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(軽い女やと思われたらどうしよう……)
しかしそんな心配は杞憂だったらしい。ふっと表情を緩めると、文彰は言った。
「なるほどな、それで全部納得したわ」
「え?」
彼は水奈から視線を外すと、正面を向いたまま続ける。
「葉室が言ってた、布柄の彼氏が何してるかわからんってのも、それから布柄があの場で話せなかった理由も。確かにこんな話、よっぽど気心の知れた人間にしか聞かせたくないわな」
「道島……」
水奈は文彰の横顔を見つめた。どうやら彼は、先程彼女が置かれていた複雑な状況をある程度理解してくれたらしい。
その優しさと気配りに、彼女は救われた気がした。あのカラオケルームからずっと引きずっていた重い気持ちが、嘘のように晴れ渡っていく。
(道島が彼氏やったら、こんなに悩まんで済んだんやろけどなぁ……)
ふとそんなことを考えて、慌てて水奈は左右に首を振った。文彰はその動きに気付いたようだったが、何も言わずに隣を歩いている。
そうしてしばらく無言で歩いているうちに、ようやく二人はメリケンパークの入口に到着した。
背の低いポールが立ち並ぶ間を通って、中に入っていく。
と――。
「うぉあっ?!」
横から誰かにぶつかられて、水奈は文彰のほうによろめいた。彼も驚いたようだったが、瞬間的に彼女の肩を支えてくれる。
何事が起こったのかわからず文彰と顔を見合わせる水奈に、一メートルも離れていない先の方から無邪気な謝罪の声が降ってきた。
「すみません、ぶつかっちゃってー」
どうやら水奈にぶつかったのは、その声の主のようだ。ショートカットの頭に大きな花飾りをつけ、暗くなりかけた中でも非常に目立つ、白地にショッキングピンクや朱色のハイビスカス柄という、いかにも今時の若い子が好みそうな浴衣を着た女性。いや、むしろ少女と言うべきか。
ぺこりと頭を下げる少女の様子がかわいらしく、思わず顔をほころばせながら水奈は返事をしてやった。
「いえいえ。浴衣で走ったら危ないから、気ぃつけてね」
「はい、ありがとうございます!」
そう言うと、その少女はもう一度お辞儀をして、持っていた黄色と赤の巾着袋を振り回しながら走っていく。
「あーあぁ、また走ってるわ。大丈夫かな、あの子……」
苦笑しながらそう言う文彰の言葉に、水奈もつられて笑ってしまう。
そして笑ったままその少女の姿を追っていった彼女は
「――――っ?!」
その場に凍りついた。
「どうしたん、布柄……?」
彼女のただならぬ様子に気づいたのか、文彰がそう声をかける。しかし彼女には、すぐにその質問に答えられるだけの心のゆとりがなかった。
浴衣の少女が走り去ったその先に、一人の青年が立っている。セットしたのかどうかもよくわからないような茶色っぽい黒髪に、黒地に髑髏マークが白抜きされたTシャツ。そしてカーキのカーゴパンツ。
髪形から服装まで、一見どこにでもいる二十代前半の男性だ。周囲を見回しても、似たような格好をしている男性はいくらでも見ることができる。
しかし、パンツのポケットに手を突っ込んで、少女が来るのを笑いながら待っているその青年は、遠目に見ても水奈のよく知っている人物にとても似ているように思えた。
(ま……さか……)
信じられない、いや信じたくないという思いを抱えて、青年を見つめる水奈。しかし無情にも、彼女の耳は、聞きたくない名前が呼ばれるのをしっかりと捉えていた。
「ナオヤくーん、お待たせー」
その名前を呼んだのは、皮肉にも先程彼女に謝ってきたのと同じ声。
(あたしにぶつかったあの女の子が、ナオヤの浮気相手やったってこと……?)
お人好しにも程がある。知らなかったとはいえ、水奈は自分から彼氏を奪った人間の心配をし、あまつさえその人間をかわいいと思っていたとは……。
見たくないと思うのに、彼女の視線はガッチリと例の少女とナオヤと思しき人影に固定されている。ずっと見ていると、少女は彼と何かを話しながら、こちらの方を指差してきた。
つられてナオヤがこちらを見ることが予想できて、とっさに水奈は後ろを向いた。
「布柄……?」
不可解な声音で文彰がそう尋ねてくるが、彼女はそれにも答えない。
ナオヤからこちらまでの距離とそろそろ陰りつつある陽、そして何より文彰と並んでいるおかげで、おそらく少女が指差した方向にいるのが自分だと思われることはないだろう。が、何のきっかけで気付かれるかはわからない。
(こんなトコには長居は無用)
そう判断した水奈は、後ろを向いたままボソリと言う。
「……ごめん、道島。あたしやっぱ帰るわ」
「えっ、何で? って、あっ、ちょ、どこ行くん?」
そして驚きの声をあげる文彰をその場に置いて、彼女は元来た方へと歩き出した。
(彼氏がいるのに道島と花火大会とか行ったから、きっと罰が当たったんやわ……)
そんなことを考えながら早足で歩いていると、後ろから慌てて追ってくる足音が聞こえた。誰の足音かは、振り返って確認するまでもない。
足音の主は彼女の隣に並ぶと、彼女と同じスピードで歩きながら声をかけてくる。
「なぁ、ホントどうしたんよ? なんかあった?」
「なんでもない……」
「そうは見えへんけど……」
さらに言い募る文彰の言葉に、思わず水奈は立ち止まって、彼を怒鳴りつけた。
「なんでもないったらなんでもないの! もうあたしのことはほっといて!!」
「え、あ、は、はい……」
わけもわからず怒鳴られて呆然としている文彰。そんな彼を見て、今さらながら水奈は自分が冷静さを失っていることに気付いた。
深呼吸をすると、進行方向に向かって小さく言う。
「急に怒鳴ったのは悪かったと思てる。けどごめんやけど、今日は一人で帰りたいねん。そうさせてもらえへんやろか……?」
「わかった。そこまで言うんなら、俺はあなたの意思を尊重するよ」
視線は正面を向いているので、今彼がどんな表情をしているのか、彼女にはわからない。しかし、声のトーンだけで判断するなら、明らかに気落ちしているように思える。
「ありがと。ホンマごめんな……」
心苦しさを感じつつそれだけ言うと、彼女はその場を立ち去った。
そうしてその日、ナオヤは水奈の家には帰ってこなかった――――。




