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「ただーいまー」
自宅のドアを開けながら、水奈はそう口にした。
(つっても、誰もおらんねんけどな……)
そう、自宅には彼女の他には誰もいない。ナオヤも一介のサラリーマンなので、午後七時過ぎなんて時間に家にいるわけもない。
もっとも、彼が家にいないのは、仕事だけが原因ではなかった。水奈が浮気現場を目撃した土曜日以降、ナオヤは一度も彼女の家に帰ってきていないのだ。今まで外泊時に送ってきていた例の言い訳メールも、ここ数日は届いていない。完全な無断外泊である。
(まるで浮気がバレたから開き直ったみたいなタイミングよな。あの場にあたしがいてたのは、気付かれてないはずやねんけど……)
そう思いながら、彼女は玄関ドアの内側についている郵便受けを開け、中に入っている物を取り出す。
「えーっと、宅配ピザのチラシに服屋さんからのDM。それから……あー、またいかがわしいチラシが入ってる。女性の家にこんなもん入れてどないすんねんて……」
ブツブツとぼやきつつ、歩きながら郵便受けの中身を確認していた彼女の足が、ちょうど部屋のドアの直前で止まった。
「ん……?」
薄水色の洋形一号封筒。そこに懐かしい文字で「布柄 水奈 様」と彼女の名前が書かれている。
「これは……」
高揚した気持ちを抑えつつ、封筒を裏返す水奈。そこにあった差出人の名前を見て、彼女は思わず小さく笑っていた。
「やっぱし……。相変わらず几帳面な字ぃ書くなぁ……」
それは先週土曜日、ナオヤの浮気現場に動揺した彼女が、一方的に当たり散らしたあげくその場に置き去りにしていった文彰からの手紙だった。
室内に入りテーブルの上に荷物を置くなり、文具入れからカッターナイフを持ってくる水奈。封書の封を切ると、椅子に腰をおろして中の便箋を取り出す。
と、その拍子に封筒の中から何かがパラリとテーブルの上に落ちた。
「何やこれ……?」
不思議に思って落ちた物に視線を向ければ、それは高校野球の観戦チケットである。明確な日付はなく、日付を暗示させるのは「第7日」という文字のみ。
「八月四日が一日目やから、四、五、六、七、八、九、十、と……。あぁ、なるほどね」
指折り数字を数えていって、七日目が何日になるか気付いた彼女はニンマリした。
カレンダーに目をやれば、八月十日のスペースには、彼女の文字で「三甲台 甲子園初戦!」と記入されている。
文彰が何の用事でわざわざ手紙など送ってきたのか察しがついた水奈は、改めて手元の便箋を開くとそこに視線を落とした。
一枚のみで封筒と同色の便箋には、封筒の宛名や差出人名と同じ几帳面な文字で、こう綴られている。
『暑中お見舞い申し上げます。って、これが届く頃には“残暑お見舞い申し上げます”って言わなきゃいけなくなってるかな?
こないだは急に帰るって言い出したから、さすがにちょっと驚いちゃったよ。でも布柄のことだから、理由もなしにそんなこと言わないだろうと思ってるんで、俺は大して気にしてません。むしろあの後ちゃんと帰れたかだけが心配だったぐらいで(笑)
で、そのリベンジってワケじゃないんだけど、今度の三甲台の初戦一緒に見に行かない? 実はチケットが2枚手に入ったんだけど、俺の周りにはその日空いてる人がいなくって……。あ、もちろん俺はその日休みなんだけどね。ていうか、休みじゃなかったらこんなお誘いしないか(苦笑)。
行ってくれるかはわかんないけど、一応チケットを同封しておきます。どうするか決めたら、メールででも連絡ください。時間とかはその時に決めよう。
それじゃあ。まだまだ暑いので、くれぐれも体調には気をつけてねー。』
「やっぱしな……」
文彰の手紙を一通り読み終え、水奈は呟くと自然と笑みを浮かべる。完全に彼女の読み通り、彼は母校の初戦観戦に彼女を誘っているのだ。
「さて、十日は休みやったっけなー?」
言いながら彼女は、テーブルの上に置きっぱなしの荷物の中から手帳を取り出した。その手帳には、四つに折りたたんだ今月分のシフト表が挿んである。
が――
「……あれ?」
手帳の裏表紙を開いて、水奈は声をあげた。そこに挿んであるはずのシフト表がないのだ。挿んだ場所を勘違いしたかと表紙の方を開いてみたが、そこにもなかった。
「えー? どこにやったんよ、あたし……」
ページをパラパラと捲り、バッグの中身をテーブルの上にぶちまけても、それらしい四つ折りの紙は見当たらない。心当たりのある場所をあちらこちらと探しているうちに、気がつけば部屋は盛大に散らかってしまっていた。
「あっちゃー……。やってもうた……」
部屋の惨状に気付いた水奈が、思わずそう呟いた時。
「何やこの部屋……」
不意に響いた自分以外の声に、驚いて彼女は振り返った。彼女の視線の先、ちょうど部屋の入口すぐの場所に、ここ数日帰ってきていなかったナオヤの姿がある。
「びっくりしたー。いつの間に帰ってきてたん?」
「いつの間に、って……。ちゃんと玄関で『ただいまー』って声かけたで?」
言いながら、床に散らばった物を器用に避けて室内へと入ってくるナオヤ。彼は苦笑を浮かべながらテーブルへと歩み寄ると、先程彼女が座っていた向かい側の椅子を引いて座る。
そして、部屋のど真ん中で立ち尽くしている彼女と、その周辺を眺めて声をあげた。
「しっかしまぁ、派手に散らかしたもんやなぁ。何やってたん?」
「ちょっと探し物」
「ふうん。で、見つかったん?」
「いやまだ。けど一旦片付けるわ」
それだけ言って、水奈は床に散らばった物を拾い始める。
(自分一人やったら晩ごはん後回しにしてもよかったけど、ナオヤが帰ってきたんやったらそうもいかんよな……)
いつものようにそこまで考えた彼女だったが、ふとあることを思い出してナオヤの方を向いた。
「ごめん、そういや今日の晩ごはん、あたしの分しか買ってへんわ。ここしばらく、あんた連絡なしに帰ってこんかったから、今日もそうなんかと思って」
事実と共に嫌味も込めて言った水奈だったが、嫌味の部分はどうやら彼には通じなかったらしい。何事もないようなケロリとした表情で、頭の後ろを掻いている。
「そうかー。まぁええわ。どうせカップラーメンとかなんか残ってるやろ?」
言うが早いか、ストックの食品を入れた引き出しを開けるナオヤ。まるで自分の家にいるかのようなその振る舞いに、彼女はなぜか今までにないほどの苛立ちを感じた。
(浮気しときながら、随分と調子のええことで……)
その言葉を口に出す直前で飲み込むと、彼女は無言で片付けを再開する。




