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集合時間の七時半を少し過ぎたところで、綾音に連れられた水奈たちは球場へと向かい始める。
改めて数えてみたところ、現在ここにいるのは綾音を除いて十二名。メンバー構成的には半分が演劇部、残りの半分がそれ以外の彼女の友人となっている。
綾音と共に先頭を歩きながら水奈は尋ねた。
「今回の参加者ってこれで全部?」
チラリと後ろを振り返った綾音は、事もなげに答える。
「せやな。まぁ声かけたんが急やったからしゃあないやろ。むしろ、これでもよう集まった方やと思うで」
「そっか、そうかもな……」
最初に今日の件を聞いたのが八月一日、連絡メールが届いたのが翌二日。当日までの間に丸一日しかなかったことを考えると、確かにイベントの第一段階として首尾は上々なのだろう。
「そういえば……」
何を思い出したのか、急に綾音がそう呟いた。水奈は彼女の方を向いて尋ねる。
「何?」
綾音は言おうか言うまいか迷うように、しばしの沈黙を置いてから口を開いた。
「いや、あの後彼氏帰ってきたんかなぁと思てな。今聞く話やないんやけど、なんとなく気になって……」
「あぁ、その話か。花火の日と翌日は帰って来んかったけど、昨日は日付変わる頃に帰ってきたで。今朝あたしが出かける直前にちょっと起きてきて行き先訊くもんやから、『高校野球の開会式見に行ってくる』って言ったら、ヘラヘラ笑いながら『そんなもんの為に、朝早くから出かけるんか?』って言われたわ」
そこで水奈は一旦言葉を切り、進行方向に向き直る。自分の顔から表情がすっと消えていった気がした。
「んでな、彼氏――ナオヤがそう言うのを聞いて、あたしちょっとイラっとしたんよ」
「ほぉ、彼氏大好きのあんたにしては珍しいな。どないしたん?」
「うん、自分でもようわからんのやけど……。高校野球を『そんなもん』扱いされたんが、気にくわんかったんかなぁ……。別にあたしは相手に『あたしと同じもん好きになって』とか言わんし、相手があたしの好きじゃないもんが好きでも、それは個人の自由やから、特にどうこう言うつもりはあらへん。けどな、今日のアイツの言い方には、どっか高校野球を小馬鹿にした雰囲気があって、そういう物言いをするアイツと、あたしはこれからも一緒にいてええんやろか、とか思ったりして……」
「へぇ……」
水奈の話を聞いた綾音は、なぜか何かを考えるような顔をして黙り込んだ。何を考えているのか水奈にはわかりようもないが、自分の話がせっかくの楽しい雰囲気に水を差したようで、彼女は少々引け目を感じてしまう。
やがて水奈が黙り込んだことに気付いたのか、綾音が元のような明るい笑顔で声をかけてきた。
「あー、また水奈自分のせいで雰囲気ぶち壊しにしたとか思てるやろ? 言っとくけど、そんなことあらへんで」
「じゃあ何考えてたんよ?」
「んー? まぁええやん。
それより水奈、そろそろお待ちかねの場所やで」
綾音が指差すその先に、圧倒的な存在感を放つベージュ色の外壁が見えてくる。
「おぉーっ、甲子園球場やー!!」
どん底まで下がりかけた水奈のテンションは、再び急上昇した。
一号門の前で、綾音が参加者にチケットを配る。そのチケットを手に、水奈は目の前にそびえるレンガ風の外壁を見上げた。
数年前の大改装で外観は大きく変わったものの、そこが高校野球の聖地であることに変わりはない。高校野球と直接関わりがあるわけではないが、一人のファンとして、水奈はどこか厳かな気持ちでその門をくぐった。
観覧客で溢れる階段を一階から三階まで上がり、三階通路を少し進んで最初の角を右に曲がる。そしてそのまま通路を行けば、その先はもう一塁側アルプススタンドだ。
思わずスタンド入口に立ち止まって、水奈は目の前に広がる光景に見とれた。
「あぁ、あたし今甲子園球場の中にいてるんやなぁ……」
「はいはい、わかったからそこで立ち止まらない。通行人の邪魔になるやろ」
夢見心地の水奈に、綾音がそう釘をさす。我に返った水奈は、歩き出した彼女の後を追った。
綾音はどんどんスタンドの通路を上がり、上から数えた方が早そうな段まで行ってようやく足を止める。
「とりあえずここでいいやろ。じゃあ、みんなこの列の奥側から座ってってー。多分一列に座れるやろしー」
綾音の言葉に、残りの参加者が声をそろえて「はーい」と答える。まるで遠足か社会科見学に来た引率の先生と小学生だ。
先頭にいた成り行き上、水奈はどんどん奥へと進んで行き、その列の一番端の席に腰を下ろした。改めて座席から球場内を一望し、その空気を胸一杯に吸い込む。
しばらくそこでボーっとしていると、誰かが後ろから彼女の肩を叩いた。振り返って見上げると、先程と変わらない文彰のニコニコ顔がそこにある。
「やっと追い付いたー。ここいい?」
そう言いながら、彼はまだ誰も座っていなかった水奈の隣に陣取った。いいかどうかと訊きながら、彼女の承諾など必要としないような態度である。思わず水奈はツッコミを入れた。
「いいも何も、既に座ってるやんか。あたしがあかんって言っても座る気やったんやろ」
もっとも、拒否するつもりなど彼女にはなかったのだが。
「まぁね」
言うと文彰はニヤッと笑って続けた。
「あの後布柄、葉室と一緒に先頭歩いてたからさー。怒らせたんかなーって思って様子見に来てん」
「別に道島のこと怒ってたから、綾音と一緒に歩いてたわけやないよ。成り行きに任せてたらそうなっただけっていうか」
「そっか。ならよかった」
満足そうに大きく頷いて、彼は視線をグラウンドに向ける。つられて水奈もそちらに目をやった。
彼女たちの真正面から少し右に視線をずらした場所。そこに、大会の開催回数と「全国高校野球選手権大会」という文字が書かれた入場門が設置されている。おそらくそこから、各地方大会を勝ちあがってきた選手たちが入場してくるのだろう。当然、その中には彼女たちの後輩も含まれている。
水奈がその門から入場してくる選手たちの姿を想像していると、横の文彰がポツリと呟いた。
「訊かへんねんな、なんも」
「え?」
その呟きの意味を図りかね、水奈は彼の横顔を眺める。
彼女の視線に気づいた文彰は、顔を正面に向けたまま彼女を一瞥して言葉を継いだ。
「なんで布柄にメール送れたんかって」
「あぁ、そう言えば……」
確かに不思議と言えば不思議である。高校卒業後、水奈は二度ほどメールアドレスを変更した。一度目は大学時代のことなので、文彰に変更の連絡を送ったかどうか今となっては定かでない。しかし二度目の変更は一年以内の出来事だ。明らかに送っていないと言い切れる。
改めて疑問に思った彼女は、それをそのまま口にした。
「どうやってあたしのメアド知ったん?」
対する文彰は、やはり水奈の顔を見ないまま答える。
「葉室の一括送信の送り先に、見覚えのある綴りがあったからね。『Cosmic Highway』、今も好きなんやろ?」
「あぁ、なるほど……。うん、今も好きな曲の一つやな」
水奈はようやく納得した。
「Cosmic Highway」とは、水奈と文彰が好きなミュージシャンの、ファーストアルバムに収録された楽曲タイトルだ。恐らく彼の知る限り、綾音の知人でそのミュージシャンのアルバム曲をメールアドレスのユーザ名に使うような人間が、彼女しか思い浮かばなかったというところだろう。
しかし、そんな曖昧な推測だけで、メールなど送ってくるものだろうか? それとも、一か八かの賭けをしてまで、彼女と連絡を取りたかったということなのか……?
(って、そんなんあり得へんわ。何考えてんねん、あたし……)
身勝手な妄想を思い浮かべて、慌てて彼女はそれを強く否定する。そして、いまだグラウンドを眺めたままの文彰の様子を窺った。何かその表情から読み取ることはできないものかと思ったのだ。
しかし高校時代と同様に、彼の表情からその思考を読み取ることはできなかった。
(こういうのもポーカーフェイスって言うんやろか……)
無意味にそんなことを考え、水奈は心のうちだけで大きな溜息を吐いたのだった。




