良かった」
「そなた……まさか……知っておったのか」
「……」
「そうであったか……。日本橋の大店が、何故この様な長屋の浪人風情を知っておるのか、とは俺も思うた。何やら、ご恩の有る方のご推薦でやって参りましたと、言うばかり。そうか、推薦してくださったのは、義父上殿であったか…」
「其れが誰であろうとも、良いではありませぬか。 貴方様の腕前、お人柄共にこの露も保障いたします。必ずや立派にお役目果たされるに違いありません」
「お人柄……かぁ」
「そうですとも」
真面目だけが取り得の様なこの男は、当時に珍しく文武両道、お奉行の覚えも目出度く、
露乃の家同様の下級同心出ではあっても、いずれきっと手柄を立て、出世するであろうと噂されていた。
「出る杭は打たれる……。よう言ったものだな。この俺が、お役を笠に着て袖の下を無心したなどという戯言。お露。 何故お奉行様はそんな与太話をお信じになったのであろう……。誠心誠意お勤めに励んでいた。この俺の心に一点の翳りもない。だが、だがなお露。俺は口惜しい。ご正道を正し、護るその職を、あのような濡れ衣で……」
「貴方様らしくもない。真っ直ぐに生きておられた貴方の事。しっかりとお奉行様はお心にとめていてくださったはず。其れを証拠に、お奉行様のご配慮でご詮議も軽く。つましくともこうして二人暮らしていられるのですもの」
「袖の下を……受け取っていたのは佐藤様だ。だが、それを俺は追及してしまった。俺の馬鹿正直が招いた種で、義父上にまでご迷惑が掛かる所であった」
「何事も無かった。新三郎様。止まない雨は無い……父の口癖です。お天道様に真っ直ぐに顔を向けて生きてゆける。それで良いじゃありませんか」
「そうだな」
「さぁ、お酒もあまり召し上がってはお身体に障ります。 明日は、その備前屋さんへ出向いてゆかれるのではないですか?」
「ん、おお、そうであった。だがお露。その備前屋と義父上殿とはどの様な縁があるというのだ?」
「さぁ、存じませぬ。ただ本当に、頼りになる、信頼のおける人物を探していらしたようで。父にはその様な男は貴方様以外思い当たらなかった……と、申しておりましたよ」
「ご期待に、きっとお応えせねばな」
「うふふ」
「ん?」
「嬉しそうなお顔、久しぶり」
「うん。嬉しい。毎日そなたの針仕事や 傘張りで食い扶持を稼ぐ日々とはもうおさらばだ。上方より戻ったあかつきには、まとまった金子が手に入る。それを元手に寺子屋など開くか。いいや、うどん屋がいいな。とにかく、そなたと一緒に、全うに働き、誰に後ろ指など指されぬよう大切に生きよう」
「寺子屋か…うどん屋ですか?」
「そうとも。俺もそなたも子供が好きだし、そなたの作るうどんもとても好きだ」
「まぁ」
「なんじゃ、何故笑う。なにか、可笑しなことを云うたか」
「新三郎様ったら」
「ん」
「子供みたい」
「なんと」
「ふふふふ」
酒のせいか、言葉どおり子供のように頬を膨らませた新三郎を、露乃は本当に愛しくみつめる。
ごろりと妻の膝枕で横になる。
子犬のような夫の髪の乱れを、ゆっくりと丁寧に撫でる。
『やはり、このお方と夫婦となれて良かった、この人とこれからもこうして一緒に生きて行こう。貧しくとも、二人で歩む道は、きっと春の陽だまりのように、温かく優しい日差しに溢れる道に違いない。二人が共に白髪となり、たとえどちらが先に旅立とうとも、良い人生であったと言ってもらえる、よい伴侶になりたい。ううん、なってみせる」
「あぁ、心地良いな。久しぶりに酔うた、酔うた」
「それはようございました」
「そうだ、上方でそなたに簪を買って参るぞ……。何が良いか…赤い珊瑚…べっ甲か……」
「あらあら、ちゃんとお布団で寝ないとお風邪を召しますよ」
そっと新三郎の頭を持ち上げると枕に優しくおろし、立ち上がって膳を片付けると、薄い布団を静かにかける。
手をかざし、ふっと息を吹きかけて行灯の明かりを消し、すぅすぅと寝息を立てて眠る夫を愛おしそうにしばらく眺めると外へ出た。
「はぁ…はぁ…」
月も朧な丑三つ時、神社の境内にひたひたと小さく響く音は、女の吐く息と合わさり一定の間隔で聞こえて来る。
傍らにぞうりを脱ぎ揃え、手にお札を持ち、お堂と鳥居の間をひたひたと歩き、お札をお堂の前へ置くと熱心に何かを祈り、また鳥居まで行き踵を返してお堂にお札を納める。
幾度と無くそれを繰り返す。
「どうぞ、新三郎様のご仕官が叶いますように。冤罪の晴れますことを…。百日詣の代わりにこうしてお百度踏ませていただきます。日に百度、何百日とて続けましょう…。どうか…どうか…」
雲を払い月が露乃を照らす。
江戸の町の片隅に男を想う女が居る。
女を想う男が居る。
吹きすさぶ風の中、雨に打たれようとも、凜と咲こうとする花の如く、真っ直ぐに、直向に生きる。
若い二人の定めの行く末を、照らす月でも知ることは出来ない……。