プロローグ. 「春の風」
———風が吹いた。
よく晴れた日。
十日に一度、一日を通して普段とは比較にならない強風と大粒の雪が吹き荒び、獣達が暴れ狂う猛吹雪の後に一日だけ訪れる、空が雲をその身に纏う事を忘れ、露出を極端に嫌う太陽が唯一、その輝きと熱を世界中に広がる白の大地に轟かせる日だ。
その日、広大な白銀世界の一角、この世界で唯一人々が暮らし得る場所『龍脈』を中心として構成される小さい長閑な村の一つにて、他の風とはどこか異なる一筋の風が吹いた。
———暖かい風だ。
吹雪において雪を伴って吹く、鋭く冷たい乾いた風とはどこか違った、暖かく僅かに湿った、優しく穏やかな風が、一人の少女の頬を柔らかに撫でた。
皆がよく知る、吹雪に染まった冷たい悪意を持つ荒風に心が無いとするならば、この暖かい風は雪の冷たさを知らない仄かな熱を孕んだ抱擁を皆に贈る、優しく身も心も包み込む様な心を持った、そんな風だ。
その風の通ってきた先を知りたい、そしてこの永遠の寒さを終わらせたい。少女がそう思っても、果てしない水色と白色の境界線には、異質な黒色がこの世界を囲む様に位置しており、それがその夢を易々と許してはくれない。
壁だ。
遠くからは小さく低く、しかし近くからは果てしない程高く見える、おおよそ人にはそれを越えるどころか、僅かに登ることも叶わない。
向こうにあるかもしれない暖かな世界、その憧れを抱いても、それは幻想に過ぎずそれ以上にはなり得ない。
この風は、そんな世界の可能性を微かにでも信じたくなるような心を溶かす熱を持っている、希望の風だ。
もう一度その風に触れたい。そう少女が願っても、風は目にも留めずにまた知らぬどこかへと去っていく。
それが風だ。
風にはそれを聞き届ける耳は無い。それどころか、少女を見る眼も、通り過ぎた空気を味わう口も、自らが動いている事を実感する肌もない。
風は生物ではない。
だから、少女の崩れかけの僅かな希望を包んだ願いも、風には聴こえていない。
風は流れていく。
その果たすべき役割はなく、ただ偶然という不確かな運命に身を任せて流れるだけ。
それを知っていても、少女は尚も求め続けた。自らに確かな優しさをくれた暖かな風を。
だから、少女は走り出した。
一度見つけた希望を、掴んで話さないようにする為に。
追いつける訳がない。それはわかっている。
だが、絶望に満ちた世界に生きる少女にとって、生涯で初めての希望は余りにも甘美なものだった。
これが自らの生きた意味なのだ、とそう思うまでには。
故に足を止める事は出来ない。
少女は追いかけ続けた。
やがて来る冬の終わり、その小さな尾を。
———それが、リテアという少女の人生の転機だった。




