第1話 馬が走る黒いアスファルトの上
黒いアスファルトの上。
荒んだ並木はぴくりとも動かず、風もない。
それなのに、雨の匂いだけがした。
「……降るかな」
私は空を見上げた。
東京の夜空は明るい。
雲があるのかないのかもよく分からない、ぼんやりと濁った灰色。その向こう側にあるはずの星なんて、一つも見えなかった。
時刻は午後十一時十二分。
大学の課題を片づけて、ついでに友達とご飯を食べていたら、すっかり遅くなってしまった。
最寄り駅から自宅までは徒歩十二分。
大通りを真っ直ぐ歩いて、コンビニの角を曲がればマンションが見える。
毎日のように通っている道だ。
だから最初、その音が何なのか分からなかった。
カッ。
カッ。
カッ。
カッ。
「……?」
イヤホンを外す。
音楽が消える。
車のエンジン音。
遠くを走る電車。
信号機の電子音。
そして、その間を縫うように。
カッ、カッ、カッ、カッ。
規則正しい硬い音が近づいてくる。
私は足を止めた。
「馬?」
いやいや。
ここ東京。
しかも普通の住宅街。
馬が走っているわけがない。
そう思った直後だった。
交差点の向こう側。
暗い並木道から、
一頭の白い馬が現れた。
「……え」
大きい。
テレビや動物園で見る馬より、ずっと大きく感じる。
月明かりなんてほとんどないはずなのに、その身体だけが淡く光っていた。
長い鬣が揺れている。
けれど、おかしい。
風はない。
道路脇の木々はまったく動いていないのに、馬の鬣だけが水の中にいるみたいに揺れている。
馬は道路の真ん中を走っていた。
「危な……!」
車が来る。
私は反射的に声を上げた。
黒いワゴン車が白馬へ向かって走っていく。
「危ない!」
衝突する。
そう思って目を瞑りかけた。
ところが。
車は白馬を、
すり抜けた。
「……は?」
ワゴン車はそのまま走り去った。
ブレーキすら踏んでいない。
白馬も何事もなかったように走り続けている。
私は周囲を見る。
横断歩道には会社員らしい男。
スマホを見ている女の人。
自転車に乗った高校生。
誰も馬を見ていない。
「嘘でしょ」
もう一度、白馬を見る。
目が合った。
――まずい。
理由なんてない。
でも身体がそう判断した。
逃げた方がいい。
私は歩き出す。
早足。
後ろから蹄の音が聞こえる。
カッ。
カッ。
カッ。
速くなる。
私も速く歩く。
カッ、カッ、カッ。
「いやいやいや……」
走った。
コンビニまで行けば人がいる。
何の意味があるか分からないけど、とにかく一人でいるよりいい。
なのに。
カッ。
目の前で音がした。
「っ!」
立ち止まる。
白馬がいた。
私の正面。
「……なんで」
振り返る。
後ろには誰もいない。
いつ追い越された?
そもそも、どうやって?
白馬は私をじっと見ている。
黒い瞳。
不思議と怖くなかった。
むしろ、悲しそうな目だった。
「……何?」
返事があるわけがない。
私は少しだけ近づいた。
そのとき気づいた。
白馬の首から何かが下げられている。
花瓶だった。
「花瓶?」
両手で包めるくらいの、小さなもの。
白い陶器でできている。
模様もない。
花もない。
ただの空っぽの花瓶。
それが細い紐で馬の首からぶら下がっていた。
「これ……取ればいいの?」
馬は動かない。
私は恐る恐る手を伸ばす。
「噛まないでよ」
自分でも、なんで普通に話しかけているのか分からない。
指先が花瓶へ触れた。
瞬間。
――適合者を確認。
「え?」
女とも男とも分からない声だった。
頭の中へ直接流れ込んできた。
私は花瓶から手を離す。
「なに今の」
――魂魄照合。
――照合不能。
――神格照合。
――照合不能。
「ちょっと待って」
――世界座標照合。
――対象世界:《アメン》。
――対象個体:天城澪。
「なんで名前知ってんの」
背筋が冷たくなる。
馬が一歩後ろへ下がった。
「待って」
嫌な予感がする。
私は花瓶を手放そうとした。
離れない。
「……え?」
指が貼りついている。
「ちょ、取れない!」
振る。
取れない。
「何これ!」
――第九系統、暫定接続。
――帰還経路を再構築します。
「帰還?」
意味が分からない。
私はここにいる。
帰ってきたところだ。
どこへ帰るというのか。
そのとき。
ゴォン――。
鐘の音がした。
東京で聞いたことのない音。
低く。
重く。
街全体を震わせるような鐘。
通行人は誰も反応しない。
ゴォン――。
二度目。
信号が消えた。
「……え」
街灯が消える。
ビルの窓。
コンビニ。
自動販売機。
遠くに見えていたマンション。
一つずつではない。
一瞬で、東京中の光が消えた。
真っ暗になる。
「何……これ」
スマホを見る。
画面はついている。
午後十一時十三分。
時刻が変わらない。
十一時十三分。
十一時十三分。
秒数まで止まっている。
「……やだ」
白馬が道路の中央へ歩いていく。
「待って!」
どうして呼び止めたのか、自分でも分からない。
でも、あれだけが今、この異常の中で動いている。
白馬が振り返った。
そして前脚を上げ、アスファルトを一度蹴った。
カン。
その瞬間。
道路に一本の線が走った。
「……は?」
白い光。
それがアスファルトを這っていく。
一本。
二本。
三本。
複雑に絡み合いながら巨大な模様を描く。
魔法陣。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
「いや、ないない」
私は後ずさる。
「これはない」
異世界ものは読んだことがある。
漫画だって読む。
だからこそ分かる。
こういうのに触った人間がどうなるか。
「絶対乗らないから」
白馬を見る。
「いい? 私、明日一限あるの」
馬は何も言わない。
「あと課題も提出してない」
白馬が前脚で地面を掻く。
「いや、だから行かないって」
ゴォン――。
三度目の鐘。
地面が消えた。
「え」
本当に、
消えた。
「うそ――」
身体が落ちる。
私は反射的に何かを掴もうとした。
何もない。
東京が遠ざかっていく。
道路。
街灯。
建物。
白馬。
全部が上へ消えていく。
「いやああああああ!」
情けないくらい叫んだ。
落ちる。
落ちる。
落ちる。
暗闇の底へ。
その途中。
私は見た。
東京が小さくなっていく。
街だけじゃない。
東京そのものを、透明な巨大な壁が覆っていた。
まるで――
ガラス瓶の中に閉じ込められているみたいに。
何、あれ。
そう思ったところで、
意識が途切れた。
◇
「――きろ」
声がする。
「起きろ」
誰。
「起きろ、異界の者よ」
うるさい。
頭が痛い。
「儀式は成功した! 早く確認を!」
儀式?
私は目を開けた。
「……え」
最初に見えたのは、天井だった。
高い。
馬鹿みたいに高い。
石造りの巨大な空間。
壁には無数の燭台。
床には金色の巨大な紋様。
そして私を囲むように何十人もの人間が立っていた。
全員、
変な服を着ている。
白いローブ。
鎧。
剣。
杖。
王冠。
「…………」
私はもう一度目を閉じた。
五秒。
開ける。
変わらない。
「夢じゃない……」
ざわめきが広がる。
「女だ」
「若いぞ」
「神託通りだ」
「聖女様……!」
「成功だ!」
聖女。
嫌な単語が聞こえた。
私は身体を起こした。
「すみません」
ざわめきが止まる。
「ここ、どこですか」
誰も答えない。
代わりに、人々の奥から一人の男が歩いてきた。
五十代くらい。
豪華な赤い服。
金の王冠。
説明されなくても分かる。
王様だ。
男は私を見下ろした。
「異界より招かれし娘よ」
低い声。
「そなたを歓迎しよう」
私は何も言えない。
「ここは神聖アルヴェリア王国」
王は両腕を広げた。
「そして余こそ、第十九代国王ガルディオ・アルヴェリアである」
周囲の人間が一斉に頭を下げる。
私だけ立ったまま。
王が続ける。
「そなたは神託によって我らの世界へ招かれた」
「……招かれた?」
「そうだ」
「私、同意してませんけど」
空気が止まった。
王の眉がわずかに動く。
まずかったかもしれない。
でも、知らない。
勝手に人を連れてきて「招いた」はおかしい。
「まあよい」
王は咳払いをした。
「混乱しているのであろう」
その通りではある。
「そなたには使命がある」
「使命?」
「この世界を救うのだ」
来た。
絶対来ると思った。
「……ちなみに」
「なんだ」
「帰れます?」
「使命を果たせば、神々がその願いを聞き届けるであろう」
つまり。
「今は帰れない?」
「…………」
「帰れないんですね」
王は答えなかった。
最悪だ。
お母さんになんて説明すればいいんだ。
いや説明できない。
スマホを見る。
圏外。
当然だった。
そのとき、
「陛下」
ローブを着た老人が前へ出る。
「まずは聖女様の御力を確認いたしましょう」
「うむ」
老人が私の前に透明な水晶を置く。
「こちらへ手を」
「これ何ですか」
「鑑定石にございます。触れるだけで、魔力と天職が明らかになります」
魔力。
本当に異世界らしい。
私はため息をついた。
どうせ帰れないなら、今は情報を集めるしかない。
水晶へ触れる。
光った。
周囲から歓声が上がる。
「おお!」
「やはり!」
「強い光だ!」
水晶から文字が浮かぶ。
私は読めない。
なのに意味だけは頭へ入ってきた。
名前――天城澪。
種族――人間。
魔力――0。
剣術適性――0。
治癒適性――0。
神聖魔法適性――0。
「…………」
歓声が止まった。
老人が瞬きをする。
「……もう一度」
私は触れる。
魔力――0。
老人の顔色が変わった。
「あり得ない」
周囲がざわつく。
「魔力がない?」
「異界の聖女だぞ?」
「神託はどうした」
王も先ほどまでとは明らかに違う顔をしている。
「天職は」
老人が呟く。
「天職を確認しろ」
水晶に最後の文字が浮かんだ。
《花守》
「花……守?」
老人が固まる。
王が尋ねる。
「どのような職だ」
「分かりません」
「何?」
「王国の職業典にも……このような天職は記載されておりません」
静寂。
そして、誰かが小さく笑った。
「なんだ。それでは役立たずではないか」
胸の奥が冷たくなる。
つい数分前まで、
聖女様。
世界を救う者。
神託の娘。
そう呼んでいた人たちだ。
王が私を見る。
さっきまでの歓迎する目ではない。
品定めするような、冷たい目。
「本当に、この娘なのか?」
「召喚陣から現れたことは間違いございません」
「ならばなぜ魔力がない」
「それは……」
私は水晶から手を離した。
「私に聞かれても知りませんけど」
誰も笑わない。
そのとき。
私の足元で、
カラン。
小さな音がした。
「……?」
見る。
あの花瓶だった。
東京で白馬が持っていた、空っぽの花瓶。
いつの間にか床に転がっている。
拾い上げる。
その瞬間。
――第一封印、維持。
また、あの声が聞こえた。
――《花守》への接続を確認。
私は息を止める。
――九花、未開花。
――九門、閉鎖。
――神格、
そこで声が乱れた。
ザザッ、とラジオのノイズみたいな音。
そして最後に、
ほんの一瞬だけ。
――生命神――
「……え?」
声は消えた。
私は花瓶を見る。
何もない。
ただの空っぽの器。
「どういう意味……?」
顔を上げる。
王たちはまだ私を見ている。
誰も今の声を聞いていないらしい。
その中で一人だけ。
部屋の隅に立っていた白髪の神官が私の持つ花瓶を見ていた。
老人の顔から血の気が消えている。
「まさか……」
唇が震える。
「その器は……」
「知ってるんですか?」
私が尋ねると、老人は何か言いかけた。
だが。
「もうよい」
国王の声が遮った。
老人が口を閉じる。
王は玉座へ戻っていく。
私を見ることさえせず、吐き捨てるように言った。
「明朝、改めて処遇を決める」
処遇。
その言葉が妙に引っかかった。
私はこのとき、まだ知らなかった。
彼らが欲しかったのは異世界から来た人間ではない。
役に立つ聖女だったということを。
そして翌朝。
私はこの国から、銀貨三枚で追い出されることになる。




