第1話 私の卵焼き、一口も食べてないんですけど
人生の貸借対照表が、まさかこんな理不尽な赤字決済で強制終了するなんて、誰が予想できただろう。
私は中道ともえ、二十六歳。
地方都市の片隅にある従業員三十名足らずの中小企業――その経理部で、日々領収書の山と睨み合っているだけの、絵に描いたような平社員である。
手取りは決して多くないが、家賃四万五千円のワンルームで慎ましく暮らす分には過不足ない。毎月の固定費を几帳面に家計簿アプリへ打ち込み、スーパーの特売日には数十円単位で献立をやりくりする。そんな地味で、平穏で、波風ひとつ立たない生活を、私はそれなりに愛していたのだ。
「おおっと、危ない危ない。忘れるとこだった」
玄関のドアノブに手をかけた瞬間、キッチンのカウンターに置き去りにされた二段式のランチボックスが視界に入った。
そそくさとキャンバス地のトートバッグへねじ込む。昨晩の残りのきんぴらごぼうと、冷凍の白身魚フライ、そして少し形が崩れた卵焼き。これがないと、私の昼休みはコンビニの割高なおにぎりで余計な出費を強いられることになる。
先週、この弁当をうっかり忘れて家に戻ったせいで、タイムカードを押すのが打刻締めの三分前になり、背中に冷や汗をびっしりかいた記憶が新しい。
「よし、施錠完了。戸締りヨシ」
ガチャリと鍵を回し、確認のためにドアノブを二回引く。
澄んだ朝の空気を吸い込み、駅へ向かって歩き出した。いつも通りの通勤路。いつも通りの八時十五分。なんの変哲もない、平凡極まりない一日の始まり――のはずだった。
事件は、私の左後方、およそ四十五度の死角から、まったく無音のまま突っ込んできた。
耳元を掠めたのは、金属が擦れ合う微かな軋み音と、アスファルトを乱暴に削るタイヤの摩擦音。
(――え?)
振り返る間すらなかった。
視界の端に飛び込んできたのは、前カゴに荷物を山積みにし、イヤホンを耳に突っ込んだまま猛スピードで歩道を爆走してくる通勤用のクロスバイクだ。
直近の道路交通法改正で、自転車の歩道通行や逆走に対する罰則がどれだけ強化されたと思っているのか。歩行者優先の原則も、左側通行の義務も、すべて踏み倒した完全な違法運行。帳簿なら一発で税務署から追徴課税を食らうレベルのコンプライアンス違反である。
「きゃっ――!?」
反射的に身を捻り、左足を咄嗟に引いた。
だが、歩道の縁石と電柱の隙間はあまりにも狭く、履き慣れたローヒールの爪先がアスファルトの継ぎ目に引っかかる。足首がぐらりと折れ、重心が完全に浮いた。
バランスを崩し、無様に視界が斜めに傾いていく。
間一髪で一台目を避けた――そう安堵したコンマ数秒の刹那。
「うわっ、危ねええええっ!!」
正面から響いた、野太い絶叫。
もつれた足のまま倒れ込んだ私の目の前に飛び込んできたのは、対向車線をこれまたいい速度で走ってきた、もう一台の電動アシストママチャリの前輪だった。
避けた先に、次の追突。
挟撃。ダブルブッキング。相殺不能の物理的激突。
ドカン、と鈍い破滅音が鼓膜の奥で弾けた。
衝撃で身体が宙に浮き、視界がぐるりと天地逆転する。手からすっぽ抜けたトートバッグから、愛用の二段弁当が放り出され、青空をバックに放物線を描いていくのがスローモーションで見えた。ああ、卵焼きが飛び散る。ちょっと形崩れたけど、味付けはバッチリだったのに。
そして、硬いアスファルトに後頭部が叩きつけられた。
痛烈な熱のあと、急速に体温が引いていく。
耳鳴りの向こうで、誰かの悲鳴と、遠ざかるブレーキの音が微かに聞こえた。
――はい、ご愁傷様。
残高ゼロ、有休全消化不能。
これにて私の二十六年間の人生、帳簿強制締め切り。
……嘘でしょ、まだ一口も食べてないのに、私のお弁当。
急速に暗転していく視界のなかで、私の意識は完全にブツンと途切れた。
読んでいただきありがとうございます!
地方の中小企業仕込みの武闘派経理、始まります。
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