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(ホンマに気付いてへんかったやなんて……)
あの時ナオヤが自分に気づいていなかったという事実。それを突き付けられて、水奈はショックを受けた。
確かに自分でも気づいてほしくないと願っていたのは間違いない。あの環境――つまり、夕刻の暗がりや彼女が文彰と一緒にいたことなど――のおかげで気付かれなかったことに安堵したのも、あの時の正直な気持ちだった。
しかしこうして同じ場所、それもごく近い場所にいるのにまったく気づかれていなかったという事実を目の当たりにすると、どうにもやるせない気持ちがこみ上げてくる。
そのやるせなさが目に見える形となったかのように、水奈の瞳に涙が浮かんだ。
「そうか……。あんたは遠目で、あたしがいることわからへんかってんな……」
「いや、けどあん時は暗かったし、お前も誰か連れがおったんやし……。第一後ろ姿で気付け言われても……」
「あたしも一緒や! 周りの明るさも、他の人と一緒におったんも、あんたが正面向いてなかったんも一緒! それでもあたしは、あんたやって気付いてん! あんたはどうやの? ちらっとでも、あたしかもしれんとか思ったん? 思わんかったんやろ?! それが、あんたがあたしのこと、その辺にいる他の女の子と大差ないぐらいにしか思ってへんって何よりの証拠やんか!!」
「いやいやいや。それ支離滅裂っつーか、何言うてるかわからんし」
冷静な思考が出来ていないのは、彼女自身百も承知だ。しかし、今まで溜めに溜めこんできたナオヤへの不満は、一旦流れ出すと留まるところを知らない。次から次へと溢れだし、濁流のように理性を飲み込んでは口から吐き出されてしまう。
呆れ果てた表情を浮かべるナオヤを涙を湛えた眼で見据えて、水奈はヒステリックに言い放った。
「とにかく、もうあんたの顔なんか見たないねん! とっとと出てってや!!」
「や、けど……」
「いいから出てって!!」
言うと、彼に向ってその場に散乱していたペンやら小物やらを投げつける。
「うわっ、ちょ、何すんねんお前っ!」
彼の抗議とも悲鳴ともつかない叫びにも、彼女は投げつける手を止めない。
投げられるあれやこれやをかわしつつ、時にはぶつかりつつ、ナオヤは降参とばかりに両手を挙げる。
「わかったわかった! 今日は出てくから物投げんなって!」
「二度と来んなっ!!」
そう言って水奈が投げたクッションは、見事に彼の顔面に命中した。ボフッという、厚みのある柔らかい物がぶつかる時特有の音がする。
なおも手近にあった物を投げつけんと身構える彼女を横目で警戒しつつ、ナオヤは自分の荷物を持ってすごすごと部屋を出て行った。
部屋と廊下を遮るドアがゆっくりと閉じ、玄関のドアが閉まるバタンという音が響いて、ようやく彼女は物を投げようと構えていた腕を下ろす。視線を持っていた物に転じれば、次に彼女が投げようとしていたのはカッターナイフ――。
(なんつーもん持ってんの、あたし……)
無意識に掴んでいたとはいえ、急に恐ろしくなって、彼女はカッターナイフを床に放り出した。
刃はもちろん出ていないが、それを投げていたらと考えるとぞっとする。ナオヤのことを心底憎んでいるのは確かだが、だからと言って怪我を負わせるのは本意ではない。
まして、あの時彼女よりはるかに冷静だったであろう彼が、自分に対して投げつけられた物がカッターナイフだと気づけば、一体どう思ったか。
(こんなもん投げたら「気付かへんかってん、ごめんなー」では済まされへんよな……)
そもそもそんなことになれば、ちょっとした傷害事件だ。彼が警察にでも駆け込もうものなら、彼女は間違いなく加害者になってしまう。
(あのクズのために、あたしの人生に絶対消えない汚点を残すなんてアホらしいやん)
目に溜まった涙を拭って、大きく深呼吸。そして力を抜くように二、三度肩を上下に動かして、水奈は改めて部屋をぐるりと見渡す。
既に探し物で散らかっていた部屋は、彼女がナオヤに手当たり次第に物を投げつけたせいで、更に悲惨なことになっていた。
「はぁ……。やりますかぁ、片付け……」
誰に言うともなく、彼女はそう口にする。そうやって口に出して言わなければ、この惨状を放り出して不貞寝でもしてしまいそうな気分だ。




