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「んーっ、快晴快晴。絶好の高校野球日和やなー」
雲ひとつない青い空を見上げて、水奈はそう呟いた。いつもなら浴びるだけでうんざりする夏の日差しも、こういう日だと大歓迎と思えるから不思議なものだ。
兵庫県西宮市にある、阪神甲子園球場。その名を冠する駅近くのコンビニの前に、彼女は今立っている。
正直なところ、昨夜はあまりよく眠れなかった。眠らなければならないのはわかっていたのだが、今日のことを考えるとなかなか寝付けなかったのだ。
(まるで遠足前日の小学生やんか)
我ながら苦笑するしかないと水奈は思う。もっとも、彼女にとって、それほど楽しみなイベントであるのは間違いないのだが。
それにしても――。
「いくらなんでも、ちょーっと早く着き過ぎたやろか……」
腕時計に視線を落して、水奈はひとりごちる。時計の針は午前七時十五分を指したところだ。
集合時間は午前七時半なので、現在の時刻だけを見れば大して早い時間ではない。が、彼女はかれこれ四十五分ぐらいを、この駅前で過ごしている。不必要に早く起き過ぎ、これまた不必要に早く家を出てしまったのだ。
と。
「水奈……? 水奈……やんな……?」
右側から不審そうに呼ばれて、水奈は声のした方を振り返る。そこには、声と同様に不審そうな表情を浮かべた綾音が立っていた。
「なんやの、その怪しい物でも見るような態度は……」
不満げに呻く水奈に対し、綾音は明らかに意外そうな顔をして言う。
「いや、だって……。あまりに気合入った格好しとるから……」
「そう?」
言われて水奈は、コンビニ入口のガラスドアに自分の姿を映してみた。
幅広のつばのついた麦わら帽子をかぶり、普段ひとまとめにして後頭部でバレッタ留めしている黒の長髪は、首の付け根あたりで一つくくりにして後ろに垂らしてある(そうしないと帽子がかぶれないのだ)。Tシャツの上から日焼け対策に袖丈長めのパーカーを羽織り、腰から下はジーパンにスニーカーという格好。右肩にはトートバッグを引っかけ、左手には小さなクーラーバッグを提げている。
こうしてまじまじと見ると、確かに軽い気持ちで開会式を見に来たという格好ではないかもしれない。どちらかといえば、開会式からそのまま第一試合までじっくり観戦しようという人間のそれに見える。
視線を自分の姿から綾音に戻すと、水奈は肩を竦めてみせた。
「まぁ、確かに気合入ってるって言われりゃ、そうかもしれんな。けどこの炎天下の中で見るねんで、熱中症対策はしっかりせんと」
「こないだの花火大会と、気合の入り方が違いすぎるやろ……」
心底呆れた調子で綾音がぼやいているが、それは聞き流しておく。
そうこうしているうちに、続々と今回の企画の参加者たちが集まってきた。
ボートネックのチュニックの下にキャミソール、ボトムはスキニージーンズという装いの綾音を始めとして、女性陣は誰もがショッピングにでも行くようなお洒落な格好ばかりだ。この後の同期会にそのまま参加するのだろうから、その程度の格好はしていて当然なのかもしれないが。
時折かけられる再会を喜ぶ声に適当に返事をしながら、水奈は集まってきた参加者たちの中にある人物を探す。その彼女の様子に気づいたのか、他の友人と喋っていた綾音が彼女の方に近寄ってきた。
「どないしたん? そんなキョロキョロして」
「い、いや別に。誰が参加してんのかなーと思って見てただけやし」
水奈のその言葉に何を察知したのか、綾音はニヤニヤ笑いを浮かべて言う。
「ははーん、さては愛しの道島くんをお探しやろか?」
「ち、ちがっ……!」
「隠してもムダやで。顔にそう書いてある」
「えっ?!」
慌ててコンビニのガラスドアに向き直ったものの、すぐにそんなことがあるわけもないと気づく。ドアに映った綾音を見れば、彼女の後ろで大笑いしているではないか。
水奈は爆笑する友人に視線を戻すと、彼女をじっとりと睨んだ。
「あーやーねー。からかうのも大概にしいやー」
「いやごめん、ごめん。まさかそないに超反応すると思わへんかったから」
ひとしきり笑い終わると、肩で息をしながら綾音は言葉を継いだ。
「心配せんかて、道島もそのうち来るって。だいたいまだ集合時間には早いやろ?」
「まぁな……ってだから違うってば」
「はいはい」
わかったと言わんばかりに手をヒラヒラさせて、綾音は先程の友人のところへ戻って行った。水奈の自己弁護はもう聞かないということだろう。
「そんなことあるわけないやん。あたしには今彼氏がいるんやから……」
綾音にというよりは、自分自身に言い訳するように水奈が呟いた時だ。コンビニ前にたむろした参加者の中から声が上がった。
「おーい、道島! こっちこっちー!」
その名に釣られて駅の方を見た彼女の目に、こちらに近づいてくる一人の男性の姿が映る。
背の高さの割に横幅はなく、人によってはもやしを想像するかもしれない体格。小ざっぱりと整えられ、前髪をラフにセンターで分けた黒い髪。夏でもTシャツの上からカジュアルなドレスシャツを羽織ったその姿は、高校時代に水奈が知っていた道島 文彰そのままだった。
文彰は参加者の輪に入ると、数人の男友達と少し話し、しばらく辺りを見回してから綾音の所に寄って行く。水奈が見ていると、彼は綾音と二言三言言葉を交わし、やがて彼女が指し示した方向にいる自分を見つけて歩いてきた。
(何言うたらいいんやろ……)
数年来会っていない恋人にでも会うような気持ちで――実際似たようなものだろうが――、水奈はあれこれと言葉を思い浮かべてはその全てを却下していく。結局文彰が自分の元に来るまでに、彼女はかける言葉を決められなかった。
「よ、布柄。改めて久しぶりやな」
水奈がかける言葉を選びきれないうちに、文彰の方からそう声をかけてくる。彼女はとりあえず、久々に見た彼の印象を告げた。
「久しぶり。しっかしほとんど変わってへんなぁ、道島って」
「そうかな?」
言って自分の服を見降ろす文彰。その様子を見ているうちに、水奈の緊張は少しずつほぐれていった。
「うん、ほとんどっていうか、全然変わってへんかも」
「えー? それって高校時代から何も成長してへんてこと?」
「成長してるかどうかはわからんけど、少なくとも外見はそのままってこと。いいやん、見た目が若いのはプラス要素やで?」
「そうなんかなぁ……」
いまいち釈然としない声音でそうぼやいた文彰は、それから口をつぐんでじっと水奈のことを見つめる。これまた高校時代と変わらない、黒縁眼鏡の奥の大きな瞳に凝視されて、彼女の緊張は再び高まり始めた。
しばし彼女を見つめた文彰は、やがて顔面に柔らかな笑顔を浮かべると口を開く。
「布柄は変わったかな……?」
「そうやろか?」
どう変わったと言われるのだろうか。内心どぎまぎしつつ、彼女は次の言葉を待つ。
そんな彼女の前で、先程と同じ笑顔を浮かべたまま彼は言った。
「うん、変わった。キレイになった……って言ったらいいんかな」
「なっ……!?」
思わぬ言葉を言われて、水奈の脳内はパニックを引き起こす。今の台詞にどう返せばいいのかわからない。
顔を紅潮させる彼女を尻目に、文彰は言葉を続けた。
「まぁ女の子は社会人になると……いや、大学生になると、かもしれんけど、どうしても化粧せんとあかんみたいやしな。高校時代の布柄は化粧とかしてへんかったから、今日してるのを見てキレイになったって思ったんかもしれんけど……」
「あ、あぁ。そういうことな……」
彼の言葉に、水奈は内心で落胆のため息を漏らす。確かに高校時代、彼女はメイクというものを一切しなかった。そして今日はそれをしている。その違いだけでキレイになったと言われるのは、さすがに手放しでは喜べない。
(褒めてくれたんかもしれんけど、それって微妙に褒めてへん気がするなぁ……)
水奈がそんなことを思っていると、文彰の後ろから声がした。
「なんやぁ、道島くん。来て早々に水奈とベッタリかぁ?」
声の主は長沢 留美。彼女も、今でも水奈が連絡を取り合う友人の一人である。
「べ、ベッタリって何言うんよ、留美……!」
水奈の抗議の声など、留美はものともしない。彼女は水奈の後ろに回り込むと、その両肩に手を置いて続けた。
「残念やったなぁ、この子はもう売約済みやで。彼氏おるもん」
「売約済みって、あたしは物かいな……。ていうか、道島もなんか言うたってやー」
うんざりとそう言う水奈。彼女は文彰に、留美の妄想を否定する言葉を期待したのだが……
「そっかー、それは残念やなぁ……」
「え、ちょ、道島?! あんた何言うてんの?!」
慌てて水奈が文彰を見上げると、彼は満面の笑みを浮かべて彼女を見下ろしていた。
(そうやった、コイツはこういうこと平気で言っちゃうヤツやったんや……)
高校時代からそうだったのだが、時折文彰は世間話のような口調で、非常に際どい発言をすることがある。まるで水奈の気持ちを見透かして、からかっているような。本心なのか冗談なのか尋ねても
「さぁ、どうやろね?」
とはぐらかされてしまうし、表情からそれを判断しようとしても、先程のようにただニコニコと笑っているだけなので、どうにもよく判らない。
(チャラいわけやないねんなぁ。持ってる雰囲気は真面目そのものやし。道島なりの茶目っ気って言ったらそれまでなんやろけど……)
疑問とも抗議ともつかない叫びに答えないまま、自分のことをただニコニコ笑顔で見続ける文彰。そんな彼を見ているうちに、水奈は段々腹が立ってきた。
「もう知らんわ」
それだけ言うと、彼女はぷいとそっぽを向く。視界の端で、留美と文彰が顔を見合わせ、肩を竦めるのが見えた。




