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それからしばらくは、水奈の片付けの音と、カップラーメンを作るナオヤのお気楽な独り言だけが部屋に響いていた。
鼻歌など歌いながら熱湯を注いでいるらしいナオヤの様子は、彼を視界に捉えていなくても、音だけで容易に想像できる。
(ホンマ気ぃ利かんやっちゃなぁ……)
自分が散らかしたのだから、一人で片付けるのは当然――それは彼女もわかっている。だがそれでも、これほど能天気かつ気ままな振る舞いをされると、少しぐらい手伝ってくれてもいいではないかと思ってしまう。
(まぁホンマに「手伝ったろか?」って言われたところで、多分断るんやろけどな……)
水奈がぼんやりとそんなことを考えていると、
「ん?」
唐突にナオヤが不審な声をあげた。
その声に釣られて顔を向ければ、そこにはテーブル上の何かを凝視している彼の姿。
「……??」
わけがわからず無言で見守っていると、彼はテーブル上に散乱した彼女の荷物の中から、1枚の紙を取り上げる。
薄水色で、真ん中に横一本の折れ線がついたその紙は――
「あ……」
思わずそんな声を漏らす水奈。ナオヤが取り上げたのは、先程まで彼女がウキウキ気分で読んでいた、文彰からの手紙だったのだ。
(しまった。道島の手紙、テーブルに置きっぱなしやん……)
後悔したものの、時既に遅し。
しばし手元の紙に視線を落とし、やがて紙面から顔を上げたナオヤの目には、明らかな疑いの色が浮かんでいる。
「おい水奈。これ何やねん……」
「何って……。手紙やけど……」
「そんなもん見りゃわかるわ。この手紙が誰からのやって訊いてんねん」
「高校時代の友達やけど……」
事実を言っただけなので、ここは堂々としておくのが一番だったのだろう。しかし、先程その手紙を見て喜んだことに後ろめたさを感じている水奈は、彼を直視することができない。
そんな彼女の様子に不審なものを感じたのか、手紙を持ったまま立ち上がると、ナオヤは彼女に詰め寄る。
「友達言うても、どう見たって男からの手紙やろ、これ」
「それはそうやけど、友達なのはホンマやし……」
「じゃあ何で俺の方見ぃひんねん? 見られへんようなことがあるからとちゃうんか?!」
言ってがっしりと彼女の肩を掴むナオヤ。その拍子に彼の手から、ひらりひらりと薄水色の便箋が落ちていった。ゆっくりと床に着地したそれは、肩を掴んだまま後ろへと水奈を押し続ける彼の足によってぐしゃりと踏みつけられる。
その踏みつけられた手紙に、なぜか彼女は自分の心を重ねていた。
どれほど誠心誠意を尽くしても、ナオヤは彼女のその心を一瞬でぐしゃりと踏みつけて――いや、踏みにじっていくのだろう。皺が寄ろうが破れようが、きっと彼がそれを気にすることはない。彼にとっての自分は、もはや便利なメモ帳のページ一枚ぐらいの存在でしかないのだろうから……。
ナオヤに押されて後ずさりするうちに、彼女の体は壁際にある三段組みのカラーボックスへと激突する。それでも彼は、彼女を後ろへ押すことをやめない。カラーボックスの天板の角が背中に食い込み、水奈は初めて強い抗議の声をあげた。
「痛い! やめてナオヤ!!」
すると――
「うっさい!」
パンッという破裂音と共に、彼女の顔は強制的に右を向かされた。一瞬何が起こったのかわからなかった水奈だが、左頬に痛みを感じて、ようやくナオヤに平手打ちを食らわされたことを理解する。
(こんなこと、今まで一度もあらへんかったのに……)
平手打ちを食らうに至り、彼女は自分の中に彼への嫌悪感があることをはっきりと認識した。痛む頬に手を当てたまま、俯いてぼそりと呟く。
「もう……たくさんや……」
「何やて?!」
「だから、もうたくさんやって言うてんねんっ!」
そう言うと、彼女は勢いよく顔を上げる。そして頬に当てていた左手と所在なくぶら下げていた手を彼の胸元に押し付けると、精一杯の力で突き飛ばした。
彼女の予想外の行動になす術もなく尻もちをついたナオヤは、その場所から自分を突き飛ばした水奈を驚きの顔で見上げている。
その馬鹿みたいに呆けた顔を見下ろして、彼女は今まで溜めこんでいた思いを一気に吐き出した。
「あたしもう嫌やねん! こんな宙ぶらりんな関係続けんの! あんたにとってのあたしって何なん?! もういらんのやったら、何でいつまでも側に置いとくんよ?!」
「え、ちょ、水奈……? お前何言って――」
先程までの怒りの形相はどこへやら、困ったようにヘラヘラと笑いながらそう言うナオヤ。しかしその言葉を最後まで聞かず、彼女はさらに言い募る。
「あたしとっくに知ってんねんから! あんたがあたしに飽きてんのも、あんたが浮気してることもな!!」
水奈の言葉に、それまで怒りかヘラヘラ笑いしか浮かべていなかったナオヤが、初めて動揺の表情を見せた。
「ちょ、おま、何でそれ知って……」
「あたしが何も言わんかったから、騙せてる気になってたん? お生憎さまやったな。あんたの態度見てたら、なんとなく想像はつくねん。あたしの話も半分ぐらいしか聞いてへん風やし、何より週に三回も四回も職場とか同期の飲み会とかで帰られへんって。それもここ数ヶ月毎週やで? どう考えたかて不自然やんか。
そのくせ思い出したように時々帰ってきて、我が物顔で人んちの食糧ストック漁ったかと思たら、友達からの手紙勝手に読んだ挙句、自分のこと棚に上げて浮気やなんやって責め立てて。ホンマどういう神経してんの? あんたこそ、ようあたしの方直視できたもんやな?!」
「いや、せやから水奈、それはな……」
「もういい。あんたの言い訳なんか、もう聞きたない。その言い訳を、毎回あたしがどんな気持ちでスルーしてきたかなんて、あんたにはわからんのやろ?! 言い訳とか言うてんと、とっととあのかわいらしい女の子のとこにでも行けばええやん!!」
「え……? お前ノゾミのこと知ってんの……?」
呆然とそう尋ねるナオヤを、彼女は一段と厳しい表情で睨みつける。
「ノゾミちゃんなぁ。外見どおりのかわいらしい名前やわ。派手なハイビスカス柄の浴衣着て、それはそれはかわいらしい子やったなぁ。あんな子が新しい彼女なら、そりゃあたしなんかもういらんわな? なぁナオヤ?」
「何でお前がノゾミの浴衣姿知ってんねん? ……ってまさか……」
「そうや。あたしはこないだの神戸の花火大会で彼女を見てん。彼女と、それから彼女に向かってヘラヘラ笑ってるあんたの姿をな。あの子、あんたに会う直前に人にぶつかったとか言うてへんかった?」
「いや、確かにそれは聞いたけど……」
「そのぶつかった相手がな、あたしやったんよ!」
「えっ? じゃああん時ひょろ長い男の隣で、後ろ向いてたんてお前やったんか?!」
「――――っ!」




